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「実際にやらないやつは何にもならない」とのこと

一人暮らしは苦しいことが30倍なので行動するようになる

横山先輩が「出れるなら実家は出ろ」と言っていた。
横山先輩は身長190cm、体重100kgのゴリラであり基本的に人間ではなかった。

「一人暮らしを始めると、良いことも苦しいことも起きる。良いことは変わらない。でもな、苦しいことは実家住まいの約30倍の量になる」
横山先輩は真剣だった。
「何でなんすか?」
「お前、一人暮らし何年目だ?」
「二週間です」
「じゃあいずれ気付く」
僕は「はぁ」と時が言えなかった。

2006年の4月。僕は一人暮らしをスタートしたばかりだった。

横山先輩は続けた。
「誰かとの別れは、よりいっそう響くし、風邪のときの精神的負荷は倍加する。とにかく苦しい。だがそれでいい」
「でも嫌な気持ちになるのは苦しいですね」
「苦しくならないと行動しない。人間は実際にやらない」
「別にやるんじゃないすか?」
「いや、やらない。苦しまないと今の若い奴は行動しない」
「はぁ」
「実際にやらないやつは何にもならない」
「まぁ俺はやればできますよ」

僕は横山先輩の話がピンと来るのにそう時間はかからなかった。

孤独が炎症を起こして化膿し承認欲になる

一人暮らしの脅威は寂しさだった。
ただ暮らしているだけでどんどん孤独は加速していった。とにかく寂しい、というかわびしいのだ。寂寥感せきりょうかんから攻撃的になっていき、まわりにやたらと噛み付いて、「一風変わった感じ」が自分のアイデンティティだと勘違いし始め、それを改めるひともいなかった。

「このワガママのような歪みがあるから俺はロックなのだ」と痛々しく思っていた。あの頃の僕は「変な人間」であることを「自分らしさ」と履き違えていた。

しかし「尖っている性質」なんてものは、生まれつき誰にでも備わっているただの調整ミスだ。とりたてて珍しいことでもない。こんなもので「ロックである」なんて自己性が手に入るはずがない。

一人暮らしは自分と向き合う時間ばかりになるので、このバカさはじっくり煮込まれて炎症を起こし始めた。ワガママを前面に出して、「素でいることが俺の誠意」と凡人丸出しの結論で暮らしていた。そしてどんどんバカになっていった。

何もしていないくせに、何者でもないくせに、まわりのすべてを見下し始めた。同級生や同業者を見て、「俺はもっとマシな人間だ」とねじくれた目線のまま心の中で吠えていた。

でもアレは何もしていないからこそ見下せたのだと思う。何もしていないやつは何も知らないので、何も見えていない。当然、何もしていないので誰も聞いてくれない見てくれない。

でも自分は只者ではないと信じ込んでいるので何かを始め出す。承認欲のかたまりなので認められたくて仕方ないのだ。「実際にやる」に到達した瞬間だ。

始めると世の中に通じない

音楽を発表し始めることなった。オリジナルソングを作りまくり、世に出しまくった。

こういう何かを始めると、どんどん打ちのめされていく。そして大したことない自分に気付く。上のレベルは容赦なくて、ひたすらに踏み潰されるようになる。

僕はそのまま成り行きもあって「歌を書いたり歌ったり、文章を書いたり。それを誰かにバンと出す」という行為を十年近く繰り広げた。
どのレベルにいても打ちのめされた。「俺もようやくこのレベルまで来たか」という安息の地など一度もなかった。

「とにかく行動する」ということで人間性が整頓されていった。
「実際にやる」でできた傷口はひどかったし、化膿してそのまま死んでもおかしくなかった。だけど、口だけ野郎でなくなった瞬間から少しずつ僕は育まれた。

やればやるほど只者でない自分に気付く

成長はした。だけどその伸びに対しての成長痛はすさまじく、決してニコニコしながら歩めるものではなかった。

キツイのが何かを書くごと、歌うごとに「自分は本気を出せば、すばらしいものを作れる可能性」が減っていくことだ。「自分は只者ではない」という可能性の目盛りはゼロに接近していった。

「行動すること」は行動しないままでいれば浸れていた甘い幻想に抗って、少しずつ自分の可能性を減らしていく作業だった。

キツイがそれでもやらないといけない。認められたいから。
そしてこの「実際にやる」という授業がなかったら僕は人間をやれていなかった。

「やればできる」と「実際やってみたけどできなかった」

「俺はやればできる子なんすよ!」から「俺はやってもできなかった子なんすよ……」に変わるのは本当に痛い。この経験は生き方を一気にシビアにしてくれた。「やればできる」と「やってもできなかった」の違いを肌で知れた。

「実際にやる」は可能性を破棄する代わりに「いまの自分」をひとかけらずつ引き受けてゆく作業だ。そうして「いまの自分」を大事にしていくのだ。只者じゃなかろうがなんだろうが、「いまの自分」を大事にするのだ。

できなかったことも、できたことも、良かったことも、悪かったことも、起きたこと、起こしたこと、やってきたことはすべて日々を「濃く」してくれる。でも「実際にやる」がないと、どれだけ吠えても人生はちっとも濃くならない。

過去を振り返って恥ずくなることが減ってきた

もちろん十年前には戻りたくないし、あんなにキツかった日々はごめんである。というより一年前でもゴメンだ。もうあんな毎日はやれません。ぐらいにはしんどかった。

でもその狭間で「あの頃ってなんか少し、ほんの少しだけ、良かったな」とか思うようになった。少しは「いまの自分」にできることをやってきたからかもしれない。ていうか「目の前のやるべきことをやる」だけでいいのだ。

過去に赤面したり、未来にビビっても意味はない。人生は刹那の連続だ。

「目の前のことだけに向き合う」というのは苦しい。でも「目の前のことを全力でやる」というのはいつだって自分を濃くしてくれる。そして「実際にやる」の価値がどれだけ尊いのかを知っていればいい。

こんなに貴重なことが目の前に転がっているなら、手に取らないのはもったいない。折れそうな夜に時折、ゴリラの「実際にやらないやつは何にもならない」が頭をよぎるのだ。

つぎは先輩の説いた道の選び方

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