よもよも話②〜私と育児〜

乳児/New(育)児

 赤ちゃんの成長は誰よりも速い。
この世で一番か弱い新生児の4週間は、瞬く間に過ぎ去ってしまった。
そして、乳児に分類される段階に突入する。
このとき、我が家の赤ちゃんに起きた大きな変化がある。
それが、昼夜を問わない「寝ぐずり」だ。

 寝ぐずりとは、抱っこしないと泣き叫ぶ状態を指す。
それが、2〜3時間おきの授乳後に毎回のように訪れる。
泣き叫ぶのを抱っこしてあやしているうちに次の授乳の時間が来てしまい、結局かかりっきりになってしまうという悪魔の無限ループ。
授乳後に平気で5〜6時間寝てくれていた、天使のように可愛い新生児ちゃんはどこへ行ってしまったのかと思う。

 もちろん、天使の部分は消えたわけではない。
乳児になった赤ちゃんが寝ぐずりするのには合理的な理由があり、それを解消することで天使のように大人しく寝てくれることもある。
たとえば、うんちの出が悪くて苦しがっていたら、あえて少しミルクを飲ませることでお腹に刺激が与えられて、うんちが出てくることもある。
うんちが出たあとは、それまで何をしてもどうにもならなかった泣き叫びが、嘘のようにピタッと止まったりする。

 もっとも、簡単に解消できることの方が少なく、赤ちゃんの「今」を捉えることは容易ではない。
赤ちゃんの「寝ぐずり」はどうしようもないときも多々ある。
特に親が眠りたい夜間は、寝かしつけにいつも2時間以上かかっている。
赤ちゃんは寝かしつけられて自分がかまってもらえなくなるのが怖いのか、息がハーハーしてくる。
これには効果的な対策がなく、赤ちゃんが寝るまで(妻が)ひたすらあやすしかない。

 育児は、とにかくこちらの「今」を捧げなければ始まらない。
大事なのは奉仕の精神というよりも、もっと泥臭い自己犠牲の精神である。
自分のケアを疎かにしても、赤ちゃんのケアを疎かにしないために手を動かし続けること。
これはもはや、創作行為と何も変わらない。

義母との決裂――大人、複雑な生き物

 言ってしまえば、赤ちゃんは単純な生き物だ。
お腹が空けば泣くし、抱っこすれば眠る。
もちろん、手のかかり具合には個人差はある。
でも、要するに守って育てればいいという、大枠は明快である。

 それに対して、大人は複雑な生き物だと思う。
なかでも一番分かりにくい存在が、義母だ。
表面的にワチャワチャするのは義父より簡単だが、
本心に応えるのは容易ではない。
義母は、猫の皮を被った虎なのである。

 私は結婚4年の間に、義母との距離を少しずつ縮めてきたつもりだった。
ところが、妻の妊娠を機に、義母と私の間に亀裂が入った。
その亀裂は私にはまったく目に見えない、
言わばクレバスのようなものだった。
そして、出産当日、私は奈落の底へ落ちた。

 義母からすれば、私への不信感が高まっていた。
私は、親戚付き合いにおける礼儀・作法に疎かった。
その辺りは妻のフォローがあって、結婚3年はクリアしてきた。
しかし、妻が妊婦となり自分のことで精一杯になった。
私は妻に頼らず、義母と接さなければならなくなっていた。
そのことに無自覚だったばかりに、私は義母の反感を買っていたことに気づきもしていなかった。

 出産2時間前、義父母から突然の電話がかかってきた。
娘が初めて出産することへの不安が、義母の感情を高ぶらせたのだった。
電話の内容は一言で言えば、妻の状況を心配するものだった。
しかし、それは同時に、私への説教にもなっていた。
確かに、私には至らないところがあった。
けれど、私は説教がこの世で一番大嫌いな人間だった。
説教してくる大人に頭を下げるくらいなら、私は仲間外れにされてもいい。
それがたとえ義父母であっても。
否、義父母だからこそ、説教してほしくなかった。
受け流せなかった。

 私は義母に真っ向から言い返した。
激昂している義母は、私の言葉に逆上するだけだった。
私は、私という人間を尊重してくれない義父母の態度に失望していた。
義母と決裂し、電話は終わった。

 2時間後、分娩台の上で私の手を握る妻の股ぐらから、
赤ちゃんがオギャーと生まれてきたとき、
私は幸せを感じられなかった。
義父母とのわだかまりが、感動を阻害した。
気分は、ロシアに攻め込まれたウクライナである。
分離・独立しているはずなのに、
独裁的な社会主義体制に自由民主主義は通じない。

