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挑戦しないのは「損をすることが嫌だから」

「挑戦したいけどビビってできまへん」という話をよく聞かされる。

内容は転職だったり、試験だったり、新しいことへ飛び込むだったり、バンドの解散やら新結成やらMLB挑戦だったり千差万別だろう。

ファイナルアンサーは「やりたいひとがやればいいし、やりたくなきゃやんなきゃいいんじゃない?」なのだけど、自分に当てはめたり、本気で考えた場合は少々答えが変わってくる。

極論だけど挑戦しないのが一番よくない。

もちろんチャレンジャーじゃないと逮捕されるわけでもないし、罪に問われるわけでもないし、迫害されるわけでもない。

それでも挑戦しないで生きていくということはじつに恐ろしいことだと思っている。

これは僕の考え方が極端なのかもしれないが、そもそも人間が挑戦したくない動機は「損をすることが嫌だから」ではないだろうか。挑戦のゲームバランスは「成功の保証があればやるけど、失敗するかもしれない」というものだ。

それを嫌がるということは「損したくない」だし、言いかえるなら「傷付くことを恐れているから」だし、もっとエグるならば「自分はやらず、他者に責任を負わせること」を選び続けている。

たとえば「独立したいけどしない」ということはどこかに勤めているということだ。このいま勤めている会社にだって経営者がいる。この経営者に責任を負わすことを選び続けていることと同義だ。

つまり挑戦するということ、ある一定のリスクをとって生きていくという姿勢は「負荷を回避しない」ということになるし、挑戦しないひとは「負荷を回避して生きていく」という姿勢を無意識にとっているとも言える。

この姿勢を他人は見ているし、信用が貯まらないため、結果的には損をすることになっていく。

逃げた生き方をしていれば『いい人』という称号、評価と承認を得られるかも知れない。

でもその満足に浸っている内は責任を果たすことも、結果を出すこともない。失敗のリスクがそこに生まれていないので、リターンが発生しないからだ。

「他人からの評価を気にしてチャレンジしないことで信頼を失う」というイソップ童話のような話なのだけれど、意外と世の中で起きている事象だ。28〜35歳ぐらいのひとの人生によく起きている。

逃げ続けて勝負ゼロで歩みを続けると「自分が悪く見られないことに必死なやつ」という人格ができあがる。その本質は「他者に責任をおっかぶせる人間」というかなりキツイものになる。

年をとってからこの内面の醜悪さを抱えないためにも挑戦の機会が来たらやっといたほうがいい。
ファイナルアンサーは「やりたいひとがやればいいし、やりたくなきゃやんなきゃいいんじゃない?」なのだけど、やったほうがいい。

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