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Final Fantasy XIV 黄金のレガシー 感想部:まじめ考察編

もう開幕二週間になろうというのに、自分の中でまだ理由がわからない熱が収まらないので、再びレポートに挑むことにした。

2024-08-06:追加:ライトヘビー零式を終えて思ったこと

▼前回のあらすじ

まず、『黄金のレガシー』に関して賛否両論が渦巻いていることは否定し難い事実である。自分は概ね楽しんでいたし、マムージャ族に対してかなりファナティックな愛情を持ってしまった方だという自覚もあるが、それでもシナリオと演出に全く粗が無かったかと聞かれると首を横に振らざるを得ない。

自分は元来『他者の価値を自分が定める』という行為が好きではなく、実際今まで長文で何かを評価するのを避けていた。良い言葉、良い感想というのは得てして短いものであると信じているからだ。しかし、トライヨラをまあまあ気に入り、最近になって心境が少しずつ変わったのもあって、好悪が激しく渦巻くこの黄金のレガシーについて自分もこういった真面目な批評を書き残しておこうと思った次第である。これも全部グルージャジャお父さんが悪いんだからねッ。

黄金のレガシーのメインストーリーを読んで、何だか腑に落ちなかった人に対する副読本として機能してくれれば幸いである。



仔細

・結局、ver7.0 黄金のレガシーは何が言いたかったのか

これを読む人が感想や考察記事で見たいのはこの結論の部分だろうと思い、最初に書ききってしまうことにする。

この問いに対する明確な答えを導くことはかなり難易度が高い。メインクエストの描写は明確な主張があるにも関わらず半端を極めており、多くの人間は人物描写の浅さやウクラマトの巨大すぎる存在感に気を取られ、主体性を奪われたことへの怒りでまともな考察を放棄して犯人探しをしてしまうことは容易く想像できるし、自分としてもその気持ちは僅かに理解できるつもりだし、同情もする。

そういった中、マムージャたちを愛し、グルージャジャに星を見出して、どうしてもこの話の核を掴みたいと思った自分は悲喜こもごもの感想群を漁り続けた。そして半月以上この物語に対して取り組んだ末にようやく自分なりに腑に落ちる答えを提出できるようになった。

自分は、この物語を表側は歴史、遺産、継承、家族といった題材で包装された『旅人』『往く路の果て』、そして『FF14のこれまでとこれから』をメインテーマにした自己言及であると推測した。

黄金のレガシーにはそれぞれ連王グルージャジャ、武王ゾラージャ、理王スフェーンという三人の王が登場する。彼らは一見何の共通点もないように見えるが、しかし、確かにある一つの理由からそれぞれ並び立つキーパーソンである。

彼らは皆、ヒカセンがこれから辿るかも知れない路の果ての暗示である。

連王グルージャジャ。それは自由な風であるはずのヒカセンがやがて王位に着き、国を愛し国に愛されて老いていく、ノーマルエンドを迎えた旅人。

武王ゾラージャ。それはヒカセンが自身の過去の選択と行いによって孤立し、ただ生きるため暴力を振るい続ける存在となる、デッドエンドを迎えた英雄。

理王スフェーン。それはヒカセンが失敗し、変えることができなくなった未来のために人柱となって運命を否定し続ける、バッドエンドを迎えた救世主。

そして、王たちはヒカセンの路の鏡であることを通じながらFF14のサーガそのものに無言の内に問いを発生させている。

ゾラージャとバクージャジャは問うべきだった。
人は祈られ使命を与えられる限り、永遠に戦い続けなければならないのだろうか。

グルージャジャは問うべきだった。
もし本当に全ての物語を歩き終えたその時、ヒカセンという一人の旅人はどんな存在であることを選ぶのだろうか。

ウクラマトとコーナは問うべきだった。
FF14とその主人公は確かに変わっていく世界の中で、これまでと同じような道のりをこれからも歩き続けていくことができるのか。

スフェーンと永久人は問うべきだった。
いつか来るFF14そのものが閉じられる瞬間を想像して、どんな気持ちでそれを待ち構えれば良いのか。

トラル大陸は問うべきだった。
伝説と冒険譚を土に刻んで遺せば、FF14とヒカセンの軌跡は遠い未来の皆の心の中にも存在し続けられるのか。

巡る巡る、自己への問い。トライヨラは底抜けに無邪気で明るい国であるように見えて、未来への漠然とした、しかし確かに存在する不安に直面している国だった。

この仮定を中心に据えた瞬間、歴史や継承や見えない繋がりといった表向きのテーマの存在感が一気に増した。「これからの10年」という単語から繰り出されるストーリーの正体がこれまでの旅路という石碑をもう一度さらいながら行う「自分たちはこれで良いのだろうか」という自己への疑問だったというのなら、確かにこれからの10年にふさわしい話で、正当性のある投げかけだと言わざるを得ない。……そして、この読みが正鵠を射ていることを願わんばかりである。

グルージャジャってそんなに大事な存在なの?という疑問が湧くかもしれないが、それは後の項で説明しようと思う。

フンムルクは問いに答えかけていた。
いつか自分の手からFF14が離れていこうとも、健やかに育つことを想い続けることは可能である。


・まず、ロールクエストを遊んで『自由』を知る

黄金のレガシーのかたき役はほぼ皆『自由』を曲解している。

対するヒカセンは自由な立場であるにも関わらず、黄金のレガシーそのものが大きな話の流れとして曲解された自由を否定し、家族や組織への連帯の重要性を表現している。ゾラージャとスフェーンはじゆうであることとふじゆうになることを読み違え、グルージャジャは自分の過去じゆう現在ふじゆうを無言で愛してしまっている。そんなストーリー全体の中にあってどうにも居心地が悪かった人はいるのではないだろうか。

ロールクエストはそういったメインクエストの描写で欠けていた『自由』とヒカセンのデッドコピーの話をしている。

黄金のレガシーの主張は何だったんだろうという答えのほぼ七割近くへのヒントがタンクロールクエストに詰まっている。この必死こいて書かれた素人の大長編の記事を読まずとも、クエストを観るだけで大体あ~そういうことね、と理解できるようになっているので、放置している人は是非遊んで欲しい。

眠る祈り子と眠らない守り手。起きていることと寝ていることをそのまま本編における生と死の照応だと理解し読めば、たった5クエストでトラルの狩猟様式から相手を知ることの必要性、そして眠り(死)の代替の是非、これらがテントーワとローデニケの行動によって示され、王の候補者たちが互いに何を伝えるべきだったのかという疑問はたちどころに氷解していく。最後にはプレイヤーの分身たるヒカセンがなんと勝手にプレイヤーの操作から離れて答えを提示してしまう。

なんだこの筆致は。なんだこの大胆な人物の操縦は。

――イシカワナツコ。貴方はそこにいるというのか。

「一人で自由になっても楽しくないんだよ。」
道を踏み外した自由な王への断罪の言葉。
この言葉を本編でずっと待っていた気さえする。
レンジロールクエストのセートジャもまた本質に迫った人物である。
相手を拒絶するための壁の異能と、それを溶かしていくコミュニケーションの対比。
相手を知るという行為が生む確かな路の存在。

自分で懸命に本編から答えを探して泳いだ後でここに辿り着けて、本当に良かったと感じている。

「人間ってのはとにかく不自由な生き物なんだ。
 やりたいうちにやれることをやっておかないと、
 あっという間に永眠のお時間。」

レオフィーヌ

祭器。

一見してご都合薄い本アイテムにしか見えないこれはどういう主張のための道具なのだろうか。確かな答えとして、祭り上げるための物ということ。そして祭り上げているものとはトラルにとっての瑞獣、トラルヴィドラールの力、その本質の『降って湧いた奇跡』であり、ロールクエストはその恩恵にあずかる部族たちが主人公だった。

祭器の力を用いれば、本来不自由だったはずの生活は自由になった。あまりに簡単に常人の範疇を超えられた。ただ祈る、たったそれだけで。当然人はそれに縋る。ある毒の脅威にされされていた荒野の部族は毒をまるで見えないものかのように振る舞い、ある凍土の部族は眠りを克服した不休の戦士を生み出した。大地に生きる人はそれで幸せになった――はずだった。

祈りの力に善悪は存在しない。外つ国から来た外にとってはほんの些細な悪意ある人々によって平和を謳歌していた善き人たちの祭器は奪われ、その力は一人一人の自由によって便利に、他者を拒絶するための力として使われ、その力は決して自ら手放されることはない。これは悪意の有無ではない。形ある力というものはそういうもの――『蛮神』なのだ。

トラルヴィドラールの権能と深く結びついた祭器とは、簡素にアイコン化された蛮神なのである。

「国民は皆、私に守られ、私を尊敬し、私への愛を叫ぶ……。
 それこそが、新たなるラザハンの姿なのだ!」

ヴィラザーン

奇跡。

エオルゼアにおいては人の祈りが蛮神を生むが、トラルの大地では逆さまに、大地に幻獣たるトラルヴィドラールが先にあり、人はそこに生きる幻獣に祈りを捧げるようにできている。しかし、祈られる対象というものは奇跡であれば何も瑞獣や神に限られない――生きている人間とて、祈られる。

奇跡を見出され、祈られた者は自ずと一人の人間の範疇だったものを超えて大きな存在へと膨れ上がっていく。ある時はヒーローごっこのヒーローが。ある時は偶然生まれた双頭の旅人が。ある時は本来生まれないはずと言われた子供が。ある時は雷光の中で死んだはずの記憶の塊が。元は普通に生きていたはずの定命が運命の差配によって祈りを背負い、『奇跡』の体現者という降りられない役者になっていく。

これは蛮神降ろしと同じくある種の降霊術であり、中南米問わず神話に広く存在するシャーマンと巫術の文化なのだろう。ヒカセンが新大陸で触れる大きな文化の一つがこのトラル様式のシャーマニズム/アニミズムの思想である。そして、蛇を通じた降霊術を用いるヴァイパーもハンターでありシャーマンであるというエオルゼアにとっては新たな異文化の職業なのである。

未来。

「完璧な人なんていないから、悪いところは誰しもあるけど……
 いいところがない人だって絶対いない。
 案外みんな、普通の人だって!」

「だからウチは、ちゃんと話して、相手のことを知って
 できるだけ仲良くなりたいんだー。」

セートジャ

「でも、それじゃ未来は何も変わらない。
 誰も信じず、よそと距離を置いて暮すんじゃなくて、
 皆を信じて、ともに仲良く暮らせる日が来れば……」

テントーワ

ロールクエストを通じて提出される主張は、そういった『人と奇跡の依存関係の脱却』であり、神の力から降りて別の未来を探し、生きる人同士の相互理解と共存へ手を伸ばしていく人たちの未来についてだった。

「大人でも道に迷うの?」

ヒューラン族の少年

奇跡を否定することは難しいかもしれないし、新しい道を探せば人は迷う。それでももつれた足を進ませて生きていく。そこには肩を貸し合うべき仲間がいて、いて…………

……

「オレは、寝ても覚めてもコイツと一緒がいい。
 いま言えるのは、それだけだ。」

テントーワ

……

「家族が帰ってくることに資格なんて要るわけないだろう!」

シャシェパ

……たとえ不格好であっても、帰りを待っている家族がきっといるからだ。

これらの何気ない問いかけや激励が本当はに向けられるべき言葉であったのかは、この夏の旅を終えたのなら自ずと察しがつくのではないだろうか。

自由。

自由であることと国に忠誠を誓うことは対立する。これはいかなる人間も破れない法則である。……では?王であることを請われた者が王として国を治めるために自由から降りなければならなかったのなら、その逆であり続ければ人は自由な風だと言えるのだろうか?

