よもよも話①~私と育児~

今と居間(リビング/生活)

 育児には、「今」が多い。赤ちゃんが泣き出したら、自分が食事中だったとしても箸を止め、赤ちゃんの元へ向かう。お腹が空いたのだとすればミルクをやり、抱っこを求めていれば気が済むまで抱っこし続ける。泣き出しはいつ起こるか分からないし、終わったと思ってもまたすぐに始まる。育児は、「今」の連続である。
 この「今」は、「居間」にあることが多い。赤ちゃんは、吐いたミルクで窒息するなど、思いもよらない危険と隣り合わせの生き物である。そのため、目の届くところに寝かせておくわけだが、日中その舞台となるのが居間(リビング)だ。居間は人と人の距離感を近くする。私は赤ちゃんの「今」を知覚する。
 「今」は瞬く間に過ぎ去っていく。私は、「今」に抗いつつ、「今」に身を委ねていきたい。赤ちゃんとの生活が最高に楽しくなくて、どうやって育児ができるというのか。

子育て願望

 子どもが欲しいと思っていて、子どもを授かった。子どもが欲しいという気持ちは、昔から当たり前のようにあった。独身貴族に憧れたことはないし、反出生主義に共感したこともない。でも、じゃあなんでこんなに「子どもが欲しい」と思って生きてきたのか。妻の妊娠と出産を機に考えた。子どもが好き、妻を幸せにしたい、国の少子化に一矢報いたい――理由は複合的だ。だが、根源的な部分があるとすれば、それには私の成育歴が関係しているかもしれない。
 私は過干渉な教育パパに育てられ、絶えず本当の自分が尊重されていないと感じながら大人になった。だから、反面教師的に、「自分はもっと良い父親になれる」と、漠然と思っていた節がある。その想いを、私は無意識のうちに具現化しようと生きてきた気がする。そうしなければ、父親に抑圧された私の中の子どもの私(インナーチャイルド)は、育たず置き去りになってしまう。私は子育てを通じて、私のインナーチャイルドも育て、救いたいと思う。

理想の家族像

 妻から「理想の家族像」を聞かれても、ピンと来ない自分がいた。子どもは欲しいけれど、子作りは成り行き任せだった。子どもの将来設計も大して考えておらず、放任主義をはき違えていた。これも恐らく、私が機能不全家族で育ったことが背景にある。
 私には生まれながらの重い障害のある妹がいる。彼女は入退院を繰り返した末、中学一年生で入所施設に預けられた。その少し前から母は神経精神疾患の躁うつ病を発症し、家庭の崩壊は決定的になった。言動に波のある母と、反抗期の息子(私)と父。一対一、あるいは三つ巴の喧嘩の絶えない日々が始まった。
 このような家庭環境で育った私は、自分の家族について「崩壊さえしなければいい」と思って生きてきた。しかし、「理想の家族像」とは消去法で選ぶものではなく、具体的に描き出すものである。私はこれから、自分が育った家族の歴史と向き合いながら、自分の新しい家庭を築き上げていく。時間はかかるかもしれないが、具体的な行動を着実に積み重ねるつもりだ。

子どもの性別選好

 生まれる子どもについて、「男の子、女の子の希望はあるの?」と聞かれることが少なくなかった。
 性別が判明する前は、何となく男の子が良いと思っていた。それは、自分と同じ性別で、イメージが湧きやすかったからだ。例によって、具体的な理想像があったわけではない。でも、全くの消去法でもない。前述したように、私には「良い父親」になり、インナーチャイルドを育てて抑圧から解放するという、心の奥底の願望があった。父と息子の関係をやり直すという点では、男の子を育てることが自然なように思えた。
 実際の性別は女の子だった。妊娠五カ月(二十週)の検診で、早々と判明した。その時は、違和感などはなかったけれど、やはりテンションが上がったりすることもなかった。ただ、自分には「かわいいキャラ」の側面があったので、そんな自分の血を引く女の子はかわいいんじゃないかという予感がした。将来的な楽しみは芽生えた。
 出産間近になって、「女の子で良かった」と思えるアイデアが降ってきた。私は女の子の成長を間近で見る機会に恵まれたのである。それがどうして特別良いのかと言えば、私の妹に生まれつきの障害があったからである。つまり、私は生まれくる女の子の成長を通して、妹にあり得たかもしれない定型発達の成長を重ねて見ることができるのである(生まれてくる女の子が健常者の場合に限るが)。
 さらに、出産後には、「女の子で良かった」と思えるアイデアがもう一つ降ってきた。それは、妻の子どもの頃を想像する助けになるのではないか、というものである。生まれてきた赤ちゃんは、私に似ている部分もあるが、妻に似ている部分も多分に持ち合わせていた。このまま成長すれば、妻に似ている部分がもっと出てくるだろう。これは、妹のことを赤ちゃんに重ねてみるよりも抵抗の少ない、自然なアイデアである。
 現状、まだまだ「女の子で良かった」という、独立した発想には至っていない。そもそも、大好きなアイドルとか女優もいなかったので、理想の女性像というのも満足に確立されていなかった(それでよくまあ結婚できたものだとは思う)。強いて言えば、私が思春期の頃、母親が精神病を発症していたので、何となく似たような女性を好きになりがちだが、一方でそれを自制して逆に強い女性を好きになることもある。芸能人で言うと、当時ドラマで活躍していた米倉涼子がタイプだった。その点、妻は両方の要素を持っているので、好きになったのだと思っている。