 そもそも、私は慣習的なことが大の苦手なのだった。
礼儀・作法のマニュアルは、教科書には載っていない。
自分の両親など家族から自然と教わることが通例だと思われるが、
うちは機能不全家族だったので、それどころではなかった。
YouTubeなど自分で学べば良かったのかもしれないが、
そもそも重要性をわかっていなかったのである。
(だから、妻のフォローに頼りきりだった。)

 重度障害のある家族がいたりして、
機能不全家族で育った人間(私)は、
結婚や出産において、直接的に不利になるというより、
こうして間接的に影響を受けるものだと知った。
これが、私の生きづらさか。
自分に欠けているものを拾い集めていかなければ、
真っ当な人間として生きていけないのである。
もちろん、外道を選ぶ人も大勢いる。
でも、私は結婚して、子どもが欲しかった。
機能不全家族で育ったからこそ、幸せというものを知ってみたかった。

 このような私という人間こそ、
本当に複雑な人間に違いない。
義母の複雑さは、あくまで形式的なものに過ぎない。
私は、私のような複雑な人間に娘を取られた母親(義母)の気持ちを察し、
申し訳ない気持ちになる。

 ちなみに、私が赤ちゃんのいる生活に幸せを感じられるようになったのは、
それから2カ月近くが経って、
こうして出来事の整理がついてきてからである。
赤ちゃんの未来のためにも、真っ当に生きていければと思う。

「今」と「外」の流れ

 赤ちゃんが「今」を生きているとすれば、その主たる育児者である母親もまた、「今」の世界に没入する。
一方、私は仕事など「外」の世界を主戦場としている。
外の世界は、「今」ではなく、「未来」とか「過去」に囚われがちである。
たとえば、仕事では「過去」の業務を焼き増ししたり、「未来」の予定を立てるスキルが必要だったりする。
私はその「外」の世界の感覚を、「今」の世界に持ち帰ってしまう。
「今」の世界を生きる妻と、「外」の世界を生きる私との間に、溝が生まれやすい状態が続いている。

 どうやって私は「今」の世界と交わればいいのか。
一時期、「今」や「ここ」に集中してパフォーマンスを向上させるトレーニングとして、マインドフルネスが流行った。
だが、育児における「今」への没入は、パフォーマンスの向上を目的とするマインドフルネスとは異なる。
赤ちゃんの快/不快とか、健康や安全を守ること――穏やかな幸せの獲得を目的としている。

 似たような世界として、私の仕事の現場のことを思い起こす。
重い知的障害のある人の自立生活支援の仕事だ。
具体的には、自閉症など意思の疎通が難しい人をマンツーマンで見守り、日中は本人の好きなところへ遊びに行ったり、夜間は一人暮らししている家で食事や入浴などの介助を行う。
彼らは、基本的には目の前の出来事やその時の身体の状態に敏感なため、後先のことを考えて行動することが難しい。
そのため、私は彼らの「過去」を踏まえたり、「未来」を予見しながら、「今」の彼らと向き合う。
彼らへの介助と育児は似ているところがあると思う。

 ただし、彼らは赤ちゃんと比べ物にならないくらい、「今」を生きることに長けた存在である。
「今」を遊ぶのが上手いのだ。
使うのは、自分や介助者の身体、目の前の物。
奇声を上げてみたり、介助者を叩いたり、電車の非常停止ボタンを押してみたりする。
そこまで派手な遊び方じゃなくても色々ある。
昨日、初めて支援した人は、マックのポテトを全部お盆に広げてから、一本一本千切ったり潰したりしながら楽しそうに食べていた。
彼らは彼らなりに、退屈しのぎを編み出して生きている。

 私に足りないのは、「遊び」かもしれない。
「今」の世界を楽しむことと、そのための心の余裕としての「遊び」(余白)。
「外」の世界に囚われていると、心に余裕がなくなり、自分しか見えなくなる。
その状態で、「今」の世界に足を踏み入れても、「今」の世界を楽しめない。
むしろ、「外」の世界で得た疲れの解消を、「今」の世界に求めてしまう。
妻との間に、溝が生まれる。

 溝は、渠(みぞ)である。
昨日は、少し、遊びに出掛ける機会を得た。
西武新宿線の中井駅周辺で開催されている、「染の小道」へ行った。
妙正寺川に反物がかかっていた(周辺のお店には、特製の暖簾がかかっていた)。
12mほどの幾重の布織物が川を、渠を覆っていた。
それは、水の流れに沿って、有機的にはためいていた。
「今」の流れに重なる、もう一つの流れ。