秘密結社『自由の扉』とはすなわち『自由の上辺だけをなぞって状況証拠から作られた"旅人"たち』であり、グルージャジャの対偶に位置する存在であり、もうちょっと言うと彼らは皆『"旅人"たるヒカセンと暁の偽物』なのだ。人は旅人であると自由である。なので、自由であるとき人は旅人である。……という重大に旅人を誤解している理路から生まれた者たちである。

かつてのグルージャジャたちの旅路への誤読から生まれた『自由』、そしてそう役割を与えられたのだからそう振る舞うのだろうという『冒険者』という概念への誤読、これらが彼らのやる事なす事がひたすらに空虚に見える原因だ。だから「国を興す」ことに対して「国を破壊すること」を目的としているし、「文化に馴染む気などさらさらない」ので「食べ物を注文しなかった」

人がなぜ旅をし、人と解り合い、分かち合うのか。もしその答えが自分になくとも、かつてのアルバートたちの戦いと叫びを知った者ならば、自ずと答えは口に出るはずである。

ロールクエストを通してトラルの人々の曇り空を知るとともに、冒険者のガワだけをなぞった偽物たる愉快犯たちの軽薄で不愉快な行動の数々によって「英雄から解き放たれた『ヒカセン』という生き物は一体何をすれば良いのだろう?」という光の戦士そのものへの自問を浮かび上がらせている。ヒカセンの道行きに雲はないはずなのに、なぜかどこにも行き場所がないような気がする。ロールクエストはつまりそういった夏休みの物語である。


・なぜ、描写とレベルデザインが壊れているのか

一言で済ませると、尺の不足である。

一回通して走れば分かるぐらいメインクエストでやりたかっただろう内容に対して尺が足りないことを匂わせるような何かしらの残骸がそこら中に転がり、メイン格の人物ですら性格が定まってないような振る舞いをし続ける。

元はトライヨラ一つで完結していたプロットに後からアレクサンドリアを突っ込んだと思わしきシナリオの形跡、そしてその結果従来のFF14の定食パッケージの上にある限り土台無理な尺となって生まれた『とにかく広いだけに見えるレベルデザイン』、『大量かつ印象に残る取捨選択が行われていないカットシーン』、『長過ぎるダンジョン/討滅戦同士の間をもたせるためという要請を匂わせるタイミングのインスタンスバトル』といった数々のQAが欠落したゲーム内容。

上記の結果各エリアで「1から10まで話そうとした時に突然5~8まで歯抜けになっている」ような奇妙な感覚が常につきまとい、サブクエストを回収する段でこれは確信へと変わっていく。黄金のレガシーは何らかの事情でメインクエストの描写だけがほとんど壊れているために、サブクエストを回収しながら進めないと本来期待していた空気感を味わえないようになってしまっている、と自分は結論付けた。誰が担当したから悪かった、というより複数人で紙面を取り合った結果紙が破れたように見えるという方が正しいニュアンスだろう。

(恐らく多くのプレイヤーがそうであったように)自分も物語の始まりから終わりを通して漠然とした『登場人物の言動に一本の筋が通っている』という感覚をほとんど感じなかった一方で、なぜか『物語が何かを言いたがっている』という曖昧模糊とした気配のようなものをずっと肌で感じていた。

『光の戦士は夏休みにトライヨラという南国で国を挙げて行うお祭りに助力を請われたので協力者の立場から参加し、勝利する(吉Pがヒカセンの夏休みというワードを発していたので夏休みであることを想定されていたのは事実とする)。』これだけで5W1Hは全て揃っているので、ストーリーとして問題なく起承転結を転がせるはずである。

ただし、これがFF14においてわずか前半5レベル分の間の出来事でないのならだ。

FF14には『突入できるインスタンスダンジョンとレイドの数がストーリーの進行によって厳格に定められている』という絶対的なレベルデザイン構造の欠陥が存在する。ストーリードリヴンと語られたゲームにも関わらずストーリーに合わせて実ゲーム部分が譲歩できる部分があまりに少ない。それでいてプレイ時間は人間の常識の範囲に収まっている必要がある。膨れ続ける物語の主張・仔細を交えながら1パッケージ/10レベル/6エリア/6ダンジョン/3レイドの原則を死守することは困難を極めることは想像に難くなく、これは結果論だが、5レベル分のプレイ時間というあまりに余裕のない尺で国のことを知りながらトライヨラの継承の儀を通じて四人の候補者を掘り下げて起承転結を盛り上げて落とすことは誰が執筆しても不可能だっただろう。事実、前半の継承の儀はあまりにもグダグダを極めた絵面になった結果ウクラマトに対するヘイトが飛び交う原因となり、後半に捩じ込まれたサカ・トラルとエバーキープも同じ末路を辿った。

トライヨラの連王がトラル大陸全土を統一したにも関わらず、継承の儀で北に触れられなかったことから尺魔法の何たるかを知るぶっちゃけエバーキープは後からねじ込むことが決定されたのでサカ・トラルの敷地を譲ったことが何となく伝わってくる。悲哀。鉄道を動かすところのやけに盛り上げられた楽曲つきパートは本当は試練のためにあったと思うんですけど……。

ヴァンガード前後からはもうハチャメチャである。前半は一応無口ながらも武人だったはずのゾラージャは理解不能の理屈を垂れ流しながら王であることに固執する戦闘機械となって帰ってくるし、その間ヒカセンはずっと長話を聞かされ続けつつようやくソリューションナインへと通され、スフェーンは一見しただけでは貴方のことを知りたいのか知りたくないのか掴み難い頓珍漢な態度のままラスボスに成り果てる。国を名乗るなら2人とももうちょっとまともに政治上の支配者として機能してください。

辛うじてグルージャジャとの対面での会話やウクラマトの出生話関連などにはきちんとしたフォーカスが残っているのだが、それも直前直後が滅茶苦茶なのをおざなりにして行われるので没入の難易度は高い。『最初からこうすると決めていた部分』と『後から変えざるを得なかっただろう部分』が明白に読み取れてしまうのは『結論ありきのストーリー』と批判されやすいし(擁護しておくと、脚本というものは普通欲しい場面/結果から逆算して書くものなのだからそもそもありきも何もない)、はっきりとシナリオの校正不足だと判じられてしまっても仕方がないと思う。

カットシーンの長さは暁月以上なのに必要な中身が存在していない。これのせいでほぼ全てのメインストーリー上の描写が本当にボコボコになっている。継承の儀が重要なら継承の儀だけで7.0は保ったはずであり、繋ぐ力が重要でも7.1~7.5でたんまりやる余裕はある話の内容なのだから素直に分ければ良かったのでは?と思うのだが、そうではないらしい。悪く言えばぶっちゃけ前半か後半のどちらかが全く要らないし、好意的に見てもやはり前述したFF14の1パッケージ定食ルールが重大な枷になっているとしか考えられない。上にも書いたが、ライターがどうであるかというより単純に主張の数がパンクして取捨選択を行った結果メインストーリーが壊れていたように思えた。

次の拡張からは素直にレベリングダンジョンの数とか増やしても良いと思う。

とはいえ、ゾラージャは父の(存在しない)期待に応えて父を超える、スフェーン(エターナルクイーン)は生前のスフェーンの期待に答えて永遠に増え続ける永久人を存続させる、という主張は一応存在する。そしてこのことから二国を繋ぐ共通のテーマであり、先述した物語そのものテーマを導き出すことができる。

二人は揃って数多くの誰かに何かを願われ続けた果てに壊れた、光の戦士のあり得たかもしれない路の先を体現している。

――ああ。
だから「あの人に背負わせすぎないで」とわざわざ忠告していたのか。

光の戦士がもし一人で多くを抱え込む為政者になれば、容赦なくあの二人のどちらか、一人では覆せない過去に苦しむか、一人で払いのけられない未来に押し潰されるか、という路を辿るという暗示。自分もこれを執筆していてようやく二人を繋いでいたものに気が付くことが出来たぐらい必要な説明も思考も物足りない。作中では結局、光の戦士自体が対立する道理の説明が不十分なまま(あれだけカットシーンが存在して!?)ほぼほぼ勢いで二人を殴り飛ばしてしまう。暁のいつメンが揃っているのにこれなのだ。

ゾラージャとスフェーンの二人にそんなことに苦しむ必要はないと言える可能性があるとすれば、それはウクラマトやコーナではなくバクージャジャである。かなり真剣に言っているのだが、ありえざるifだったとしても、過去を捨て登場人物、ひいては国民の皆に支えてもらっているバクージャジャという空想の絵こそがこの悲劇に叩きつけられるべき希望だった。彼ら自身に自覚はないかもしれないが、生まれなければ良かったと吐露できた瞬間の彼らこそが、真に物語の主人公に限りなく近い場所に立っている。


・なぜ、夏休みはすぐ終わってしまうように思うのか

「世界を救う旅ってわけでもないんだし、楽しみましょう」

アリゼー

――そもそもの話、一つの大陸を支配する王国の政治の行く末を決める旅って、十分とは言わずとも結構世界かかってませんか?当の王女が「王にしちゃならねぇ奴がいる……!」と真剣な顔で口にしていて、その上それは下賤なバクージャジャかと思いきや実兄のゾラージャの方だった。もう完全に遊んでる場合ではない。政治そのものである後継者の選別に加え、家族仲が完全に円満とは言い難い王族を目の前にして予想できる事態なんて10や20はあるのに何を楽しめと言うんだ。黄金に感じる主張の食い合わせの悪さはまずここから始まっている。

「国を知る」という行為そのものはグルージャジャからの宿題であり、またしても何も知らない光の戦士さんに対する指標として機能するいい機会である。しかし、問題はこれが「競走」と同時に行われているということである。競走であるということは何より勝者が一人であることを示し、他の参加者を出し抜き、急がなければならないのだ尺のこともあるから国のことを今知っている場合ではない、ラマチ。というかなんで王族が国の歴史のことを勉強していない?ラマチ。

ここまでの全てで『そんなことやってる場合か?』という疑念ばかりがどんどん積み重なっていく構造が出来上がっている。エレンヴィルが序盤に言っている通り、別に降りても構わないがヒカセンとしては国の一大事を引き合いに出されて断れる訳もない。ヒカセンはそもそも休める生き物ではないのかもしれない。

チグハグである。継承の儀がこの構造である限りプレイヤーの動機と目的がどうにも一致しないまま延々と話が続いていくように出来ているし、ここから話の主体をプレイヤーに戻すなら途中からレースの表舞台から外れて策謀に挑むような話作りが必要になる。これを両立させようとするならいっそのことヒカセンが単独で王に立候補した方が筋が通る。しかしヒカセンは政治的な人物にはならないしなれないのでこれは通らない。なのでここは別解を用意しなければならない。

一見して無関係なトライヨラとアレクサンドリアを繋ぐものは何だろうか。その答えは空にある。青く晴れた空。陽気な夏。二つの国の人々は為政者によって与えられた平和を謳歌しているが、夏休みは永遠には続かない。

ある永久人が知っている。「こんなこといつまでも続くとは思っていない」と。トライヨラの人間も知っている。「伝説のヴァリガルマンダはいつか復活し、連王なき大地に嵐をもたらすだろう」と。空はいつしか曇り、夏の熱気に立ち込めた積乱雲は大地に雷雨を降り注がせる。トライヨラの南国の空とヘリテージファウンドを包む終わりなき雷気は、はっきりと言われることはないが、けれど確かに存在する、生きる人々によって積み上がっている雲のように曖昧な未来への不安を映し出している。

二つの国が直面する老いと幼さは、土地そのものが8月の終わりに向かっていくような、さながら何の日記もつけられていないままいつか終わる夏休みを過ごしているような奇妙な居心地の悪さを生んでいる。この黄金のレガシーの『光の戦士の夏休み』とは純粋に自由な旅であることを指している訳ではなく、大地と、そこに生きる人と、英雄たちの全てにとっての『いつか来る夏休みモラトリアムの終わり』を暗示するキーワードだったのである。エオルゼアにとっても、トラルにとっても、掴めた平和は明日危機に晒されているかもしれない、じっとりとした少しの陽気な日差し。

(トライヨラの未熟と老衰については詳しく後述しているので、その項を参照してほしい)

