よもよも話④~私と育児~

直感行動

 赤ちゃんと母親(妻)が「今/居間」という世界(川A)に没入しているなかで、「外」の世界(川B)を中心的に生きている私は、如何にこの溝(渠)を埋めるのか。
という課題に対して、どうやら答えが一つ浮かびつつある。
それは、“直感行動”である。
日常に芸術を持ち込んだハイレッド・センターの「直接行動」は介入的な手法だったが、
この“直感行動”は介助的な手法になる。

 直感行動は、読んで字のごとく「直感的に行動する」ことを意味する。
いわば、考えるより先に行動することを重視する方針だ。
たとえば、私が仕事から帰宅したとき、ぐずる赤ちゃんを妻があやしていたとする。
こんなとき、父親である私は手洗いくらいは済ませても良いが、
上着を脱いだりすることはそこそこにして、
まずは赤ちゃんのあやしを交代するのが望ましい。
次に、同時に状況を推察する。
いちいち、妻に聞いてはいけない。
見ればわかることに答える余裕は、妻にはないことが多々ある。
妻が料理途中で、赤ちゃんがお風呂にも入っていさそうだとすれば、
率先してお風呂に入れる。

 このような立ち回りを、私は仕事でもしている。
強度行動障害のある重度知的障害+自閉症の人たちのマンツーマン支援にあたっては、
本人の突発的な行動に対して、瞬発的に対応する場面が少なくない。
急な走り出しに対して、追いかけるべきか悠長に考えてから追いかける支援者はいない。
もちろん、行動予測しておくなど、事前あるいは事後に考える要素もある仕事だが、
本人の行動が予想の斜め上をいくことがあるから、支援者には直感的な対応が求められる。

 もっとも、ワンオペ状態でなければ、妻との連係プレイという部分が重要になってくる。
そこではますます、直感が物を言う。
ツーと言えばカーくらいの言葉のコミュニケーションで成り立たせるのが育児生活だ。
スポーツに例えればサッカーやバスケのような動きであり、
野球や陸上をやってきた私が鍛えてこなかった能力だ。
仕事だけではなく育児生活においても、直感行動ができるようになりたいと思う。

出産祝い/内祝い

 親戚や友人、会社から出産祝いの金品を頂いたので、
お返し(内祝い)を約3カ月かけて行った。
といっても、妻の関係が多かったので、
これも妻が主導だった。
西荻窪で偶然見つけた一点ものの器を爆買いし、
新卒で陶芸ギャラリーに勤めていた妻のスキル大爆発な梱包をかまし、
黒猫マークの運送会社に発送を託した。

 ところが、運送業界は2024年問題で揺れており、
ブラック労働と人材不足の影響がいちドライバーの肩にのしかかっているようで、
なんと義弟家族へ送った大皿が盛大に割れて届いたため、
代わりに別の作家の器を用意する面倒が生じたりと、
スムーズにはいかなかった。
私が義母と決裂してからというもの、
どうも私(私の家)と向こうの家との間には、
ヒビが入るようになってしまったのかもしれない。

ベビージム(こどもチャレンジbaby)

 子育てには、その時々の子どもに合った対応が必要である。
生後3カ月を過ぎた赤ちゃんは、もはや単純なあやし方では満足しなくなってきた。
そこで、瀬戸芸のスポンサー会社がお届けしてくれる教材、
「こどもチャレンジbaby」を申し込んだ。
月額2310円で毎月様々な知育玩具が手に入るのだが、
一番のお目当ては、初回の特別号の目玉、
「ベビージム」である。

 これは、寝転がった状態の赤ちゃんの五感を刺激することができる、
スーパー・メリーゴーランドのようなもので、
歌が流れる玩具や飛び出す絵本など、
単体でも育児の強力な味方になるアイテムが付属している。
とにかく赤ちゃんは同じ姿勢を嫌ったり、
おもちゃもすぐに飽きたりしてしまうので、
このベビージムは大活躍している。
赤ちゃんは遊ぶほどに、様々な表情や動作を見せる。
その吸収力は凄まじい。

1年で閉店してしまった伝説のお店について

 私も赤ちゃんにならって、もっと遊びたい。
現実的には厳しいのだが、
買い物ついでなど、少し時間がある時がある。
そんなとき、昨秋に閉店してしまった、
あのお店があれば……と思う。
そのお店の名は、ノルドベイク&クラフツという。
早い日は午前10時前にオープンしていた個人店で、
カフェ業態のコミュニティスペースだった。
店主のトモコさんは土偶や縄文時代が好きで、
ノル土偶というオリジナルマスコットがアイコンになっていたが、
彼女は多様なカルチャーに精通していて、
色々なバックグラウンドを持ったお客さんが通っていた。