 「今」というのは「点」のように思いがちだが、「線」のような流れとして捉える方が適切なのかもしれない。
そして、妻の流れ(線)と私の流れ(線)が交わる瞬間(点)の交点を求めること。
そう言えば、まさに不妊治療も交点を生み出す作業だった。
排卵日に夜の営みを行う、ただそれだけのことが難しかった。
育児もまた点ではなく、不妊治療から続く流れの延長線上にあるのだろう。

 要するに、独りよがり(点)にならないことだ。
家族の幸せが自分の幸せになることを知ること。
三方よしとか、利他ではない。
そもそも自己と他者を分けるのが違う。
私は私たちだし、私たちは私である。
線(流れ)は重なり、面(生活)になる。

 ところで、一本の川が分かれてまた合流するところに中州ができるとしたら、
二本の川が合流してまた分かれるところの川は、なんて呼ばれるのか。
いずれによせ、そこは点ではなく、ある程度の長さを持つ線になることが望ましい。
交点を交線へと、できるだけ引き伸ばしたい。
あわよくば、面へと広がって。
そう、中井の「染の小道」のように。

赤ちゃんの口

 赤ちゃんの口は面白い。
たとえば、口から軽く泡を吹いている様子など、カニのようだから、
私はそれを「カニさん」と呼んでいる。
口の中で「ぶちゅぶちゅ」と、唾で遊んでいるような音がすることもある。
最近では、すっかり指しゃぶりも始まった。

 何しろ、赤ちゃんには、歯が生えていない(という新鮮な驚きがある)。
そのおかげで、乳首を吸うことができる。
しかし、母親が痛くないわけではない。
むしろ、「サンマを焼くときに、お腹に井型に切れ目を入れておくじゃない?
あれくらい痛い。乳首だけじゃなくておっぱい全体が痛い」
と妻は申している。

 妻曰く、生後8週目くらいからは、妻のおっぱいが張り、
出る母乳の量が増えたのだが、
それは赤ちゃんが毎日吸っているうちに、
そうなったのではないかという。
赤ちゃんの口は、たとえ言葉を喋れなくても、
母乳やミルクを飲むだけではなく、
色々な役割を果たしているようだ。

死に対する実感

 赤ちゃんが生まれて2カ月が経ち、少し育児が落ち着いた頃、
ふと、「自分はいつか死ぬんだ」という実感が湧いた。
それは、赤ちゃんの存在感を日常的に感じていて、思ったことだ。

 これまでは、頭では「いつか死ぬ」と知ってはいるが、
どこか他人事というか、先の話だと思っていた。
しかし、基本的には自分よりも長く生きる赤ちゃんという若い人を前にしたとき、
「自分はこの赤ちゃんより先に死ぬ」⇒「死ぬんだ」と実感した。

 にわかに、死が怖くなった。
でも、せわしない育児生活を送っているうちに、
それもすぐに忘れた。

公共への新しい感覚

 もう一つ、新しい感覚を覚えた出来事がある。
それは、近所の道を自転車で通っていて、
通行人などを視界の先に入れていたときだった。
そのなんてことない道に対して、
「お借りしている場所」と感じたのである。

 逆に言うと、これまではその道に対して、
「自分の物」だと思っていた。
「我が物顔で歩く」ではないが、
その道を好きに通っていいと思っていた。
でも、そのときは、
みんなで譲り合ったり、優しい心を持ち寄って、
この道を使うべきなのだと感じた。
もちろん、具体的な違いは明らかではない。
そこまで狭い道でもないし、笑顔を振りまいて通行していたら、
逆に不審がられるだろう。
別に今まで通り、鼻歌を歌いながら通ったって問題はない。
ただ、自分が「優しい気持ち」を胸の中に携えて、
街路に出ていたいと思った。

 そもそも、街路は「公共」の場所だった。
ただ、ルールを守ればいいのではないのだ。
そして、それは、何も「公共」の場所に限った話ではない。
どこでだって、譲り合いができたらいい。
つまり、いつでも「優しい心」でいられたらいい。
その状態は、作ろうと思って作れるものというより、
環境が自然にそうさせる部分が大きいのではなないかと思う。
具体的には、育児生活には、「優しい心」を芽生えさせる、
素地があるように感じている。

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