梅雨が終わる。空は高くなって、流れ行く雲は邪魔な色のない空に己を存分に表現する。衣服を放りだしたくなるような熱気は人々を否応がなしに元気づけ、海は碧くなり、緑は青々となっていく。そうして遊んでいる内に、いつか夏ははっきりと終わる日がやってくる。

自分が幼少期に遊んだゲームは強く夏を感じさせるものが多かったせいか、夏のそういうところが大好きであり、今日この筆を執らせる理由になっている。


・なぜ、ウクラマト一人にフォーカス/ヘイトが集まるのか

自分の勝手な仮定になるが、以上の四人の候補者を掘り下げる尺が無かったことヒカセンは為政者になれないことがウクラマトが主人公にならなければいけなかった訳、だと感じている。本来は四人の候補者それぞれに個別ロールクエストを用意するぐらいの待遇が必要だったが、なにせ尺がないし、恐らく執筆側に書く時間も無かったものと思われる。そのためやむなくウクラマト一人にフォーカスを集めてヒカセンをその後方彼氏面役にさせることにしたのではないか。……まあエレンヴィルという存在がいる以上後方彼氏面役すらミス配役だった疑いがあるのだが。

『連王』が連王であることが話の主体なら、ヒカセンを脇に置くことは別にうしても最初からダブル主人公として前後半でウクラマトとコーナに活躍の場を分割するぐらいはするはずである。それがないということはやはり「二人で連王」は後付けされた理屈であり、最初はもう少し何かあったのではないか、と思っている。思ってももうどうしようもないのだが。

後述するが、ウクラマトのコーナが頼りない若者であることは何も本人だけのせいではなく、国そのものの状況を示しているピースの一つであるので、一概にこの二人を責めることは出来ない。教育の素人である父にろくな帝王学を施されなかっただろうウクラマトとコーナが王子王女を名乗りながら自分の立場に無自覚な人物になるのは仕方ないことだろう。

そもそもウクラマトは最初から王の候補になるべく育てられていたのだろうか?本人の口ぶりだけでは『新たな国になるにあたって、兄たちの急進的すぎる政治主張を目の当たりにして、後先考えず急遽保守派として継承の儀に出馬した』とも読めるのだ。温室育ちの末の妹がいきなり飛び出してきたという仮定なら、仮にも王室育ちでありながら下町人情以上の国に対する知識がなく、出発に際して年寄り以外からの支持層を得ておらず、自分の視界に映るもの以上の範囲の物事について思慮が及ばず、戦略面でズブの素人のような真似を晒し続けることも納得である。本当は何も教えられていない、日々狩猟に勤しんでいればそれで良かった少女が、父の作った国を守りたい一心で無理やり王の背中を追いかけているのだとすれば。……ロスガルの女性という大きな姿が彼女のパーソナリティをミスリードさせてはいないだろうか?彼女は本当はもっとそこらを歩くシュバラールの若き女性のように純真でいたかった子供だったのではないだろうか?

問題発言シリーズの一つである「君を要職に就けたい」発言も特に自分の立場とそれに伴う政治的な意味など気にしておらず、ただ単に『気に入った人間を仲間として加えたい』以上の考えなどないのは確かだ。数々の無神経な発言はそもそも良くも悪くも内輪サークルで出来ている、マムーク以外ほぼ単一派閥の国家での王族の発言に政治的な駆け引きもへったくれもないという(説明の足りない)前提から飛び出した言葉である、という留意が必要である。

「政治的に言葉を選ばなければならない状況」というのは(特に国内の)対立派閥との利害関係が絡んでいなければ出てこようはずもない。この国には政治的な働きかけをするだけの力を持った明確な左派や右派がいるようにはあまり見えない。退屈だと思う人のためにもっと分かりやすく腹にナイフとか行っとく?

なので、ヒカセンが国の王族に目をつけられて政治的立場がヤバイよ~~!!という真面目な場面ではなく、実際はもっとゆるい、旅人が未開の地の王族に気に入られてこれから厄介なことになるな~。ぐらいのテンションの場面として読み解くのが正しいだろう。あまり伝わってないが。

自分的には……ヒカセンを政治的に危うい腫れ物として扱わず、要職に欲しいよなどと無思慮で率直に言ってくれることは、今までされたどんな感謝よりも素直に良い顔をして聞き流せたような気がした。

自分はここまで来たヒカセンなら一拡張の間に人からデカ目の感情を載せられることには結構慣れてると思っていたが、周囲を見るにどうやら違ったらしい。ちゃんと漆黒で正体明かす前からベタベタしてくる謎の巨大感情赤毛ミコッテのこと受け入れたのに……。

よく疑問点にあがる「ウクラマトは自分に都合の良い人間だけを理解しようとしている」部分について。

墓の試練。塩田の赤いヨカフイ族にスタンスを譲らないことを示された時は本拠地まで『分かり合い』に行ったりせずにその場では「そういうモノ」として飲み込んだのだから、これを無視しては事実とは異なる言及になるだろう。

双血の教え。これはヨカフイ族とは事情が異なるため詳しくは後述。この時ウクラマトは事前に(一応は公正な)一対一の決闘でバクージャジャを制してこの場での上下関係でどちらが上なのか確定させた上での説得と棄教なのだから不思議な魅力パワーだとは思わない。この国の王という概念そのものが結構ヤンキーの理屈で動いている節があるのはさておき、むしろああまでやって儀式に勝てないバクージャジャとゼレージャに非があるのは明白である。

連王が殺害された時点で彼女の心情としては「実兄であるゾラージャが国を一番良く知っている上での決断としてトライヨラの家族を手に掛けることを選んだ」という部分に対する理解不能の感情が先行しているだろう。「知りて友となる」ことがトラルの法則ルールなのに、知った上で殺害することを選んだ兄に対してウクラマトはもうこれまでの自分のスタンスではどうすれば良いのか分からないのだ。ゆえに、この状況は口でどうにかできる段階を超えてしまったことをただただ哀しんでいる。

この場面の「お前は独りなのか?」というヒカセンの選択肢はFF9の楽曲の「独りじゃない」を強く連想させるように導かれていることは明確だ。幼い頃は家族でいれたはずの実兄ゾラージャにとって今のウクラマトは許し難い生き物になってしまっていて、自身だって内心はもう煮えたぎっているはずなのに、しかし、アイデンティティの大半を占めていた家族の父親と兄をもう取り戻せないという状況によって自身をほぼ空にされ、それでも心が本気で人を憎みきれない。そんなバグが起きた結果、半ば自我喪失に陥っていたのだろう。ヒカセンに孤独ではないことを指摘された彼女は、ようやく王女……というより妹だったことを一旦そばに置いて、空に浮いてただ自分を待つ船に対し『ゾラージャに対してはあくまで武王として戦う』という決意表明を行うくだりに繋がっている。

当然国王を殺すというのは取り返しがつかない状況であるが、だがそれよりもここは「妹が兄に父を殺され、その兄は国を人質にして自分も殺そうとしている」という悲惨な家族の分裂を叩きつけられている図であることが優先されるのだろう。家族と笑顔さえあれば幸せだった末の妹にとって今の状況は心を引き裂くような痛みを初めて知る場面だったのだ。

仲良しごっこは永遠ではなく、人はいつか大人まもりてとなる。

エバーキープとグルージャの傀儡政権疑惑。本当になぜこんなことなんでわざわざ言わなければならないのか分からないが、まずクラシカルな政治制度に当てはめても自分から戦争を吹っかけておいて武王が討たれた時の次善策を何も用意していない新アレクサンドリアさん側の落ち度が100%であることは誰の目をもっても明らかだ。話し合いを求める前にスフェーンは一人でぶらぶら歩いてないで対談に持ち込める仕込みをしろ。新何とか連王国の首脳二人がまともな思考回路をしていないのだからまともな政治の仕組みなどあの国にあるはずもない。戦争というものが武力と兵隊の駒を揃えただけでできるなら苦労はしない。最後に権限委譲を仕掛けていただけゾラージャの方が若干マシだが。そして本当にちゃんと政治が行われるならゾラージャが死んだ時にグルージャの首も一緒に飛んでヤースラニ荒野ごとトライヨラに再併合されてるわい。

アン・ロスト・ワールド/リビングメモリー。これもマムークと同じく存在そのものがあまりよろしくないものであるのは後述。いきなり知性に目覚めたウクラマトがつけた地名だが、『国王が地名をつけた』という部分はちゃんとした文化継承のポイントである。『新しく見つけた』土地に自国流の名前をつけるのはかつて大陸を旅した親父も行っていただろう行為であり、ウクラマトはその慣習に倣ったに過ぎない。というかいいだろ名前ぐらい。

先のくだりを読んで笑いが出るタイプの人間はもうどうせ既にウクラマトとか大嫌いだしあまり意味を理解する気もないと思うが、国王が名付けたという時点でどうあっても正当性はそっちにあるので、旅行者の諸兄はもし隣にいるのがウクラマトのような優しい人物でなければ現実でこういう場面に出会ったとしても思わず吹き出さないことをおすすめする。

というか、普通にエバーキープの仕組みを知ってなお『生きている記憶』ではなく『まだ失われていない世界』という解釈で名前を呼ぶのはかなり慈悲深い呼び方だと思うのだが……。え?脚本が言わせてるんだろ?知らん知らん

エターナルクイーンからわざわざ元のスフェーンの人格を取り出した上で更にドツき合いになるのは凄まじいヤンキー漫画濃度で笑った。黄金のレガシーにおいて分かり合いの中に肉体言語が含まれているのは割と本当らしい。そもそも相手のことをまず打ちのめす力が無ければ許すか許さないかを決める土台に立つことすらできないので、話し合いに殴り合いが含まれているのはある種当たり前のことかもしれない。思い返せばエメトセルクも終始「現行の人間に価値があるのか見定めている」という思いっきり上から目線の分かり合いだった。エオルゼアもトライヨラもヤンキー国家なんだ

ウクラマトのことを浅いルフィだと感じた人は、そのままグルージャジャが白ひげであることと、ゾラージャが孤独堕ちしたエースであることと、スフェーンがウタであることと、主人公がバカンスしてるミホークであることに気がついて欲しい。気がついたら話分かりやすくなるから。本当だって。黄金のレガシーは実質0.5ワンピースぐらい含んでいます。ポーネグリフもラフテルもあるしさ。

自分はここでウクラマト自身が父と兄の決闘に何もできず、国民を殺されてただ取り乱したとしてもあくまで自分の無力さが先であり、兄に対する嫌な罵倒の一つも出てこないことにかなり感心したし、笑顔という幼稚に見える目標に対する姿勢の本気さも感じ取れた気がした。人、いわんや肉親の争いに「憎しみを持ち込みたくない」という姿勢があるのはすごく立派なことであり、エオルゼア諸国で普通にぶっ殺し合ってる政治家たちに対して何ら恥じる必要はない。自分が保証する。

でもゾラージャの子供にグルージャという名前をあげるのは中々神経太いと思った

自分は他者に理路を整えた憎悪や敵対感情を向けられることを大人であることの必要条件に置きたくはないと思っているし、普通に考えて置くべきではない。争いたい大人がいるのなら争いたくない大人だっているのは当たり前のことである、ある意味この国そのものを包んでいるその無邪気さや幼稚さや青さは運命のあの日からヴェーネスが庇護し歩み続けた人間の未熟さであり、若き日の冒険者グルージャジャが人生を捧げて守りたかった幼さであり、そして今日ヒカセンが守らなければならない陽気さであるはずなのだから。

ウクラマトもふわふわしたこと言わされてヘイト買いまくって苦労してるな~とは思うが、逆にああいうヒロインがいきなりもう王様なんてゴメンだぜ!みたいなロック精神を発揮しても困るからあれで良いと思う。頑張ろ。本当にどうにもならなくなったら余った幻想薬あげるから。

