よもよも話③~私と育児~

母子一体化

 赤ちゃんが「今」を生きており、母親(妻)も「今」の世界に没入する、と書いたが、
その先に起こるのが、「母子一体化」である。
これは、0歳児の子育てにおいて大事だとされることが多い。
私が面白いと感じたのは、
妻(母親)と赤ちゃんの身体が一つになっているように思える点である。

 一見すると、それは妊婦と胎児のときの状態を指すように思われるだろう。
だが、むしろそれは生まれた後に顕在化してくる。
授乳や抱っこ、寝かしつけなど、赤ちゃんと母親は四六時中そばにいる。
「居間」に代表される狭い空間において、二人の身体は一体化しているに等しくなる。

たとえば、私が赤ちゃんについて乳臭いと感じても、妻は気がつかない。
妻も乳まみれだし、それくらい赤ちゃんの乳臭さは妻にとって当たり前になっている。
さらに、先日は妻が風邪を引くと同時に、
赤ちゃんも風邪を引いた。
母親の精神不安が赤ちゃんに移るなどとよく言うが、
まずもって肉体面で近しい存在になるわけだ。

その結果、妻はいちいち頭で考えなくても、
「今」赤ちゃんにとって最適なケアを、直感的に提供できるようになっていく。
夫の私が、「ミルクの時間じゃない?」などと指摘すれば、
たちまち、
「いや、そんなことないよ」
とイラつかれる。
妻は赤ちゃんがミルクの時間だとわかっていながら、
他の条件を考慮したりして、
あえてミルクを与えていなかったりする。
正解は、妻が作り出す。
主たる育児者が、作り出す。

 よって、夫である私は肩身が狭くなる。
夫にできることは、肩身が狭いと感じないよう、
できることをすることだけだ。
私の育児に関する思索は、一進一退である。

お宮参り

 赤ちゃんが生まれて約2カ月半後のとある平日、ようやくお宮参りを執り行うことができた。
お墓参り、ではない。
むしろ、真逆のイベントだ。
お宮参りとは、生後1カ月頃を目安に寺社を参拝し、赤ちゃんの健やかな成長を祈る儀式である。
我が家では、写真館で祝着(のしめ)と呼ばれる着物やドレスを身に着けて記念写真を撮ったのち、
祝着を借り出して神社で祈祷を受け、
最後に実家へ行って仕出し弁当などを食べた。
10時間もの外出となったが、何とか赤ちゃんも耐えてくれた。

 面白かったのは、写真館での撮影を終えて、一度神社の駐車場に停めた車に荷物を置きに行ったとき、
赤ちゃんが抱っこ紐まで少し汚すほどのウンチを盛大にしたことだ。
それまで、家を出てから実に5時間が経過していた。
この赤ちゃんは、ちゃんと状況をわかっていて、
やっとリラックスできてウンチをしたのだと思う。
帰宅後に、途中で与えていた缶ミルクを少し吐いたことも思い出される。
誰に似たのか、空気の読める赤ちゃんである。

 ところで、参加者の決まりは諸説あるが、今回は私の両親と妻が参加した。
写真館では、私の母が赤ちゃんを抱っこした5人の写真や、妻が赤ちゃんを抱っこした3人の写真、赤ちゃん単独の写真を撮った。
祈祷では、私が小忌衣(おみごろも)の代わりとなる白いタスキを首にかけ、
代表者として玉串と呼ばれる榊の枝を神殿に奉る役目を司った。
祈祷のお布施(初穂料)の5千円は我が家で用意した。
3万円の写真館料金や4個8500円の仕出し弁当などの経費は、
全体の主宰である私の父にお願いした。

 たったこれだけの行事だが、私には事前の企画から当日の立ち回りまで、
緊張が勝った。
実は当日、二人で忘れ物をして出発が40分遅れになるなど、
出だしから躓いてしまっていた。
結局、お昼ご飯を食べたのは16時半であり、
私はウイダーinゼリー2個で食いつないでいた。
行事自体を純粋に楽しむ余裕があまり持てなかった。

 でも、妻と両親が楽しんでくれていたのは良かった。
お祭りなど非日常が好きな妻は、お宮参りができたことをとても喜んでいた。
両親も、赤ちゃんと会うのは3回目なのだが、慣れてきたみたいで、
赤ちゃんに対して我が子のように接して、本当に嬉しそうにしていた。
こういう儀式は、赤ちゃんはもちろん、「私たち」にとって重要な行事なのだとわかった。
「私たち」の範囲は、ときにこうして親族にまで広がるのだ。

