ファスビンダーが分かってしまった。
Berlin Alexanderplatzを読みながらジョイス由来のフローベール性に感嘆としたのち、お気に入りであるファッション関係のTikTok動画をみていた。一時間ほど視聴したのち体がだれてきて、これまで避けてきた問いが、頭に浮かんだ。なぜこうもTikTokは画面がつまらないのだろう? 二秒で気づいた、モンタージュがないからである。特に画面内でのモンタージュである。「site:ac.jp 画面内 モンタージュ」で検索すると「画面内モンタージュ」というそのままの言葉がでてきた。左と右で奥行きをもたせるために対角線が導入された歴史、などがでてくる。しかしわたしがこれまで漠然と仮定してきたことに関して、英日仏語で書いているひとがいない。当たり前なのかもしれない。適当なことをネットに書くのは電気の無駄で、ニコチン(JLGやRWFの仕事道具)を摂取して得た蒙昧さで文章を書き捨て、精神を逆なでることは避けたいが、誰も指摘していないようなので簡潔にでも書いておくしかない。
画面内モンタージュの最たる例はファスビンダーである。ファスビンダーの画面は典型的。ひとつのショットに、2つの画面がある。つまり縦長のイメージが左と右で2個並んでいる。今風にいえばTikTokの画面が2つ並んでいる。左と右はそれぞれ別のキャプションがつけられる写真になっている。そこに媒介役があらわれる。媒介役は2つの境をこわすようにアップされ、横断する。橋渡しをおこなうのが鏡で、鏡が真ん中にあらわれることなどなく(おそらく)、逆側のイメージを部分的に持ってくる働きをする。左と右の関係は究極的にドリーショットによって解決される。ファスビンダーはマジ、クリシェ。
これから三十年縦長の画面で同じことが行われる。TikTokが横長の画面2つになる。そこでファスビンダーやゴダールが行ったことが横長の2つの画面で繰り返される。そこに新しさはないが、必要不可欠である。
結局モンタージュかよ、と映画にたいする信頼を失いかけるが、だからこそモンタージュの否定で入ったタルコフスキーの偉大さがわかってくる。画面にアイオーン的な時間を導入した。
モンタージュの乗り越えでいえば、最近羽田澄子や土本典昭の特集をおこなった雑誌ルミエール( https://www.elumiere.net/lumiere_web.php )が熱心にとりあげる実験映画(?)が参考になる。ジャン=クロード・ルソーやルソーの『サウダージ』にでている鈴木仁篤は素晴らしい仕事をしている。構造を破壊してしまったメカスからのボリス・レーマンの流れも見逃せない。日本で映画を撮り始めたエリック・ボードレールの『Une fleur à la bouche』は類まれに美しい。素晴らしい映画にはどこか(世界の立ち現れの点で)フローベールが生きている。
わたしはファスビンダーのことをエルサレム市長の息子(政治が嫌になりNYCで娼婦の映画を撮っていた)アモス・コレックの『Forever Lulu』に出演していたハンナ・シグラきっかけで知ったのだが(『Forever Lulu』はハンナ・シグラと映画初出演アレック・ボールドウィンのラブコメ)、ゴダールやデュラスが「自分はある意味でユダヤ人」と語っていたこと、ウディ・アレン(の映画内で予見されていたMeToo騒乱)、アモス・ギタイ(「イスラエルはナチスへの怒りで結束した国」と発言したのを2022年に聞いた)、ダビット・ペルロフのレトロスペクティブ、足立正生に注目したボードレールの作品、ファスビンダーのユダヤ人ジョーク(欧州の若者の間ではいまだ日常的につかわれている)、などを経たことで、ユダヤ人の問題が映画の中心にあると理解していた。モンタージュは2つの別の場所をつなげること(ゴダール)だが、イスラエルによるガザ侵攻が、モンタージュの失墜、映画の失墜であることは紛れもなかった。しかし映画の技法は培われてきている。Bisan Owdaの秀逸な携帯動画を貼って、稿を閉じたい。