個人的な主観の話だが、周りができた大人に囲まれて久しい人間にとっては辛い展開だったからといって、わずかに2代目の国主に対して完全に他国他文化圏にいるヒエン等を引き合いに出して為政者としての完成度がどうのこうのを望み始めるのは完全にただの甘えた旅行客の言い分ではないのか?冒険や旅というのは未知の未舗装の中に自分から両脚揃えてダイブする行為なのだから出会った人間の言動に一々イライラしているとキリが無い。

自分はむしろ「ドマの国の民が本当にやる気ないなら首あげるから好きに生きろよ」などと素面で言ってのけられるヒエンの方に薄ら怖い何かを感じる方であり、『侍』の価値観はぶっちゃけ気が違って見えても不思議じゃないし、そんな生き方を誰かに求めない方が良いと思っている。ヒエンは父と国を帝国に侵され尽くし、ある種無敵の人になったまま君主のロールプレイをせざるを得なくなった人であり、そして、人は迷う生き物だからだ。


……。


そこまで気に食わないなら、いっそ暁の皆で国ごと接収でもして『土の家』にでもしてしまおうか。

ウクラマトはどうせ頭が悪い、コーナも後先考えずにヴリトラという鬼札を要求してしまったような若造で、何もかもを絞り尽くすのは容易だろう。厄介なゾラージャは手前で始末したし、バクージャジャは自分が上に立つ威信をすっかり失くして武王の飼い犬だ。勇連隊は流れの槍術士一人に設備をベコベコにされる程度の腕前。ペルペルは商人としては立派な志かもしれないが根が善良すぎる。ハヌハヌとモブリンは文化そのものが半分他人頼り。ヨカフイは身体も頭も固いが未知の病気でもなすってやったらイチコロだ。シュバラールとマムージャは今なおほどけない因縁の縄で互いの足を繋がれていて、ちょっと戦争を煽ればそれで終い。トラル北部は今どき不殺で西部劇ごっこをやっているぐらい何もないのんべんだらりの土地。所詮は国の長が英雄や有識者を欲しがってくる程度の未熟で下らん国だ。


……。


まあ、そうだな。かつて色んな守るべきものを救ったお前が今生まれたばかりの、これから先往く国を知って抱いた結論が"これ"なら、アシエンも星海の果てで苦笑でもくれるんじゃないか。


・なぜ、トライヨラは幼く老いているのか

そもそもトライヨラは「生まれて80年の若い弱小国家」でありながら
生まれて80歳の老いた国家」
であるという説明不足で少々読み取りにくい前置きが存在している。再現性のない「奇跡」によってまとめられ興ったこの国はどうあれエオルゼアの諸国とは生まれから形の違う国であり、そして今この国はその形状、直球に言えば仲良しごっこのまま世代交代を余儀なくされているほど老いた、というのがこの国の重要な部分だ。……くれぐれも誤解してはならないが、仲良しごっこが出来ている国は悪ではない。国というのは時間をかければみな閉じた仲良しの国にゆっくりと収束するのは先の暁月の旅で知った通りであると思う。

こういう前提があると仮定すると、旅の仲間だったケテンラムとカフキワがなぜ表舞台から半ば強引に姿を消しているのかも説明がつく。ケテンラムもまた老齢を迎えており、カフキワのヴィエラ族の長寿命という部分はこの国の老いというテーマに対してノイズになってしまうのでトライヨラが直接手の出せない場所に隔離される必要があった、のだろう。

トラル大陸は壺焼きや石彫がメジャーな文化になっており、紙の活版印刷や文字に残す文化が最近まで殆ど無かった土地だということが寄り道を繰り返すと段々読めてくる。ペルペル族が金の試練を任されるほど重要な位置を占めていることの理由も伺えるし、ヨカフイ族の態度や、ハヌハヌ族やグルージャジャの歴史の失伝にも一応の説明がつく。メインを走っているだけではそうだと分からず、サブクエストなどを使ってゆっくりトラルに浸らなければ掴めない空気だが、トライヨラそのものが土と泥を焼き固めて作られている壺のような国であり、紙と眼鏡は本当に最近持ち込まれたばかりのものなのだろう。

「文化の継承を口伝に大きく頼っている」というのはこの国の特異な部分として掴んで欲しい。ヨカフイ族の墓が絵文字だけで出来ているというような詳細な記録を遺す習慣が存在しなかった、という部分がこの国の新しさ、そしてこれから朽ちていくかも知れない古さを物語る。

そしてこれらの皺寄せを引き受けたのがグルージャジャである。彼の真意、背負った運命については後述する。

総じて、若くありながら老いている国という文脈が描写不足によってコンフリクトを起こした結果、特に王族周りの脇の甘さに対して余計な誤読を起こしている感想が多いように見えた。

多分ライターに本気で未開国家に先進的な価値観を植え付けてやるぞ!という気があるならまず暁の誰かが連王制は綻びだらけであることをいの一番に指摘した後にイシュガルドめいた"先進的な"議会政治を始めさせると思うので多分そういう悪意の元書かれた話ではない、と思う。安心してほしい。諸国を見渡せば貴族と平民が椅子を並べて座る国も皆で車座の形に座って話し合う国も王が元冒険者あがりの元気なバカタレのヤンキーみたいな国であることもちゃんと尊重されていると思う。

ここらへんも後述するエバーキープのコアシステムの禁忌性の描写不足が響いてかなり誤読されている部分だと思う。詳しくはリビングメモリーの項で。


・なぜ、双血の教えは全否定されなければならないのか

「相互理解がテーマにあるのに、双血の教えは全否定されるのかよ」という意見がある。

はっきりと切り捨ててしまうが、全否定されるべきである。なぜならその教えによって生み出された『入魂の一作』は現に継承の儀にいながら何一つとして秘石を手に入れられていないではないか。

マムークに住まう双血の教えの信奉者たちは『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』という例えそのものの泥沼にはまってしまっている。『双頭を産んだら自分たちが勝てたし、王になる者が現れたのだから、双頭をもっと産み続けるべきである』。こういった物事の始まりと終わりだけを摘み上げた理屈の中には一番重要な思考である『なぜそうなったか?』が存在していない。動機と理由の伴わない目的と形だけの模倣に、歴史と継承の何たるかなど何度生み直したところで解せる日は来ない。この国が興った『理由』こそが王を継ぐ意味であり、王になったというのはただそれに付属してきた『結果』に過ぎないからだ。

もっと分かりやすく言い切ってしまえば、『双頭』と『双血の教え』は形を変えて共依存している『蛮神』と『テンパード』である。こう言えば、いまいち事態を飲み込めなかったプレイヤーもマムークという場所は何かまずいことになっているという事情は察しがついてくれるように願っている。人の祈りは蛮神を生む。だがそれは本当に王が、為政者が、力なき弱者だったからなのだろうか?

ヨカフイの旧き戦士の誇りとなら共存できるかも知れない。荒野に生まれた掟とやらとも共存できるかも知れない。だがしかし。どれほど彼らが哀れに見えても、個々がどれほど心を痛めていたとしても、この形だけの繰り返しという泥濘とだけは手を取り合ってはならないし、彼らは尊重するべき隣人ではなく連王という星の光で生まれた、掬い上げられるべき歴史の影だ。

天深きセノーテという底なし沼の存在こそが、この歴史の暗部の代表者たるバクージャジャを一対一の決闘で制し、本人の口から「もう終わりにしたい」という言葉を引き出さなければならなかった理由である。

……?

もしかして、フンムルクはこれを分かっていたからこそ選者でありながらウクラマトとバクージャジャの決闘のきっかけとなった自分が人質にされたという事件をなぜか他に伝えず黙っていたというのか?……というか、ゼレージャ以外の選者たちもバクージャジャを途中失格にする気がなかった理由はこれなのだろうか?

バクージャジャの年齢は恐らく人間に換算すると成人しているかどうかのガキであり、だからグルージャジャを知る年かさの選者たちはバクージャジャのことをあくまで反抗的な若造として扱っていた。ああ。リヌハヌのバクージャジャへの謎の強気な態度の意味が分かった気がする。これは地域の大人たちによる若者への手厳しい子育ての一環という意味も持たせられていたのか。マムージャの外見による年齢のミスリードはこういった読みを難解にしてしまっているのは否めない一方、解けると腑に落ちるものである。

後述するが、グルージャジャの友の試練の真意もここにあり、誰よりグルージャジャ本人が否定したい悲劇の再生産なのだろう。

天深きセノーテはそういう意味で迫力が足りなかった。ヴァナスパティであれほどのグロい絵面を引き出せるのだから、セノーテも"なり損ない"を大量投入してから満を持して3ボスで『メルティジェミニ』なら100点満点だったろうなぁ。

リピートとリフレインは近しい意味だが、そこに加わる意味は真逆に近い。この言葉の意味は空を覆う大きな曇りとなってトライヨラとアレクサンドリア、そして生まれてしまった王の代用品たちを包んでいる。

彼らを掬い上げるためには、生命は生まれただけで既に喜ばしいものなのだと言い続ける他ないのだろう。

……

そのメッセージは奇しくもウクラマトの……であるフンムルクからウクラマトへほぼ完璧な形で示されている。フンムルクとグルージャジャ。両者とも言葉こそ少なく、とてもとても不器用だったかもしれないが、それでもこのトラルの曇り空と黄金のレガシーへの答えそのものを持っている偉大な父親だったのだと言えよう。


・なぜ、グルージャジャは旅人ではなく王なのか

トライヨラの世代の特異性を一番に体現しているのは他ならぬ連王だろう。

彼はかつて旅人であった。しかし、自ら旅人であることを辞めて国王となった。なぜかメインクエスト中で突きつけられることが無かった話だが、冒険者であり旅人であることをアイデンティティにしているヒカセンにとって、これはどれほど重たい決断であるか、兄弟がどれほどこの土地を愛した末の決定かというのは無言のうちに察せられると思う。連王グルージャジャは国民にとって偉大な王であり、そして偉大であるがゆえにかつて路を分かったヒカセンにとっての人生の大先輩だった。

そうして皆に支配者たるを求められたグルージャジャは老いていくうちに熱心に『自分を生み直そう』とし、将来の国の支えが足りないと分かれば(あるいはかつて冒険者だった頃の気質がそうさせたのかもしれないが)積極的に捨て子も拾い、果てはただ闘技大会に優勝したというだけのほぼ一般人に(バクージャジャが双頭であることを加味したのかは不明だが)王位継承権を与えるほどに焦っていたのだろう。グルージャジャは完成された王であったために自分の弱音を他人に見せることはほぼないが、そうでありながら、冒険者としての素人の親心では帝王学においては赤点のような振る舞いしか行えなかっただろうことは想像に難くない。

推測だが、(外つ国の人間の目では分からないだけで)グルージャジャは特異な体質ながらも普通ならいつ死んでもおかしくないほどの高齢だったのだと察せられる。理王が自然死しているということは武王もまた老衰が目の前であり、(本人的に)最後の試練として候補者にギリギリ立ちはだかれるかどうかの体力しかなかったのかもしれない。恐らくゾラージャに刺されずとも機械兵に対して全力の「燃えよ天道、進めよ吾道」をもう一度行えば確実に死んでいた、というぐらいに。

ヨカフイ族の司祭長グーフールーも選者になるにあたって薬品の類を飲んで無理に運動している描写があることからも、そう体力に余裕がない立場なのが伺える。誰かが候補者全員失格となって仕切り直しになれば……!と言っていたが、多分それは叶わない。仕切り直しが叶わないほどこの国の刻限の時は近かった。ウクラマトの成人はギリギリのタイミングだったのだろう。

英雄は語る存在ではなく語られる存在である、と先の日記に書いた気がするが、結局、彼はそのルールを守って死んだように思う。自分の成した冒険や偉業は再現しようと思ってできることではないし、それで良しとしたのだ。冒険者の冒険は自ら路を開いて行われるべきものだし、身も蓋もないネタバレなどもっての他である。