いつも妻――「私たち」という主体

 恥ずかしい限りだが、夫婦または家族のことを主導してきたのは、いつも妻である。結婚に向けた両親の顔合わせの段どりや、出産後に備えた育児用品の準備など、私はいつも後手に回ってきた。得意不得意の役割分担の問題もあるにせよ、私は事あるごとに無能さを露呈してきた。
 少なくとも私には、夫婦または家族という視点が欠けていた。別の言い方をすれば、夫婦や家族という主語に対する意識の欠落である。夫婦であれば、「私とあなた、以上でしょ? 私はあなたのことを考えているよ」と思っていた。でも、実際には、「私」や「あなた」よりも、「私たち」という主体を扱っていかなければならなかったのである。
 家庭運営とは、単に家事をすれば済むものではなく、夫婦または家族を継続あるいは発展させていくウルトラマラソンのようなものなのだ。私はその重点を解かっていなかったので、往々にして妻の逆鱗に触れ、言い合いをしてしまった。その度に私は、「私が全面的に悪かった。妻ちゃんが改善することはない」と謝ってきた。妻曰く、私は「自分のことしか考えていない」。その通りだと反省するばかりなのだが、私の改善は蝸牛の歩みである。

三十五歳からの妊活

 妊活も妻が主導だった。結婚して丸2年が経った頃、妻から、「子ども欲しいの、欲しくないの?」という問いかけがあった。私は、「自然にできたらできたで、できなければできなかったでいい」という、のんきなスタンスだった。しかし、妻は高齢出産の枠組みに入る、三十五歳になっていた。
 そもそも結婚前、私は妻に、「この先たとえ子どもができなくても、妻ちゃんと結婚したい」と伝えていた。「その言葉に安心して結婚に踏み切れた」、と妻からも聞いている。ただし、これは「子どもができなくていい」という意味ではない。積極的に子作りをして、それでもダメだったときの保険だったのである。

セルフ産休が終わる

 妊活の一年間を振り返る前に、「今」の話を書きたい。私は明日からセルフ産休が終わり、週四日ほど仕事に出る。果たして我が家の育児生活は引き続き回っていくのか。妻の産褥期は一般的には最短で六週間なので、来週には過ぎるわけが、実際の体調を鑑みると相変わらず出血もあるし、まだ元気とは言えない。赤ちゃんは新生児期が終わり寝ぐずりが目立つので、妻と私の睡眠は細切れにされている。互いの両親をはじめ、近所に安心して助けを求められる人はいない。シングルマザーのワンオペよりはマシだが、かなりハードな生活を強いられることが予想される。
 収入も大事だから仕事を減らすことは難しい。家にいる時間が少なくなるなかで、いかに妻と赤ちゃんを支えていくのか。創造力/想像力が試される局面だ。

セルフ産休(産後)

 産後のセルフ産休期間は約五週間あったのだが、そのうち育児に直接関わり始めたこの約三週間は怒涛の毎日だった。仕事は週二日ほどに抑え、家事全般はもちろん、できる限り育児に参加し、さらに両親への顔見せや一カ月検診の付き添い、妻が産後検診や美容院へ行く時のワンオペ子守りも行った。
 まずもって体力面のハードさがあった。赤ちゃんを抱っこし続ける行為は、慢性的な腰痛をもたらした。抱っこ紐を使用した際には肩こりにもなる。それから、気力の維持にも難儀した。赤ちゃんと接していること自体は楽しいのだが、いきつけのBarなど夜遊びに行くことがはばかられ、友人たちと話す機会が激減した。そんな中では赤ちゃんが大人しくしている隙に、本稿のような文章を書くことが大事な吐き出し行為となっている。