 ちなみに、祈祷は大國魂神社で行った。
私が生まれ育った実家のある府中を代表する神社である。
親に聞くと、私自身はお宮参りをしておらず、
七五三は日野の高幡不動尊金剛寺で行ったらしい。
また、とある別の祈祷は調布の布田天神で行うなど、
私の実家では、地元で祈祷を上げたことがなかった。
ベタを避けてきたわけだが、ここに来て王道を選ぶことになった。
満を持して、真っ当な家族の歴史が紡がれようとしているのかもしれない。

不妊治療の1年間(序盤)

 2年前、不妊治療クリニックに通い出した。
結婚して2年間、夜の営みがなかったわけではないが、子どもができなかった。
妻は高齢出産の枠組みに入る、35歳になってしまった。
時間は有限である。

 不妊治療クリニックは隣駅にあり、通いやすかった。
最初は妻が話を聞きに行って、
しばらくして、私も精液検査を受けに行った。
結果は、平均点が45点のテストで43点。
精子の運動率が高くはなかったということだ。

 運動率は変動するので、もう一度検査を受けるよう言われた。
すると、今度は23点に点数が落ちてしまった。
0点ではないが、これは明らかに低い点数であり、
専門医による総合的な検査の実施を勧められた。
この結果に、私は屈辱的な気持ちを味わった。
運動率が低かったのは、事務的な射精だったことが原因ではないか、
と言いたくなった。
そして、不妊治療に後ろ向きな気持ちになってしまった。

 一方、妻の方も問題がないわけではなかった。
生理不順に加えて、子宮筋腫が見つかり、
影響がないとは言い切れなかった。
まずは、生理不順を治すために、
妻が半年くらいクリニックに通った。
その間、私は仕事に追われていた。

不妊治療の1年間(中盤)

 妻の生理不順が改善された頃、私は仕事を辞めて無職になっていた。
人員不足で疲弊するくらいなら、次の道へ進もうと考えてのことだった。
幸い時間ができたので、不妊治療に本腰を入れることができた。
2023年1月、私は総合病院の泌尿器科を受診し、全国に100人しかいないという、男性不妊の専門医を訪ねた。

 その年配の専門医の触診などを受けた結果、特に問題はないことが分かった。
ただし、運動率は相変わらず低かった。
あとはもう医療的にできることはなく、非科学的な方法により運動率を上げるしかないと言われた。
いわゆる、生活習慣の改善やサプリメントの接種など、素人でも思いつくような対策しか残されていないとのことだった。

 個人的には、何か決定的な問題はない、という診断にホッとした。
やはり、生活改善など自分の感覚で取り組もうと思った。
あとは、タイミング療法――すなわち排卵日付近で、なるべく多くの膣内射精をするだけだ。

 しかし、一方では、タイミング療法が上手くいかないことも考えて、
簡易的な人工授精にも取り組むことになった。
それは、採精した精子をスポイトで妻の膣内に注入するという、
原始的な方法である。
このとき一度取り組んだが、
採精した精子の運動率が低く、注入しても無駄だと言われ、
注入まで至らなかった。

 運動率は簡単には上がっていかない。
このまま自然妊娠しなければ、50万円単位の人工授精の道に進むかどうかの決断を迫られてしまう。
クリニックの看護師からは、「スーパー精子君が頑張るかもしれない」と言われた。
一世一代の背水の陣である。

不妊治療の1年間(終盤)

 さて、2月の排卵日付近は、私が営みの途中で萎えてしまい、
上手くいかなかった。
気負い過ぎるのはいけないが、無策もいけない。
そこで3月は、ちょっと妄想プレイを取り入れたところ、
盛り上がって良い感じに行為できた。

 4月、生理がなかなか来なかった。
これまで生理不順で、生理が来ないというのはよくあった。
しかし、生理が安定してきた中での出来事であり、
前回の生理から5週間が過ぎた。
妻は、普段とは違う腹痛やゲップが出るとし、
妊娠検査薬を近所のドラッグストアへ買いに行った。

 試すと、瞬く間に陽性判定が出て、妻がトイレから声を上げた。
5日後にクリニックへ行って検査を受け、正式に妊娠が判明した。
嬉しさのなかには、安堵の気持ちも混ざっていた。
「これでもう、不妊治療(妊活)をしなくていいんだ」と思った。

