個人主義と分人主義について

以下はここ数週間の問題意識を、平野啓一郎著『私とは何か 「個人」から「分人」へ』を読んで発展させた、個人的雑感を記したものである。

個人主義について

まず、私が抱いていた問題意識とは何だったのか述べたいと思う。
それは端的に言えば、ここ数年、特に日本で、人々の個人主義化が悪化しているのではないかということだ。人々が、自らの求める交友関係やコンテンツの受容しか行わないようになり、人々の嗜好の固定化が進み、ますます社会の分断が悪化しているのではないか、と。

その社会的な流れの例としては以下が分かりやすい。

この記事では、日本のSpotifyのヒットチャートの持続期間が、他の先進国と比べて長く、新しい音楽を聴くことに消極的であるということが、様々なデータの下、示されている。
僕自身も、YouTubeで、過去に見て面白かったお気に入りの動画を何故か何度も見直していたり、Spotifyで好きなアーティストの曲を何度も聞いたりしている自分の、時間の無駄遣いに呆れることが多い。全く同じコンテンツではなくとも、同種のコンテンツばかり見るというのは、コンテンツが飽和している現代では、かなり普遍的なことではないだろうか。特に、インターネットの歴史の蓄積により、現代では、過去の活動のアーカイブがネットに残っていることが普通になっており、新しいコンテンツを発見した際にその過去のアーカイブを見ていけばかなりの時間を要することになるだろう。

そして私は田中みな実のように他人との関わりを排除する生き方が可能となったのは、そのような各種サブスクサービスの発展によるものが大きいだろうと考えている。
過去の傾向にそったコンテンツをおすすめに表示するアルゴリズムを含め、自分が摂取したいコンテンツだけを摂取することができるサービスの発展により、一人で過ごす時間を充実して過ごすことができるようになり、人との接触が一人で過ごす時間に勝る楽しさを提供するのが難しくなって、むしろその煩雑さが勝つようになってしまったのではないかということだ。

そしてそのような、他者や新しい物との接触による自己変容を避け、今の自分の感性に沿ったコンテンツや意見だけを摂取する生き方は、サイバーカスケードなどのように、自らの考え方を強化し続ける。それにより人々の分断は悪化しているように思われる。そして社会の分断は、他者との接触の煩雑さをさらに強め、さらなる個人主義の悪化を生むという悪循環を導くように思われる

分人主義について

このような問題意識を抱いた私にとって、その逆の、個人主義の終焉を謳う平野啓一郎の「分人主義」の考え方は大変興味深かった。時代の変化なのか、私には当然に感じられることも多かったが、人間の人格の動きを見事に説明していると感じ、実体験に多く符合した。
分人主義の考え方を僕なりに簡単に述べると、人の人格は、特定の人やコンテンツに合わせて形成する「分人」のネットワークによって構成されており、それらは互いに異なって当然であるというものだ。そして自らの個性とはその「分人」の構成割合であり、自分自身が好きになれる「分人」の比重を重くすることが重要である、と平野は主張する。

平野は個人主義から分人主義という歴史的変化があると述べており、その点私の上記の問題意識に沿わない。

しかし私の問題意識は平野の「分人」概念を使うと以下のように整理できるように思う。
かつて、社会は新しい人や物との出会いに溢れていた。会社や大学では大人数での飲み会や旅行などのイベントが企画される。趣味を持つにしろそのコミュニティに属して情報や過去のアーカイブを分けてもらうことが今よりも重要であったし、本屋やCDショップなどで様々なコンテンツを眺めて「ディグる」ことがコンテンツを摂取するためには必要であった。それらは自らの望まない他者との接触を余儀なくしただろうが、予期せぬ出会いも多く提供してくれたように思う。
しかしインターネットサービスの発展により、自分の好むコンテンツだけを摂取し、自分と気が合う人とのみ接触することが行いやすくなり、自分の「分人」の構成割合を自由に操作しやすくなった。それにより人々は自分の好きな「分人」にかつてないほどの比重を置くようになり、実質的に「個人」と化した、のではないか。
上にあげたYouTubeやサブスクサービスがその最たる例だが、ここではマッチングアプリをその例にあげたい。どのような相手と出会いたいか事前に条件を設定して、その条件に合う人とだけ出会い、自分に合わないところがあれば連絡を絶つ。高度にシステム化されたマッチングアプリは、このような作業を繰り返すことに最適化されているように感じる。
そして普段の友人関係も、SNSの発展により、自らの求める相手を個人的に誘って自らのやりたいことをやるという側面が強くなっており、大人数の飲み会などの、偶然の出会いの場は求められなくなっているように感じる。特にコロナ禍で、大人数のイベントが行われなくなり、その間に人々が見知らぬ他者との接触の煩雑さに気付き、既に仲が良い友達を誘うので十分楽しいことがわかってしまったことから、イベントの復活が進んでいないように思われる。