気分転換は音楽

 育児生活において、最も有効な気分転換が音楽鑑賞である。料理や買い物をしている時、通勤中など、短時間でも欠かさずスピーカーやイヤホンで音楽を聴くようになった。
 お気に入りは、年末に発売した滝沢朋恵の4thアルバム『AMBIGRAM』である。2nd以降のCDを持っているが、今作はポップな仕上がりで、気持ちが明るくなる曲が多い。先行配信された「ラッコの貝」は本当に癒しと戒めの名曲である。「貝」は、「解」でもある。答えはいつだって自分の手の中にあるというのに、私たちはそれをなかなか見つけられない。
 「duda」という曲に次のような歌詞がある。「鼻歌で教えてよ まだできていない君の歌ならば」。未完成でも、未成熟でもいい。とにかく作品を作って世に出すことを肯定している。「貝」は、「快」や「甲斐」でもあるのだ。前向きなメッセージに勇気をもらう。

マタニティーブルー

 産後六週間が経った。一般的に早い人では産褥期の終わりを迎える時期である。この産褥期の早期に発生するとされているのが、マタニティーブルー(マタニティーブルーズ)や産後うつだ。妻はもともと、急に感情が爆発したりダウンするタイプなので、妊娠中から数え切れないほどの浮き沈みがあった。産後はまず里帰り中の実家で感情爆発が起こったが、そこから我が家に帰ってからは比較的落ち着いていた。
 しかし、産褥期の終わりで少し体が回復してきたせいか、ここに来て私に対して大噴火が発生した。怒りや不安の本質は、今後のことを考えたときに家計の見通しを示してほしい、という訴えだった。以前からその都度伝えてきたつもりだったが、如何せん私の仕事がちょうど不安定な時期だったのが良くなかった。噴火を迎え撃った今では、これからの生活スタイルに関する認識合わせができて、一石二鳥だったと思っている。
 なお、マタニティーブルーや産後うつは、産後三カ月以上経っても発生する可能性があるとされている。要するに、当面は妻のメンタルヘルスには普段以上に注意したいところである。

パタニティーブルー

 女性のマタニティーブルーに対して、夫である男性もマタニティーブルー(パタニティーブルー)や産後うつになり得ることはあまり知られていない。もともと私には、心の疲れが溜まった場合、予定のない日は午後まで起きられなくなってしまう、というプチうつのような症状がある。育児生活が始まって一カ月、たまたま四連休が取れたのだが、一度も午前中に起きられなかった。四日目、妻から外でリフレッシュしてくるよう命じられ、あてどなく家を出た。
 もともと夜に行くつもりだった銭湯をキメた後、二カ月ほど前のオープン時に行ったきりだった駅前のカフェに入った。五百円の深煎りブレンドを注文し、窓際のカウンター席でラップトップを開いて、自身のメンタル状況について思索を巡らすことにした。
 振り返ってみれば私のメンタルは、常に危機に晒され、緊張を強いられていた。出産以前よりも父としての役割が明確化し、生活スタイルは変容を余儀なくされている。それは望んでいたこととはいえ、どんどん頭を切り替えて受け入れていく力を使うという点で、負荷がかかる。どうやら私の頭はキャパオーバーしていたようだ。
 妻からは、「家でも仕事のメールをしている」ことで疲れが溜まったのではないかと指摘された。確かにそれも原因の一つだと思う。育児と一緒で、自分の望んでいた理想の仕事であることに不満はまったくないのだけれど、如何せん新しく立ち上がった会社の重要ポジションに属していることもあり、イレギュラーなやり取りが盛んな状況に巻き込まれていた。安定するまでは、それも自分の仕事の一貫だと楽しんでやっていたつもりだったが、負荷がかかっていたことに違いはない。
 結局、育児と仕事の両面で押し寄せていた新しい変化の大波に、すっかり飲み込まれたのかもしれない。どうせ波が来るなら二つまとめて来やがれと意気込んでいたが、浜辺に打ち上げられた今は、「エグい波だったな」と思う。その波のお陰で、この文章が白い砂浜に書かれている。次の波で消える前に、必死で書き留めている。

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