 そう思うくらいに、不妊治療は心身の負担になっていた。
経済面の負担ばかりではない。
ときに、セックスが苦痛に変わった。
男としてのプライドを傷つけられる体験もした。
それでも辛うじてここまで歩んでこられたのは、
不妊治療に対する違和感を持ち続けたからだと思う
言い換えれば、未知なる不妊治療に対して
好奇心を抱いて向き合ってきたから歩んでこられた。

 そんな歩みのなかで発見したのが、
不妊は女性の問題ではなく、
むしろ男性の問題ではないかという視点である。
男性は、あまりにもこの分野に疎い。
これは、一人の男性個人の問題であると同時に、
社会における男性全体の問題に行きつくものだ。
不妊治療を行っているか否かに関わらず、
すべての男性に伝えていきたいと思う。

母乳は美味しい

 話は現在に戻る。
妻のおっぱいが張って、
母乳を赤ちゃんに与えたくても、
乳首が痛かったり、
赤ちゃんの都合が悪かったりすることがある。
そんなとき、うちには搾乳機がないので、
妻は手動で哺乳瓶に母乳を出している。
溜まった母乳は長時間保存に向かないので、
たいてい捨てることになる。

 そこで私は、もったいないので飲んでみよう、と思った。
飲めるものなのか、どんな味がするのか、
あくまで純粋な好奇心である。
一口飲むと、
まるで牧場の搾りたての生乳のような、
新鮮で美味しい味がした。
そして、後味が強烈で、
なんだか麻薬のような刺激があった。
これは、赤ちゃんが飲んだら満足感が高いだろうと、合点がいった。
私は変態ではないが、また飲みたいと思った。

 それと、牛の乳で考えると、
普段飲んでいる牛乳が成分無調整と銘打ちながら、
如何に調整されたものかと実感させられた。
もちろん、人の乳で考えると、
母乳が出ない場合もあるし、
人工的なミルクの存在は欠かせない。
でも、乳母がいたり、
村の皆で赤ちゃんを育てていた時代に思いを馳せたくなった。

人間らしさの発見

 生後三カ月になろうかという今日この頃、
赤ちゃんが人間らしくなってきたように感じる。
単に生理的欲求で泣き叫んでいた状態から、
寂しさや甘えから泣き出す感じになってきたのだ。
泣き方も「びぃーーーーーーえーーーーーー!!!!!!」と力強い。
この延長に、幼児が駄々をこねて泣く姿があるのだろう。

 妻は赤ちゃんらしかった時期を恋しがっているが、
私は赤ちゃんが順調に発達していることに安堵している。
いまだに、赤ちゃんが妹のように定型発達しない可能性を恐れて、
うがった見方をしてしまうからだ。
でも、赤ちゃん個人を見つめていくことが重要である。
妹の呪縛からの解放は、待ったなしだ。

「幸せ」のパラダイムシフト

 育児は私たちにドラスティックな変化をもたらす。
妻は育休を取得し、毎日ほとんどの時間を赤ちゃんと過ごす世界に転生した。
妻の父(義父)は、妻の母(義母)と私の決裂など、
妻の里帰り出産によって、軽度の「健忘症」(記憶障害)を発症してしまった。
逆に私の両親は、初孫の誕生によって、
私と健全な関係性を再構築することに成功しつつある。

 それでは、私自身はどうかと言えば、
自分の人生の満足度が一定水準を超えて継続している状態に、
「やすらぎ」を感じている。
これまではなんだかんだプレッシャーがあり、
常に過度な緊張を強いられてきた。
でも、現在は家庭も仕事も理想的な形になった。
もちろん、上を見ればきりがないが、
これ以上頑張りようがないところまで、
頑張ってきたと納得できる。

 これからは、肩の力を抜いて生きていきたい。
手を抜くのではない。
緊張ではなく、弛緩。
気負わず物事に当たった方が上手くいく。
そういう生き方に、パラダイムシフトするのである。

 育児も頑張り過ぎないで、リラックスして行った方がいい気がする。
親の緊張は赤ちゃんに伝わり、悪影響を及ぼすだろう。
「居間」で赤ちゃんに笑いかけると、
赤ちゃんも笑顔を返してくれる。
赤ちゃんが笑顔だと、私も頬が緩む。
「やすらぎ」が、「今」に流れる。

 このように、物事の結果において「幸せ」を感じるのではなく、
「やすら」いだ状態でいられること――プロセスに「幸せ」を感じていきたい。

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