このように人々が、自らの「分人」の構成割合を好きに操作し、「個人」主義化していくことを私は懸念している。一つには先述したように社会の分断を悪化させるからであり、もう一つには、このような事態は、人々が新たな他者と出会って新たな「分人」を形成し、変容するという機会を奪い、人々ひいては社会の停滞をもたらすと考えるからである。

平野の『私とは何か 「個人」から「分人」へ』のうち、私は、「第五章 分断を超えて」に絶大な感銘を受けた。平野は最終的に、複数のコミュニティへの参加を奨励し、各人の中での「分人」の融合による社会の分断の克服を説く。
自分とは異なる考え方を持つ他者やコンテンツと出会い、それに対して「分人」を形成するのは面倒だが、それを乗り越えて新たな自己を形成し他者とのつながりに喜びを覚えることを意識的に行い続けなければいけないと思う。

補論

私の目下の疑問は、このような動きが日本に限定されたものなのか、世界的なものなのかということである。そして上で挙げたSpotifyについての記事は、これが特に日本に顕著な現象であることを示唆している。上で述べたインターネットサービスの発展による説明は日本に限らず当てはまるはずであるが、インターネットサービスの発展は自分が出会ったことの無い他者やコンテンツと出会うことも同時に容易にしているということを忘れてはいけない。(Spotifyについての記事では、他の先進国は日本に比べてプレイリスト機能の利用が積極的であることを示している。)
つまり、本人たちが、自己変容を望んでいるの、か、それとも、避けているのかが根本的な問題であり、上で述べた説明は不十分なものに過ぎない。
私の能力ではこの問題について確固たる答えを出すことは出来ず上では述べなかったが、試論として今私が考えていることを述べよう。
それはつまり、このような動きが日本に特有であるのであれば、それは、少子高齢化等で社会の停滞が目に見えている中で、新たな幸せの獲得を目指すのを辞め、今まで築きあげた幸せの維持に舵を切ったという社会的な流れによるものなのではないかということだ。その場合、今後日本は更に国際的に取り残され、今までに築き上げた幸せの維持すら困難になるであろうことを悲観せねばならない。

補論2

完全に蛇足だが、YoutubeやTikTokのようなコンテンツは特に分人の形成を生まないのではないかという私の仮説を以下述べたい。
本を読んでいて、内容が理解できず、その意味を考えながら何度も同じ箇所を読み返すというのはよくあることだろう。ラジオ、落語などの音声コンテンツも、しっかりと意識(耳)を傾けていないと聞き飛ばしてしまって話が分からなくなるということが日常茶飯事である。このような事態に陥らないよう、我々はこれらのコンテンツを摂取する際、能動的に理解しようとしており、相手の伝えたいことなどを予測し、考え続けているのではなかろうか。この予測はそのコンテンツに触れれば触れるほど精度を増していく。それが分人の形成であり、この分人は自分の他の分人や構成割合に影響を与えていく。
それに対してテレビやYoutube、TikTokのようなコンテンツは、あまり積極的に視聴しなくとも内容が理解できるように作られているのではないかというのが僕の仮説だ。それに一役買っていると思われるのが文字起こしの字幕の存在である。通常、映画を字幕を付けて見るとき、我々は音声言語とは異なる言語の字幕を付けて視聴するが、YouTubeにおいては音声言語と同じ言語で、内容が要約された「テロップ」が付けられている動画が多い。そのため、我々は視覚と聴覚をそれぞれそこそこに使うことであまり能動的にならずともコンテンツの大体の内容を理解できる。
また映画であれば、画変わりが多く、画面に集中してみることが肝要となるが、これらの動画は画変わりが少なく、コンテンツの内容も基本的に単純であるため、画面に目を見張らせている必要がない。
よって、テレビやYoutube、TikTokのようなコンテンツは我々にとって、過剰なほどに見やすく、積極的にならずとも摂取することができるため、自己の分人をそのコンテンツ用に形成する必要がないのではないか。
むしろ人々は倍速することによって、必死に見ないでも理解できる、つまり、分人を形成しなくとも今の自分のままで楽しむことができる、限界を追求しているのではないか。
能動的にならずとも摂取できるのは楽ではあるが、自己の変容をきたさないコンテンツの摂取は虚しいものである。本論と同じ結論にすぎないが、一時の煩雑さを面倒がらずに、その先にしかない幸せを手に入れることこそが重要であると思う。

ただの老害の戯言(又は映画好きのポジショントーク)かもしれないが、、

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?