 常連だった私はトモコさんやそこで居合わせた老若男女のお客さんたちと、
ヴィーガン仕様のキャロットケーキやスコーンをお茶受けに、
まったりとコーヒーやチャイを飲みながら、
カルチャー談議に花を咲かせたり、ときに悩み事を打ち明けたりした。
ポトン文芸部という二カ月に一回エッセーを書く活動にも参加しており、
文章表現を通じて10数人の人たちと親睦を深めることもできた。
キッズスペースもあり、たまに子連れのママやパパが来ていたときは、
自分も生まれた子どもを連れいくものだとばかり思っていた(トモコさんもご自身のお子さんを連れてきたりしていた)。
まさか、お店の方が先になくなるとは……
もっとも、確かに経営が難しいという話は聞いていた。
価格は良心的で、利益率は決して高くなかったと思う。
お客さんは休日や夕方に偏りがちで、平日の早い時間の集客には苦労していた。
ノルドベイクは商売の形態をとってはいたが、実質的には運動や芸術の類だった。

 閉店後、トモコさんは店舗なしのノルドを始めた。
私は、あの空間が忘れられず、今も時々わざわざノルドのあった路地に行く(跡地にはネームタグのお店ができた)。
子育てのすきま時間で、ノルドに立ち寄れたら……
だが、ノルドに行くといつも前向きな気持ちになれたことを思い出すと、
過去を振り返って感傷に浸ってばかりではそぐわない。
私は、心のノルドに行き、頭の中でトモコさんと会話する。

妊娠ーー重症悪阻で入院の巻

 妊娠判明から出産までの約8カ月間については、細かく書こうとすると3万字以上の分量になってしまうため、
ここではつわりが重たくて入院までしたという話に重点を置いて話そうと思う。
妻の場合、妊娠7週~20週(5~7月の約3カ月間)にかけて、つわりあるいはそれに付随する症状に苛まれた。
最初期に起こったのは失神だった。

 妻はもともと迷走神経失調症という持病を抱えていた。
これは疲労やストレスがかかって自律神経のバランスが乱れることで失神する、神経症の一種らしい。
7年前の海外旅行中の飛行機内を最後に失神はしていなかったが、
今回は妊娠によってホルモンバランスが乱れたことで発症してしまったと思われる。
幸い、前兆があったため私が付き添っているときに倒れ込んだので、
母体に影響が出ることはなかったが、
果たして無事に出産を迎えられるのかと先が思いやられた。

 その心配に輪をかけたのが、重たいつわりの発症だった。
段々と食べられるものがなくなっていき、ついに水も飲めなくなった。
そして妊娠10週目の5月下旬、いよいよ妻が自分の頭で考えたり動けなくなってしまったので、
私の判断でタクシー券を使って妊婦検診を受ける病院へ向かった。
即入院を勧められ、結果的に妻は10日間の入院・点滴生活を送った。
診断名は「重症悪阻(おそ)」だった。

 妻が入院し、寂しい気持ちがあった一方、
私も妻のフォローで疲弊していたので、良いレスパイトになった面はある。
妻のつわりは退院してからもなかなか収まらず、
その日その時食べれそうなものを食べては吐いたり吐かなかったりを繰り返しながら、
産休に入るまでに終わらせなければならない会社の仕事をこなしていた。

 振り返ると、妻はこの時期が一番メンタル不安定だった。
将来やお金の不安、自分のアイデンティティの揺らぎ、
そうしたネガティブな感情が当然夫である私に向かって来て、
私は子どもができたことへの実感が薄く、
この時もまだ今後の生活に関するイメージに乏しかった。
妻からは、「産前クライシスになるかも」とまで言われていた。

 まず私は資格を取得し、アルバイトながら新しい仕事を開始した。
それが現在までつながる、障害を持つ人を介助する、福祉の現場の仕事だ。
私の無職期間は約8ヵ月で幕を下ろした。