ヒカセンは為政者になってはいけないというルールを先述したが、かつての冒険者でありながら王になってしまったグルージャジャは、半ば自らが種を撒いたとも言えるトラルを覆う繰り返しの呪いに対してメッセージを無言のうちに送り、期待していた。最後の試練にトライヨラ一番の暗部である双血の教えが伝わる場所を選んだことは明確に意図的だろう。「連王の再生産を自分の手で否定し、お前たちで新たな時代を迎えろ」という王としての最後の願い。父としての古きトラルへの決別の言葉。――そして、双血の教えを守るマムークの民とゾラージャにとっての全てを否定する採択。

友の試練は正確に言うと「全盛期の連王を倒せ」ではなく「仲間を見つけてこい」というお題である。想像だが、恐らくどれだけ候補者が武勇に秀でていたとしてもそういう問題の外、一人で挑む限り絶対に勝てないという仕掛けであることがキモなのだ。

これがどれほど重要なメッセージだったかは言うまでもない。自分でさえこの物語のハッピーエンドはバクージャジャがもたらしてくれると信じ縋りたくなるような奇跡だ。だがしかし、メタ的であるが、奇跡が奇跡であるが故に再生産されたゾラージャとバクージャジャは王になってはならないのだ。

冒険者から見てトラル大陸には地味かつ大きな違和感が一つ存在する。
冒険者という単語がそもそも人々の日常会話の中に存在していない。

士農工商、それぞれの従事者がいて、王がいて、その下に行政が存在している。そしてその中に旅人という存在だけがない。治安が安定していて行政が機能している国には、そもそも『何でも屋』なんて存在しうる隙間がないからだ。成り立ちの前提にルイゾワがいない世界で、だからこそ冒険者という住所不定無職はこの世界ではどこまで行っても傍観者でしかないような気分に包まれる。

これはきっと意図的だ。グルージャジャは完成された国のために王となったが、きっとこれはそのまま完成された国に"旅人"はいなくなるという世界の法則を暗示している。シャーレアンにはグリーナーという高度に制度化された旅人もどきしか残らず、トライヨラの理の院が敷く行政の下に冒険者とクエストの酒場はなく、エバーキープでは閉じられた世界で駆除人が借り物の力と命を振るい懸命に仕事を行っている。

グルージャジャの遺した世界は無言で問うている。
世界が完成すればするほど冒険の余白が減っていくことの矛盾を。

この世界において自由に足を動かすというのは、思っているより難しい話なのかもしれない。

おまけ。

アゼムの座は太陽を示しているが、今作でこっそり多用されている天道というワードもまた太陽を示している。連王の英語名は『Dawnservant』であり、夜明け、つまり太陽の巡りに仕える者という意味を表している。トライヨラの王座は最初から太陽という星の巡りの奴隷であり、グルージャジャは理由がどうあれ自ら旅人であることを捨ててそれを受け入れたという暗示がたった一語の英語で行われていた。

ちなみにモロコシ様は英語で『Cornservant』である。どういうギャグやねんと言いたいところだが、黄金における人工的に生まれた蛮神たちを鑑みるに、○○の化身なのではなく、あくまで○○の使いであるという建付けの意味は重要なのだろう。自らは精霊でもなければ神でもない。ただの精巧極まる魔法人形かもしれないし、よく分からないイマジンのナニカかもしれないが、自由なる者というものはあくまで祈られる者にあらず、己が意思で勝手気ままに動き代行しているに過ぎないものなのだと。

……このワード選びと暗示を日本語でもやれ!!!!!!!!

――全てが終わってしまった後で、独り。

勝手な妄想だが、『全ての悪事を暴いた後にゾラージャorバクージャジャを正当な王として立て、残りの三人でそれを支えてトライヨラの護国の四将の構図を作る』という最終目標なら四人の掘り下げとヒカセンと互いがそれぞれを知るという工程も並列して行えて、少なくとも継承の儀はみんなハッピーで終わったんだろうか……と考えることはある。

それこそが連王としての、父親としてのグルージャジャが見たかった景色だったのではないか――?


・なぜ、ゾラージャとグルージャに母親がいないのか

『ゾラージャの母親がいたかどうか』は未だ大きな謎として残っている。今後のパッチで話されることがあればそれで良いのだが、恐らく回答としては『母親の存在』を強調するためにあえてプロットから消えたのだと思う。ウクラマトはトライヨラのみんなを愛する者であり、スフェーンは永久人たちを愛する者であり、バクージャジャの母は歪な生まれであってもバクージャジャを愛している。令和の世にこういった性の役割的な話をするのは危険なラインを突いていると思うが、それでもそれを書くために多少強引にでも話から消された、と読んだ。

――では、ゾラージャは?

単為生殖だろバクージャジャがそういう役に収まったことで、恐らく対存在として作られたゾラージャもまたそういう役になってしまったのだろう。母親がいない=存在理由を無条件に肯定されない者として。

グルージャは「何も遺さなくても父親じゃだめだったのか?」と問い「俺はお前に何も求めない」とゾラージャは返答する。ゾラージャのことを深堀りすると薄々感付くと思うが、これは呪いを断ち切っているように見せかけて、その実グルージャジャがゾラージャに明確に何かを求める発言がなかったことの構造をそのまま繰り返している。……もし、王が生まれたばかりの長男坊にお前は奇跡の子だとうっかり声をかけてしまったことがあったりしたのなら、それはもう……残酷な……。

「奇跡を為すもの」だから奇跡の子なのではなく、「今そこに生きていることが既に奇跡である」から奇跡の子なのである。親から注がれた当たり前の愛情を致命的に誤読してしまったゾラージャは、もう誰の心も理解し得ない孤独な魔王の路を行く。グルージャジャとフンムルクのそれぞれの無言の愛情は、二人の子供を致命的な岐路で分かってしまった。

ゾラージャを知るためには重要な材料が不足している。一番最初に足を踏み外すきっかけ、つまり『なぜ?』が作中で提示されなかったがために、彼の言動が空洞であることの理由をこちらで勝手に想像するしかないのだ。

①生まれたときから人格発達に欠損が存在していた
②特に大きな要因などなく、周囲からの期待でそうなった
③何かしらの言霊(奇跡の子としての責務)を吹き込んだ身近な人間がいた

3つほど候補があるが、これらの説で共通して導き出せるものとして『ゾラージャ自身に倫理のブレーキが存在していない』という点がある。言われたからそうする。請われたのでそうする。そうで在るべきだからそうで在る。

「ペルペル族はアルパカが大事な家畜」
→「一番性能の良いアルパカを最速で捕まえればヨシ!」
「ヨカフイ族は戦いの中で平和の尊さに気がついた」
→「だからもっと戦えばもっと平和を愛してくれるようになる!ヨシ!」
「かつて二つの種族は食で和解した」
→「同じレシピで同じ手順を守って作れた!ヨシ!――?」
「友の試練はグルージャジャを倒せば成功となる」
→「自分は二人分の能力を受け継いでいるので倒せる!ヨシ!」
→負ERROR ERROR ERROR ERROR
「存在価値を取り返す必要有り。父は子供を作ったので作成。」
→「…………?」
「ERROR ■王になるためには ERROR」
→「ERROR 邪魔するやつを殺せば■■!」

というような思考の順序が存在したのではないだろうか。自分だけの生きる理由が存在しないがために友でも仲間でもない者から入力された理屈だけを正確にトレースし続ける機械人形。その空洞な生き方はやはり蛮神に似る。

興味深い考察として、「ゾラージャの妻/グルージャの母親はレギュレーターによって消されたもういない人物」だというものがあった。本当にもしこれが真相なのだとして、それが種明かしされることがあったら、正直自分もエバーキープ編への評価を改めてしまうかもしれない。その前置きが存在した上で徹底的にいないものとして書かれたのだとすれば、それはかなりいい線を突いた作劇なのではないか?だがこの場合リビングメモリーに母親がいない理由がなくなって、実際の結果に少し釈然としなくなってしまうという面もあるかもしれない。

「青いフビゴ族は、アンタとグルージャしかいねぇだろ!!
 バカ野郎が!!」

この言葉が凄まじく解釈が分かれる発言だったようだ。個人の主観では直前にグルージャがこぼした涙から始まる一連の言葉への全面的な賛同である『あんなに良いオヤジと"血の繋がった親子"というだけじゃ満足できなかったのかよ!!』という意味での叫びが正しい解釈だと思った。ウクラマトは純真にすぎ、それを見るプレイヤーの一部は親に思うところがありすぎたが故にすれ違いが起きている。

――実子がそこにいて大きく育っているということが、既に子供の存在理由レゾンデートルの証明そのものじゃないか。ウクラマトもコーナも訳ありの捨てられた子供で、親というものが欠けている状況から人生が始まったんだ。その2人から見ればゾラージャは何も悩む必要なんてないはずなのに。トライヨラは王宮の直下に子供の公園が作られてるような国なんだぞ。それなのに。なんでそんな善い国を切り捨てようとするんだよ。親子を切り捨てて一人になろうとするんだよ。なんでだよ。なんでだよ――!!

非情にも、家族と仲間は違う意味の言葉であり、ウクラマトが欲しかったものとゾラージャの欲しかったものはずっと違っていた。これはそういう話だった。

ウクラマトは身内が何も歩み寄ってくれないまま死のうとしていることに絶望し、本当は今すぐにでも声を荒げて泣きじゃくってしまいたいはずなのだ。でもそうしない。自分以上に泣きたいグルージャが隣にいて、自分は武王と名乗ったからだ。

グルージャジャは養子を取りこそすれ、実子をわざと蔑ろにするような人間とはとても思えない。ちゃんと肯定してやりたかっただろうし、もしかすると生まれた瞬間から壊れていたかもしれないゾラージャへの取っ掛かりが見出だせなくて悩んでいたのかもしれない。全ては謎なのが惜しまれる。

黄金のレガシーを通して父親は無条件な未来の肯定者、母親は無条件な過去の肯定者であるという描写されない前置き、そしてそこから来る親の無言の愛情を無から読み取らなければ一応の想定解に辿り着けないようになっているのでとても難解だと思うし、事実難しかったので肌の色の話にまで飛び火している。大変だ。

彼が何だったのかについてコンテンツファインダーの概要欄に僅かな説明がある。彼に必要なのは対等な『友人』や『仲間』の存在であることは正解だったようだ。そして、ヒカセンという無色の個人なら隣にいることはできたのだ。なぜならヒカセンもまたその手の『孤独』を抱えた自称友人と大陸を股にかけて遊んだ経験があるから。ヒカセンもまた知ることができるのだから。

あのヤクテル樹海であと一手、ヒカセンから手を伸ばせたら。あと一歩、ヒカセンから歩み寄れたら。この物語の結末も、それを取り巻く評価も大きく変わっていただろうと思い起こすのだ。

こういう手合って最初に強めにシバいてキツめに抱いたら懐いてくるところないですか?多分これゼノスの飼い方だな

『黄金のレガシーは実親の存在を否定する価値観のアップデートの押し付けだ』という感想がないこともないのだが、完全な誤読だ。そもそも過去のFF14に実母属性なんてそんな頻繁に無かっただろ。今回に至ってはメインクエストだけでバクージャジャの母ミラージャ、エレンヴィルの母カフキワ、クルルの母アライラの三名がスポットを浴びているのでむしろ断てない血と因縁の繋がりはよく描かれている方でさえある。


・なぜ、リビングメモリーは死ななければならないのか

※ここらへんは自己流の解釈が多大に含まれるので間違っている可能性が高いです

「いやこれは虐殺やろ」という意見が多数あるが、そもそもリビングメモリーと永久人はきれいに見えるだけでこの世に"絶対に"存在してはならないものという描写が足りていないのであんまり事情を飲み込めていない人が多数出てくるのかなという感じはする。

永久人は既に手遅れになった存在であり、ウルティマ・トゥーレを漂う幽霊たちと実態に大差はない。それを『まだ終わりではない』と捉えるか否かが原初世界側とアンロストワールド側(実際はほぼ永遠の女王エターナルクイーン1人)の意見の差異である。

