無茶と無茶苦茶

幼い頃から無茶をくり返してきた。

自分の限界に挑戦することで僕は「生」を実感してきた。

危険なこともたくさんしたし、今もしがちだ。

体中ケガだらけになったり、大事にしていたものを全部失くしてしまう、なんてことはザラだった。

それを繰り返しながら、ギリギリのラインを見定めてきた。そのひとつのラインとは「無茶」はいいが「無茶苦茶」は駄目というボーダーだ。

「無茶苦茶」になると人様にかける迷惑が度を過ぎたり、独りよがりということも増えてしまうのだ。

反対に「無茶」のラインの中で泳いでいる分ならば、失敗しても経験上、再起不能にはならない。

むしろそこで得た経験で一つ強くなれたり、普通にしていてはできない体験が手に入る。
無茶の中にこそ普段の自分には無い「火事場のクソ力」的なエネルギーが宿っているのはあなたも覚えがあるだろう。

幼い頃から繰り返してきた「無茶」だが、幼ければ幼いほど「無茶苦茶」が多かった。だんだん学んでくるものだ。

その「苦茶」を取り除いてくれたのは、先輩だったり、戦だったり、本や歌だった。思えば「それは苦茶だぞ」という警告が人生の至るところに散りばめられていたのだ。

そのタイトな「無茶」のおかげで、僕は貴重な経験ばかりさせてもらえてきた。今もさせてもらえている。
これが「無茶苦茶」だらけならば、そうはいかなかっただろう。ていうか今頃刑務所にいるか、死んでいるかだと思う。

無茶苦茶な事件が多い世の中だが、そのわりに無茶が減っているようにも感じる。

「○○してはいけません」が連打され、すべてにNGが出されがちだ。その反動なのだろうか。

竹下通りに頭のおかしい21歳が軽自動車で突っ込んだ。テロのつもりらしいが、一体何なのだろうか。無茶苦茶な馬鹿である。


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