里帰り出産ーー逆子が直るも予定日超過で入院の巻

 はじめ、出産予定日は12月17日(日)だった。
その雲行きが怪しくなったのは、11月に入った頃だったか。
お腹の赤ちゃんが逆子だと判明したのである。
妊娠36週目を迎える4週間以内に逆子が直らなければ、
12月8日(金)に帝王切開で出産する予定ととなった。

 そのため、妻は11月21日(火)に、大学病院のある地元に里帰りした。
子宮筋腫があり、手術で出血多量の場合に、検診に通っていた病院では対応できないという話があったからだ。
ただ、11月16日(木)に、妻はお腹の中で変な動きを感じ取っていた。
「逆子が直ったかも」。
エコーを撮るまでは希望的観測に過ぎない。
私はどちらの心づもりもして、妻を地元に送り届けた。

 11月28日(火)、大学病院における検診で、逆子が直っていることが確定した。
これ以上週数が経ってから直ることは難しいという、ギリギリでの帝王切開回避だった。
一方で、出産予定日は12月17日に逆戻りし、妻の里帰り期間は2週間前後延びることになった。
私は仕事のシフトを減らし、12月からは妻の実家に頻繁に通うようになった。

 この間に、妻の実家での私の振る舞いに妻の両親が不快感を募らせ、
出産直前に説教してきたことで私が逆ギレして決裂した話に繋がるのだが、
ともかく、出産予定日を過ぎても赤ちゃんは生まれてこなかった。
里帰りから1ヵ月が経とうとしていた。
病院的には、年末なので、12月28日(木)までに生まれてこないと、
医師の手が足りない期間に入ることを懸念していた。
そこで、予定日を5日過ぎた12月22日(金)に妻の入院が決まった。

 院内で、適度な運動を行ったり、陣痛促進剤を打ったりする、
出産合宿のような日々が始まった。
クリスマス生まれになるかもね、なんて言ったりしていたが、一向に生まれる気配がなく、12月28日(木)を迎えた。
昼過ぎにハサミを使って破水をさせて自然分娩を狙い、
それでも陣痛が来なければ、帝王切開するという計画を実行することになった。

 15時過ぎ、妻からの連絡が途絶え、何が起こっているか分からなくなった私は、病棟に問い合わせた。
すると、妻が陣痛と闘っている病室に通された。
助産師さんが見守るなか、手すりにつかまりながら専用の椅子に座って、激痛に耐えている妻の姿があった。
子宮口が開きつつあり、このままいけば自然分娩になるとのことだった。
ギリギリのところで、帝王切開を回避したのである。

 16時半頃、手術室の分娩台の上に移動した。
立ち合いを希望していた私は、妻の頭の後ろに立ち、
妻の手を握ったり、顔の汗を拭いたりしながら、
声をかけるという役割を頂いた。
そこから前方を見ていると、計7人くらいの医師や助産師がベッドを囲み、
それぞれ手を動かしたり声を発したりしている光景が広がっていた。
その手厚さに安堵したのもつかの間、
「(会陰)切開しましょう」と医師が相談している声が聞こえ、
その直後、妻の股の間から赤ちゃんらしき小さな物体が引っ張り出され、
「オギャー!」という産声をあげた。

 16時53分、「娘・よもぎ」が生まれた。
その赤ちゃんは、別室で清拭されたり、簡単なバイタルチェックを受ける。
写真撮影が許可されたので見守っていたら、
通常1回のウンチを2回して助産師さんを困らせていて、我が子らしいと思った。
その後、分娩台の上の妻と3ショットを撮ったのち、私は病室待機となった。
妻は会陰切開の縫合手術に入った。

 病室で待機すること1時間、保育器に入った赤ちゃんが運ばれてきた。
抱っこしたりして良いという。
改めて赤ちゃんの顔を見ると、目を閉じていて、全体的にクシャっとしているのはいかにも新生児っぽいが、
その顔の雰囲気からはしっかり自分に似ているものが感じられた。
紛れもなく、自分の子だと思えたし、純粋に嬉しかった。

 さらに1時間後、ようやく妻の縫合手術が終わり、
妻と少し会話を交わした後、私は東京へと帰る電車に乗った。
後日談だが、妻はこの縫合手術が出産全体を通して1番痛かったと語っている。
また、破水直後の陣痛も痛かったが、そこは乗り切れたという。
何より、出産は超絶楽しかったと言っているから、
妻が自然分娩できるよう私もフォローしてきた甲斐があった。