ではなぜリビングメモリーは消されなければならず、ウルティマ・トゥーレの思念体はその場に残れるのか。そもそもウルティマ・トゥーレはエーテルのルールが及ばないデュナミスの支配領域であり、レポリットの介在によってオミクロン星人を始めとした先行く星々の住人たちは生きる意味を探すというベクトルを自ら持ち始めた〈有効部族クエスト:オミクロン族〉が、永久人はエーテルを食う命でありながら自発的にデュナミスを持つ機能はない。再現された記憶にデュナミスは宿らず、何百年何千年と放置してもあの世界の住人はあの閉店間際の遊園地のような世界の上でずっと変わらないままリピート再生され続ける記録であることが(エターナルクイーンによって)確約されているからである。自らの死を受け入れた一部の人が現実に合わせて一気に歳を取っているのは、裏返せば外部介入がなければ自分が今生きているのか死んでいるのかすら証明できないあやふやな存在きろくだということだ。

事実クルルの両親は、自分が置かれている状況に恐らくクルルが接触するまで全く疑問を持たずに過ごしていた。カフキワは生前からよほど興味が外に向いていたからこその例外的な存在なのだろう。

そしてそういった永久人は外のヘリテージファウンドの領域内で死ぬ人間がいる限り恐らく無限に増え続ける。生きているふりをしながら生者を求め、死者を食らい星の祈りを吸い上げる世界の形をした化物の誕生である。地球に例えると『突然国の土地に超巨大ドリルをぶっ刺して莫大な量の地下水と石油を地盤が傾く勢いで吸い上げる異星人』がいれば当然原住民から強硬なコンタクトを取られて然りであることは分かると思われる。スフェーンの言う『史上最悪の王』とはこの部分を指しているのだろう。

他にもヘリテージファウンドから向こう命ある身体であることから逸脱しなかったスフェーンが機械兵を自在に乗り移れるにも関わらずあの戦闘で身体を捨てなかったことと、エバーキープ最上階で自ら身体を捨てたことは上記の文脈に乗って同一の意味合いを持っているなどの細かい点も挙げられるが、言っているとキリがないので割愛。

『リビングメモリーにおいて永遠の女王スフェーン以外と武力衝突する場面は存在しなかった』というのは意図されたものであるように思える。殺し合いのするための場所ではない、という前提がきちんとあるならそれを言った方が良い。

エーテル学の話になるが、FF14において生き物の身体は正確には生命エーテル(元素エーテル)と魂エーテル(と精神であるデュナミス)で構成されている、と思われる。リビングメモリーが消費しているのはこのうちの魂エーテルであり、生者と死者の記憶に相当する。そして暁月~黄金の描写を見るに死者の魂/記憶が星に還元されないという状況は少なくともFF14時空にとっては最大級の禁忌であるという前提が存在するように見受けられる。だがこれが説明される場面は今までも今回も存在しなかった。説明をしなさい説明を。


・なぜ、プリザベーションは組織されているのか?

「いくらエレクトロープ技術はすごいと言ってもハイデリンにおけるガイア理論の根本だろう魂の流れをほぼ完全に掌握できているとかどうなってるん?」という疑問が存在する。言われてみればいくら超技術オーパーツとはいえそのエコシステムに手をかけられるのは神の領域……というかもはや……「世界の創造」にまで手が届く神業だ。原理は全くもって不明だとしても、少なくとも、この技術を研究しうる者が存在したとすれば、それは国家どころか原初世界と鏡像世界含めた惑星ハイデリンそのものへの脅威/挑戦者である。

……?

暁月を過ぎた今、その星の中核たるハイデリンが存在していないじゃん。

仮説。現時点でスフェーンの死後を狂わせた元凶と思わしき組織が一つ存在する。秘密結社プリザベーション。一度は彼らの目的を鏡像世界による原初世界の乗っ取りだと推測したことがあったが、本当の目的がエバーキープでの実験を経た『原初世界と鏡像世界を含めたすべての世界の結合、及びその受け皿となるハイデリンではない全く新たな天体機構の創造』だとすれば?……プリザベーションが握っている未知数の知識と目的は、アゼムの座代行とシャーレアンの賢人たちが追いかけるにはふさわしい夏休みの自由研究であることは間違いなさそうだ。

出会うことの歓びとわざわいを描写してきたFF14にとっての、次なる巨大な波を予感せずにはいられない。

――行き止まりを迎えた旧世界と、これから生まれ出ずる穢れのない命のための新世界。FFのどこかで聞いたような、そうでもないような。


・おまけ、生と死が絡み合う世界、戦士と生贄の世界

※筆者は中南米の文化を専攻していた訳では無いのでアテにしないでください なら書くな

トラルの世界において生命の生と死は常に隣同士にあるものであり、『肉体の死は必ずしも生命の終わりを意味しない』という言葉が大地を駆けぬけている。この言葉の源流はトライヨラの原典たる南米・メキシコの死者の日、更に遡ること数百年以上前のアステカの祝祭であることはほぼ間違いないと思われる。近年で言うと他ゲーム作品のナウイ・ミクトランラウドボーン等と源流を同じくする創作物だと言えばピンと来る人はいないだろうか。

(アステカって割と最近まで残っていた国だというの忘れがちでした。申し訳なく思っています。)

トライヨラの王宮はチチェン・イッツァを始めとする太陽の祭壇であり、その周りをペルーの山岳、アマゾンの密林、壮麗なるセノーテが取り囲む構図。南米色を色濃く反映した拡張であることは明確だ。そしてトライヨラが太陽の神殿であることに気が付けば、同時に『太陽の暦の一巡り』がもう一つのテーマとして仕込まれていることに気が付くようにできている。先に述べたように、これはトライヨラの老化と継承に大きくかかっている部分である。

『Dawnservant』とは夜明けをもたらす召使であり、その魔術が火球の形を取るのは太陽のカタチであるから。『天道』とはそのまま太陽であり、『黄金』が示すものは日の巡りが存在しなくなった常若の黄金郷であると同時に、トラルの日没と夜明けの両方である。そしてその国にやってくるアゼムの座の代理人は王と並ぶ素質を持つもう一つの太陽であった。

生まれる理由。死ぬ理由。

この土地のテーマを鑑みて。旅人としてのアシエンとの戦いの振り返りと、それを踏まえた上でのシバルバーになぞらえられる冥界行、そしてその先での永久人との対話。そこで(FF10とFF9のモチーフが)互いに一歩ずつだけ歩み寄った上で『死と消滅は必ずしも悲しむべきことではない、自然に死がある時そこには同じように新しく生まれる命が存在するはずだ』という異例の解答と共に行われるリビングメモリーからの死者の開放へときちんと読了感を持たせることが出来て、そこでようやく黄金のレガシーはメインクエストとして完成するのだと思う。

トラル全体を覆う異様な死生観をまとめて2つのFFのモチーフをミックスして流し切るというのはそこらのライターの手に負える題材ではないのかもしれない。自分とて客の目線から他人の回答を一度見た上で20日近く悩まなければこの答えをまとめることは出来なかったし、実際現状のメインクエストを一瞥しただけではこの物語はどんなテーマなのか/どんなテーマを書きたかったのだろうかということへ想像を膨らませることは困難を極めている。

メジャーな古代の南米世界において戦士と生贄の血なまぐさい文化は避けては通れない。戦う。死ぬ。心臓を捧げる、物理的に。生まれ変わる。また戦う。また血を捧げる。そうして大地は癒やされていくのだと誰かに語られる。今回のレイドは現代に残るプロレスから遡り、そんな戦士の輪廻に着目している、のかもしれない。

至天の座アルカディア。唐突にギリシャ圏の言葉が出現し、若干浮いているような気がしないでもないが、その実、南米式のプロレスであるルチャ・リブレの形式で行われる闘技大会…に見せかけたナワルの戦士による生贄の儀式ともいえるものを通した形で「Et in Arcadia ego / 死神はアルカディアにおいてでさえも存在している」、という生と死の隣接性を示すメッセージが浮かび上がってくるようにできている。

闘士が魔物の魂をインストールして戦うこととトラルの伝統的な職業のヴァイパーが蛇の魂を降ろして戦うことは古代南米におけるナワルの戦士(巫術の使い手)という同一ラインの文脈上に存在すると言い切ってしまって良いかも知れない。光の戦士はこのルチャを通して、マヤの戦士としての死生観と生贄を求めることから降りたケツァルコアトルの逸話をなぞっていくのだろうか。


・その他/よく考えないといけなかったところ

  • 【バクージャジャの人格がヤクテル樹海前後で急変している】

    • タコスを明確にわざと踏みつける、ヴァリガルマンダを(自ら討伐する目的ではなく)ただただ逆転の目が薄くなった儀式を荒らすためだけに解き放つといった悪行の数々と、ヤクテル樹海での友の試練直前からの言動に何か明確な差が存在する。

    • これについて、自分は『継承の儀の表舞台を執筆した人』と『マムーク~リビングメモリーの死者たちについて執筆した人』は恐らく別人であると推理しているため、バクージャジャもそれに巻き込まれて一貫しない人格になったのだと感じた。

  • 【シャーローニ荒野周り】

    • トゥワインのリフレイン以上の印象があんまり残らない。自分は、というかここに至っては多分かなりの人数があまりにも露骨な『受けの再生産』に辟易としているだろうが、わざわざあの時のアム・アレーンで完結したはずの社長を再登場させるのはなんか違うな……という感想になる。

    • 書いていて思ったが、誰かに誰かの生まれ変わりや代替であることを望むことは黄金のレガシーの物語において最も残酷な行為だ。自分は日頃からアゼムの生まれ変わりではないという立場を堅持しているが、今だからこそあえて、『ワーリカは決してマグヌスの代わりではない』とはっきりと言わなければならない気がした。

  • 【リビングメモリーで原材料を知りながら食い物食うヒカセンとラハ】

    • 「死んだ人間の魂を直接捏ねて作った食品」のではなく「(死者の魂を燃料にして動く)データセンターに演算されて生まれた食品」とすれば一応はライン超え行為ではない。それでもなんだか欺瞞感は拭えないように思えるが。

・その他/考えても普通に理解不能だったところ

  • 【壺の試練、ウクラマト誘拐前後の登場人物の奇行】

    • 壺の試練の前後、なぜかウクラマトはまんまと拐われる、ウクラマトチームは疑うことなく棒立ちで待っている、コーナは一回解かれたプヌティーをわざわざ捕まえ直させようとする、などとそんなことやってる場合か?というような奇行がかなり目立つ。最初の二つの試練と比較してもなおおかしな部分なのだ。

    • ハヌハヌ族でコーナ、ペルペル族でゾラージャにスポットを当てているので、モブリン族ではバクージャジャ陣営にスポットを当てるためだと思うのだが、ゾラージャのお付きの「バクージャジャに対してあの身体はまだ必要だ」という発言が回収されないままだったのも含め、この周辺はかなり謎が多い。どうせ尺だけど

  • 【リビングメモリーに配置された悪趣味なアクティブモンスターの数々】

    • 個人的に黄金を通してここが一番引っかかりが強いし、何なら普通に不快である。『リビングメモリーを丸々最後のエリアとして作ったのだからそのエリアでの遊びを提供しなければならない』という要請が存在していることは明白だが、ストレイバローと合わせてその敵がとことん露悪的なのは全く意図が分からないし、仮にも理想郷として作られた場所に意味わからん敵性体を置くな。

    • このエリアにおいて『黄金郷の敵は全て非アクティブかつ無害なエレメントと動物しかいない』レベルの割り切りをしなければリビングメモリーとスフェーンの描写の意図はほとんど伝わらないし、事実大多数に伝わっていないではないだろうか。

    • 暁月のウルティマ・トゥーレも趣向は違えど似たような状態になっていたためにあの時点から疑問符を浮かべていたが、開発陣にアーモロートがなぜ印象深い場所として成立したのかというWhyの部分を理解していない人間がそこそこいるように思える。あの沈んだ都は暗く静かな曲調とただそこにあるだけの街と活発な存在がほぼいないという三重の静けさによって存在感を強く示しているのだ。

  • 【エンディング】

    • ……アレクサンドリアの墓とか「雷の章」とか建てるところじゃないのそこは!?エ!?

    • 自分は黄金のレガシーを遺産の話だと思っているのだが、スフェーンと一応の和解をして、そこで形だけでもアレクサンドリアを遺す選択をしない理由が無くない?としかならず、真剣に困惑。

・その他/素直に良かったところ

  • 山峡の涼風 ~ オルコ・パチャ:昼

    • 素直に歴代でも屈指の最強過ぎるフィールド曲。

    • これだけで終わっても良いのだが、英名の話もしてみる。
      Windswept Echos、つまり「風にそよぐ残響」と直訳できる。残響。ちょうどオルコ・パチャ南にウォーラーの残響というエーテライトが存在するのは知っていると思うが、これと併せて『残響』という単語もやはり黄金のテーマ性を暗示の一部であることを示している。

    • 人が去ってもそこに遺るもの。かつての古き民の願いと王の行き路の残響を、山は吹く風に乗せて伝えている。

  • 【「トライヨラの第一王女、ウクラマト様。
      今日までのあなたの成長を、私も誇らしく思っております。」】

    • 個人的に前半どころか黄金通して一番好きかもしれない一瞬。フンムルクだって本当なら実の父親だと明かして抱きしめてしまいたい。でもそれは叶えてはならない願いだ。けれど、それでも、今でもずっと我が子と呼べない貴方のことを想っている。いないはずの実父からの愛情。

    • 言葉なしに双方に伝わっている建前と真意。これだよ~~!!!!!!こういうのが『描写』なんだよ~~!!!!!!やればできるじゃん!!!!!!

    • 多分ここの真意はこの後のマムークでの毒親に激詰めされるバクージャジャとの対比なのだろうが、なんだか最近親子の話に弱くなってしまった自分には結構単品で刺さってしまう。これがあるのであんまり食の試練周りのガバさを無碍に叩いたりしたくないんだよね。

    • 翻って、これこそがゾラージャに与えられなかった存在意義そのものであり、路を迷わせた元凶にもなった酷な場面である。グルージャジャが生きている内にあと一回だけ実子を贔屓出来ていたら。と。

  • 【「ごめんね。ぼくもおなか空いちゃった。」】

    • 「おなか」ア"~~~~~~~~~~ッッ!!!!????

    • かわいすぎて頭イカれるかと思った。

    • 獣人/爬虫類という人によっては普通にキモがられる生き物を、造型に一切妥協を入れずに描き切ったのは黄金のレガシーが誇って良い美点である。本当に。

    • デザインで日和られることなんて本当によくある事だし諦めや折り合いもつけてきたつもりだが、拡大すると気色悪いとも取られかねないマムージャ族の子供に喋らせてかわいいのはすごいことだと思ったし感動した。

  • 【黄金郷の音楽】

    • リビングメモリーの第一印象で閉場間際の遊園地という表現を使ったのだが、まさにこれがこの場所の表したいものなのではないだろうか、という読み解きをする上でも助けになるような表現性の高い音楽だった。『終わりなき軌跡』はそれに疾走感まで加わって最終局面であることを全面的に押し出してくれるかなりの良曲。

    • ターミナルを全部止めると遊園地は全て止まって、帰りの時間のような音楽になる。それら全てが滅亡とはまた違う『黄昏時』を伝えている。かなり良い。

  • 【「さようなら!」】

    • クルルのやけに明るい両親への別れの挨拶。……両親との最期の別れはせめて笑顔で終えたいよね。

エロかったところはマムージャ全部なのでわざわざ言いません。


想像

至天の座アルカディア:ライトヘビー級を追って

宇宙を救ったあとに本来膨らむことのなかったはずの常人の何でもないような善意と悪意に相対する。そういうテーマの意味あいでは聖石の絡んだパンデモニウムよりかは納得感のある話になっている気がする。

ほぼ一般人のスポーツマンが魂を気軽に分割して分身を生成したり、肉体の生理反応レベルで拒否できない毒を扱ったり、ドーピングと称して身体を巨大化させて襲いかかってくる異様な生者冒涜レイドでありながら、その空気はなぜか楽しげだ。

"1クールのレギュラーより1回の伝説"とあるお笑い芸人は言うが、事実が隠蔽されていたとはいえ20歳まで生きられないレベルのドーピングを繰り返してソリューション9に過激で刹那的な娯楽をもたらす彼らアルカディアの闘士という名のプロレスラーはまさしくそういう精神の上で生きていて、これに相対するヒカセンもまた彼らの行うレイドという行為は俯瞰すればただの見世物だという自白にもなっている気がする。

現代社会に生きる人々にとっての祈りの力、それはモニター越しの精巧な茶番への祈りなのかもしれない。

永遠に続く定食のような明日か、それとも今日に遺る伝説か。
サイバーパンク。

零式はそうした生き様が漫画にされる。

闘士たちは絵に描かれ、実在・非実在を問わず人々に空想される存在へと持ち上げられ、闘士は現実で死んで記憶から消え去っても漫画の中で生き続け、実体の伴わない空想へ昇った存在となっていく。そういう意味で零式ウィケッドサンダーの変身体がアメコミっぽい造型なのはわざとだと思う。

"継承"をテーマにしている黄金のレガシーだが、たとえ死の悲しい記憶が消される優しい牢獄の中にあったのだとしても、描かれた伝聞や空想が生きていた人間を後に伝えていくのだと、そう言いたいのかもしれない。

これがピクトマンサーという職業が今増えた理由なのではないだろうか。


FFXってやっぱり傑作なんだ

突然だけどFFXを語る。ゴンレガ、自分は好きだけどそれはそれとして遊んだ後に出てくる脚本への感想が全部FF14ではなくFFXへの褒め言葉になっている気がする。実際一時の気の迷いとかではなく名作・傑作の類だったんだ~というのは間違いない。

黄金のレガシーの旅路は中南米の文化圏テクスチャで包装されたFF10(またはその逆)であることは明白だ。

  1. 使命を負った者が順繰りに旅をする。

  2. 旅の果てに約束の場所へたどり着き、証を賜る。

  3. そうなった者は国に安寧をもたらし、皆に尊敬される。

  4. そしてその旅には"絶対に"仲間が必要である。

  5. この旅路は今までに過去の人物が歩いた後を追う旅でもある。

  6. 国の長は国が永く続くことを願っている。

  7. 国は多くの部族から成り立っている多部族国家である。

  8. 国に起こる大きな災いの要因の一つはかつて失われた古代文明である。

箇条書きにするとほとんど同じで、これは要するに召喚士とガードの旅路をなぞっているんだなという構成が丸わかりだ。では、ここまで揃ってどうしてFFXと黄金のレガシーはここまで評価が「違う」のだろうか。それはやはり散りばめられた『謎』の有無だ。

ユウナは旅をすることに対して何だかとても強い覚悟を決めている。
どうしてあんなに頑ななんだろう?
ああ、偉大なお父さんの目指した使命を自分も継ぎたいからなんだ。

ワッカは主人公と同じ競技をやっていてとても気の良い兄ちゃんだ。
なんでアルベド族のことがあんなに嫌いなんだろう?
ああ、身近な平和を何より大切にしているからなんだ。

ルールーはしっかり者で、知識でみんなを助けてくれる先輩だ。
どうしてあんなにユウナを気遣っているんだろう?
ああ、ユウナの末路を知ってて、それでも支えることを決めたんだ。

キマリは無口だし何を考えているのか分からない。
なのになぜ見知らぬユウナにあんなに尽くしているんだろう?
ああ、キマリは絶対に約束を守ろうとする誇りある人だからなんだ。

アーロンは本当は全部知っているはずのに何も教えてくれない。
なぜ大事な旅なのにあえて突き放した態度を取るのだろう?
ああ、彼らなりの答えで死人となった自分を超えて欲しかったんだ。

リュックは本当は良い子で主人公もユウナもとっても気遣ってくれる。
なのになぜ召喚士に悪いことをする組織にいるんだろう?
ああ、彼は彼らなりに世界の現状を打破したいと本気で思っていたんだ。

ティーダは底なしの陽気なヤツでスポーツ万能の欠点なしだ。
でも、親父に対してだけとても態度が卑屈なのはなぜ?
ああ、父に自分の存在を愛して欲しいけどその方法が分からなかったんだ。

ジェクトは無敵のトップスターで、皆の憧れの的だ。
でも、なんで息子に対してだけギクシャクした当たりになってしまうんだ。
ああ、自分の子供をどう愛して何を遺してやれば良いのか迷っているのか。

マイカ老師とユウナレスカは召喚士を何度も導いてきた。
彼らはなぜ長き宿敵シンのことを知ろうとしないのだろう?
ああ、彼らはシンの正体を知りながら、絶望して諦めきってしまったのか。

シンは色んなところに現れては破壊を限りを尽くす悪神だ。
どうしてそんな悪神がこの世に存在しているのだろう?
ああ、かつての古代文明が自分だけが"終わった"ことを否定したくて、力づくで時を進ませまいとしていたんだ。

パーティーメンバーの周りだけでこれだけ多くの別々の謎を抱えたままに旅が進んでいく。そしてストーリーの折り返し地点、マカラーニャでのシーモア殺害を契機に一気に物語は加速しつつ、それぞれの抱えていたものを明かし合い、そしてユウナレスカ戦前のカットシーンでの皆の宣誓で結実し、最高の盛り上がりに突入する。

いや~すごい。世界設定の謎を横に置いて、人物の感情ベースで話を進めてもきちんと内面を理解し合うまでの過程がぽっと出の演出に頼られずに芯を通されている。あれほど明るい画面のFFXの世界中に確実に漂っている『諦観』と、それを吹き飛ばす青さと馬鹿さの必要性の描写。素直に人柱になることを受け入れる展開でもそこそこ平らに終われたはずなのに、『父さんのこと……大好きだった!』からの発言でそれを蹴り飛ばすことが本当の正解だと魂で分かる。

翻って、やはり黄金のレガシー本編はあまりにも物足りないなぁと思う。

ウクラマトはなぜこんな無茶な状況で出馬したのか。
コーナはなぜ自分の国が何も足りてないと焦るばかりになったのか。
ゾラージャはなぜそうまで"自分が王を継ぐこと"に固執しているのか。
バクージャジャはなぜ……ああこれは話してくれたんだった。
グルージャジャはなぜ子供たちをあえて突き放して競走させたのか。
スフェーンはなぜ他者との会話を拒否してまで自らの国に拘るのか。

今回の新規キャラクターたちの内面がなぜそうであるのかが明かされないままリビングメモリーで一気に答え合わせだけを行ってしまったので、もちろん描写不足として大いに不評を買っただろうし、自分も自力でかき集めて推理するという途方もない労力が必要になる作業を要する結果となった。

ところで、自分は「何でもありな世界の中ではホワイダニット / Why done it?こそが最も重要である」という創作論へのメタな言及を某長編作品で読んだことがあり、個人的にこれにかなり感銘を受けている。なので今日までの自分の読解はまず動機から始めることにしているのだ。FFも結構何でもありだし、FF14も今日まで随分滅茶苦茶をやってきたが、それでも人物の造型のなぜ?の部分に嘘をつけたことなどない。

明るいのになにか暗い気がする。自分が好きだったそういうFF10そのものが黄金のレガシーにもちゃんとあったので好き。現状あっただけだけど。

FFXが発売されて、後日発売されたFFX-2の内容に対する憎悪の声を憶えている人はいるだろうか。あれほど感動し、あれほど大泣きに泣いた大作の直接の続きが、見る人によっては公式による自傷行為のような作品だったことに絶望した人もいるかもしれない。