 妻は大晦日や元旦も病院で過ごし、産後5日目の年明け1月2日に退院して実家に帰った。
その際、私は義母とケンカの続きをしそうだったので、
実家には顔を出さず、東京へと帰る電車に乗った。
それからの数日間、仕事を減らしている私は区役所に出生届や子ども手当の申請書等の提出に行ったりして過ごした。
妻は約2週間後に、赤ちゃんと一緒に東京に帰ってきた。
「よもちゃん」という新しい家族を迎えた、3人の生活が始まることとなった。

ネンネトレーニング

 話の時系列は、生後3ヶ月頃に戻る。
この頃から、赤ちゃんに昼夜の区別をつけさせ、
生活リズムを整えていく必要が出てくる。
朝は7時頃に起こして日光を浴びせ、
夜は9時頃までに寝かすことが良いとされる。
夜型の私たち夫婦の生活リズムも正される良い機会になったのだが、
それにしても寝かしつけには難儀した。

 ただでさえ抱っこを要求するよもちゃんは、
寝るときに布団の上に置かれそうになると、
それを敏感に感じ取ってすぐにギャン泣きする。
抱っこの状態であやして寝てから置いたとしても、
しばらくして目を覚ましたら泣き出してしまう。
寝かされて泣いているよもちゃんが、あらゆる手であやされ、
眠りに落ちるまでに最初は2~3時間かかった。

 やがて、よもちゃんも慣れていき、
最近では早ければ30分くらいで眠れるようになってきた。
だが、これは基本的に妻が担当しており、
私はまだ寝かしつけに成功した試しがない。
今後の課題である。
妻のように寝乳ができない私は、
それでも勇気を出して回数を重ねていければと思う。

「今/居間」を中心に据える

 赤ちゃんも人間らしくなってきて、
育児生活にも一旦は慣れつつある。
これからもっと大変になっていくかもしれないし、
育児はまだまだ続いていく。
だが、これからの育児生活に対する基本方針というか、
覚悟のようなものが決まりつつあるので、
それを持ってすれば何とかやっていけそうな見通しが立った。

 その覚悟とは、赤ちゃんを自分の中心に置いて生きていくというものである。
これまでの文脈で言えば、
妻と赤ちゃんが生きる「今/居間」の世界に私も軸足を置きつつ、「外」の世界へ出ていくという、
逆転の発想である。
確かに、「外」の世界で過ごす時間の方が長いし、濃厚であることには変わりないかもしれない。
仕事のことで頭はいっぱいだし、余暇に執筆したり飲む時間は楽しい。
でも、あくまで中心には赤ちゃんがいて、赤ちゃん最優先で生活していくということだ。

 たとえば赤ちゃんが寝る時間に合わせて、自分が銭湯へ行く時間は後ろ倒しにし、妻が夕食を作っている間に私が赤ちゃんをお風呂に入れるなど家にいる時はもちろん、
自分が執筆しにカフェへ行くのは、あくまで赤ちゃんと妻に負担がかからない日程に限られる。
そして、それで自分が納得する、ということである。
ともすれば、執筆時間が取れず、イラついて、家庭に不和をもたらすだろう。
そうならないレベルで、私はもう、新しい生活、新しい生き方をしていく。
その中で、限られた時間で、質の高い文章が書ける予感がしている。

 私が積極的に育児を行うことで、妻も閉塞感に苛まれず、
リフレッシュの時間が取れるようになる。
そうなれば、育児がスムーズにいき、結果的に私がリフレッシュする時間も取れたりする。
「欲するな、さすれば与えよ」って感じがしている。

 子どもを持つという時に、親としての責任が生じるとよく言うが、
それは保護者としての社会的な責任を指す。
でも、私は、自分の人生の中心に障害のある妹とか芸術とかではなく、
自分の子どもを据えるということが、親としての責任を果たすことなのだと知った。
これは、一過性の話ではなく、半永久的に続くものである。
だからこそ、この初心を忘れないよう、ここに記しておこうと思う。

 「よもよも話」は、これで一旦は終わりである。
育児の合間に、妊活から出産まで、網羅的に振り返ることを通して、
父親としての覚悟が決まり、人生のターニングポイントに一区切りつけることができた。
直感行動力とか自分に欠けていた大切なことを思い知らされた。
これもひとえに、妻の頑張りのお陰である。
義母との溝など新たな課題も残されているが、
焦らず前向きに克服していきたい。
かわいい、かわいい赤ちゃん。
よもちゃんのために。

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