そして今年、奇しくも暁月のフィナーレに対する黄金のレガシーはFFXの構図を取り込みながら全く同じ空気を醸し出した。なぜあの劇は綺麗なまま終わってくれなかったのだろう。なぜこんなウザったい空元気であの神秘ある世界が上書きされなければならないのか。

モチーフを読むに、これはきっと偶然ではない。FFにとって『続き』と向き合う行為は、ちょうどX-2に存在したような元気さや、その裏に隠れた不安感や『進んでいく世界と、それに何となく感じる嫌さ』と一緒に生きていくことなのだ、という一貫した主義主張が存在するのかもしれない。黄金のレガシーの感想を言語に固めていくに従い、20年近く前に見て聞いたことのあるあの空気を再び吸い込んでいるような感覚に陥った。

自分はXはもちろんX-2も割と好きな方である。『続くって何なのだろう』という自問そのものが作品になっていたからだ。

リビングメモリーがちゃんとザナルカンドしててグルージャジャがレギュレーター越しに究極召喚として立ち塞がってきてたら自分は多分興奮しすぎて脳出血で死んでたと思うので、そういうところでブレーキかかってて逆に良かったかもしれない。

もちろん「覇道を往くぜ」は今後のヴァイパーの追加ジョブアクションに期待しても良いんですよね?😉

「バクージャジャが人気であることにびっくりした」と吉田PDは語ったらしいが、それが本心なら結構笑い事ではない。プレイヤー目線で取っ掛かりが分からないキャラクターだらけの中、バクージャジャはほぼ唯一自らのパーソナリティのセンシティブな部分となぜを真正面から開示しきったのだから親しみを持たれるのは当然である。このコントロールが予想出来ないというのが『笑い話』として出てくるのはちょっとばかり深刻な監督役の不在と危機感の欠如を予感せざるを得ないのだ。


やっぱり今回暁要らなかったなこれ

この話はどうすればちゃんといい感じにまとまったかというのを考えるが、暁という事務所NGが多くなってきたタレント集団を一旦放置してウクラマトとその仲間たちでFF10をまんまやり直すのが一番早いという身も蓋もない答えになってしまうし、そして自分も正直こっちで遊びたい。ウクラマトとコーナとゾラージャとバクージャジャと、更に一癖も二癖もあるそれぞれの従者たちの旅。

例えば「なんだかんだ着いてきたウケブがあの顔と日頃の動作で想像もつかないようなマムージャ族へのヘイトスピーチをヤクテル樹海でいきなり放つ」とか「試練を無視してウクラマトを拐ったバクージャジャorゾラージャがグルージャジャはもうすぐ寿命で死ぬことを唐突に打ち明ける」とかそういう燃料を投下すれば、視聴者はギョッとすると共に食の試練~友の試練の展開が一気に引き締まるのは想像に容易い。どうあれトライヨラの国民同士で意見が衝突する展開は絶対に必要だった。(例にあげたものはワッカやリュックによって実際に行われた爆弾発言の変形である)

こういった取っ掛かりを暁は(今はもう)作ることが出来ない。暁は立派な大人の集団になったので青さによる失言はしないし、独断で危うい橋を渡ったりしないし、意見の衝突も必要ない。……これは果たして本当に良いことなのだろうか。

新生のうら若く今より若干早口だったアリゼーやアルフィノならこういった文化の地雷を軽く突いてくれたが、生憎今の兄妹は星と命の巡りを肌で理解した立派な暁の魔道士であり、外部の国事情に対してはとりあえず無難な発言しかさせられなかっただろうことは想像できるし、いざとなれば迷うことなく相手の主張の鼻を折りに行く。だかしかしそれでは話がはっきりしないのだ。

ウクラマトに孤独を訪ねた時のようにコーナの内面の掘り下げも本来ならヒカセンが行っても良かったのだが、序盤でサンクレッドたちが勝手に行い、コーナもそれで納得してしまう。まあ大人ならそういう会話もするし、順当な流れだよね。……あれ?勝手に完結したなこれ?

サンクレッドとウリエンジェはぶっちゃけもう新しいことが何も言えないぐらい自らの人生の宿題をやり終えてしまった年長組である。そんなもう蒼天の時みたいな尖り方してくれない大人二人が適切な距離で人に関わったら大体の心情は解決できてしまう。だかしかしそれでは話がはっきりしすぎるのだ。

ヤ・シュトラとグ・ラハ・ティアに関しては言うまでもない。最初から出場すればトライヨラとアレクサンドリアの国の構造があっさりと解体されてしまうこと確実。

……有能タレント集団・暁、やっぱり扱いづらくなっていないか?

リビングメモリーでグラハがクルル親子の前でアイスを無心で食ったことについてかなり意見が分かれている。自分にとっては「ああ、今こいつ水晶公の続きじゃなくてわざとシャーレアン出身の若者グ・ラハ・ティアとして振る舞ってるんだな」と思っていたので何とも思っていなかった。彼は終末の訪れたラザハンで水晶公をロールをそのままなぞる行為をしたが、今回は意図的にそれとは逆に舵を取ったのだろう。若造であること、100年を超える為政者だったこと、そのどちらもがグラハであり、このシーンは"旅人"としてはまだ未熟な彼なりの気の使い方。……という解釈なのだが、やはり許せない人は許せないらしい。


総評

説明が多いにも関わらず説明が足りていない。
これは明らかに書き手の能力の欠如である。

よりにもよって長文が苦手な自分がこう書いてしまうのはどうかと思ったが、やはりこの結論が全てである。『説明をするな、描写をしろ』という脚本学の基本の安定行動が守れてないし、要所でフード理論を使ってヘイトコントロールをしようとした形跡があるが、そもそもウクラマトと食卓をほぼ囲まない時点でテーマとして片手落ちであり、バクージャジャの濃い味付けのキャラクターを持ってしても全体の粗は覆い隠せておらず、全編を通して言動の描写が首尾一貫としたキャラクターはほぼいないかもしれないほどだ。

経験の足りないだろう若手が漆黒と暁月のウケた部分を一生懸命に抜き出してそのままトレースした結果、食材をとにかく急ぎ足でろくな調理を終えていないカット野菜のまま次々口に流し込む暴挙と化し、メインストーリーの味わいはもう滅茶苦茶になってしまった。しかし、それと同時に、読みふけったら35000文字以上書けたぐらいちゃんと中身はあったので「読む行間がそもそも存在しないだろ」というツッコミはあまり適切ではないように思える。描写と校正が徹底的に抜け落ちてしまっているだけで。

あらゆる意味で、黄金のレガシーはこれまでのFF14という概念から生まれた同人誌である。まあ好悪合わせて自分はこんなレポートを書くぐらいちゃんと熱狂させてもらったが。

FF14の物語はある意味もう詰んでいる。

MMORPGというのは元来大きな大きな箱庭に自分を一人放り出して世界のことを知る体験こそを宝とするゲームであったはずなのだが、気づけば『ヒカセン』は高まる人気によって物語の中心から降りることを一切許されなくなり、否応なしに高速化していく物語の環境では世界設定をのんべんだらりと語ることも許容されなくなった。

いくらシナリオの粗がありすぎるとはいえ、ウクラマトにヘイトを向けてトライヨラを取り巻く環境を一切無視し自分が冒険したかったの!!と憤慨する感想は少なくない。これはもう個人の好みや流行の変化であり、漆黒~暁月で取り込んだ客層による不可逆な進化だ。

そして第二部に向かうにつれて自由であったはずのシナリオへの枷はどんどん重みを増していく。聞いて、感じて、考えて、を実行していくうちに『何も考えずに殺しても良い敵』はもういなくなってしまった。ガレマール帝国はもはや一致団結して殴りかかるべき強大な敵国などではなく、アシエンは悲願に縋る悲劇の人たちであり、先往く星々は自らの答えに悩み苦しむ者たちの集まりである。外の国は脅威ではなく目に映る新たな家になるかもしれない場所で、鏡像世界は善意の誰かが守りたいと願っている地である。

そして進むにつれて、斬新な戦うべき敵と道理を用意しようとすればその新たな敵がどんどん倫理破綻した対話不可能の存在になっていく。リビングメモリーの住人は守るべき世界ではなく戦うべき世界だと精一杯説明(したつもり)を加えようと、今までの旅路で出た答えと齟齬が出るのは必然だ。

お前はもう戦えない
戦う目的がない

漆黒のヴィランズ:トレーラー

第一部の結末の相手がゼノスだったことは偶然ではないだろう。まさしく彼こそがヒカセンにとって最後の『自分の理由で戦うべき相手』だったのかも知れない。

敵が減るが仲間は増えていく。暁の仲間たちはいつの間にか欠かすことのできない存在となり、オンラインゲームができない人を取り込むためにコンテンツサポーターを整備することによって最早どうやっても暁の血盟もヒカセンも自由の身になることができないように流れていく。いつもの彼らがいない土地で偶然出会った誰かとダンジョンに飛び込むようなストーリーはもう二度とないのだろう。ヒカセンにとって新大陸なのだからまだ見ぬライバルや仲間たちを出す機会はいくらでもあったはずだが、それを選択することは出来なかったのだ。宇宙を救った英雄に肩を並べて戦えるぽっと出の人物というのを上手くイメージ/投影できないのかもしれない。

だからといって石川夏子の再来を望むことはできない。

黄金のレガシーそのものが継承・遺産・家族の連なりで包装する形で『都合の良い繰り返しなどありはしない』という最早自白に等しい主張を行っている。どれだけ材料を揃えて懸命に腕を揮ったところで、限られた刻限の中に存在する限り誰もが満足いく過去のリフレインなど作れはしないし、常に現れる新しい誰かと一緒に少しの居心地の悪さを感じながら前に進むしかない。

実はボズヤとイヴァリース関連の扱いに不満を感じていた自分も今日になってそれをようやく受け取れたから、だからあえてゾディアークやハイデリンを降ろすような真似は止めにしようと思った。他ならぬ光の戦士本人がもつれた足を先に進めるものを探すことを止めてしまったらそれは、――あの時の、あの場所で、一人戦うことを決断したヴェーネスにどんな顔で向き合えば良いのか分からなくなってしまうから。

今後敵となることが匂わされている秘密組織プリザベーションはこの脇役になれないヒカセンの詰みっぷりを打破してくれる新たな起爆剤であることを切に願う。

こんなに真面目に長文書くの人生で初めてレベルなので疲れた。もうやりたくないし、次もマムージャ族並のエッチ使徒が自分を蹂躙するまで絶対にやらない。

黄金のレガシーのメインクエストが余りに人物描写を端折りすぎなせいで、自分からボランティア活動みたいなレベルで懸命に考察入れないと遊べないゲームは異常な方に分類されるので、後発の皆さんは無理に真似しなくても構いません。……じゃあここまで義理は果たしたので今から壊れます。 

納期決めてGOを出した人間とシナリオ班はマジで反省してください!!
納期のデーモンが暴れて全体のQAがいつもより四割増しで死んでいるのバレバレなんだよ!!!!
冗談抜きで半分以上がウクラマトへの罵倒で埋まってる感想群からピンと来る他人の考察を見つけるのはしんどいし!!!!
自機好きすぎラマチ嫌いすぎの感想はもう既に食い飽きちゃったし!!!!
でも行間読めてないやつに読めとは言いにくい話だったし!!!!
結局自分で黄金の未調理の部分ほぼ7割ぐらい解体して調理し直したわ!!!!フンムルクとウクラマトの会話がなければここまで解けてなかったからあのお父さんこの話のマジのMVPだぞ!!!!感謝しろ!!!!
次のPLL絶~~~~対クソ荒れるからよしもるは覚悟の準備をしろ~~~~ッ!!!!!!!! 
[△+イマジンスケベ実行可]

あっ、でもマムージャとハヌハヌとヨカフイとシュバラールを実装してくれた恩があって、あっ、あっ、あっ、最近はハヌハヌのオープンスケベ腰布と下半身全開のボディラインに劣情を隠せなくて、あっ [△-イマジンスケベ実行可]

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