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「まともじゃないのは君も一緒」を観て考えたこと

今年は本当にたくさんの邦画が公開されて良作ばかりで忙しいです。

まともじゃないのは君も一緒を観てきました。

普通とは何かを考えさせられる映画でした。ここで普通ってなんだろうと考えてみようと思いました。それが一番この映画を考える中で大切なことなんじゃないかと思います。ここでは普通ということを多数決で多い方の意見と置き換えて考えてみたいと思います。

多くの人が選択肢を迫られた時に、多くの人が賛同する選択肢。それが普通の選択であり、判断であると考えるとまぁそれは一見正しいような感じもします。多数決というは空気が生み出します。物語シリーズの言葉でこういうのがあったのは思い出しました。

「多数決 間違ったことでも、真実にしてしまえる唯一の方法。幸せでなく示し合わせを追求する、積み木細工の方式」

結局それが普通だと考えるというのは、全体の空気が決めてしまうことがあることは些か教訓じみたものがありますが、近代ではよく起きていることです。特に日本では空気というものの存在感が非常に大きく、そこからはみ出したものはイレギュラーな存在として排斥される傾向が強い。

仮にそれが普通のことだとしても、自分の中の自然な感情との差に違和感を感じて生きているということもまた多くあるのだと感じました。みんなと同じようになりたいけど、どうやらそれが難しいらしいという事実。

でもこの映画の二人はそれを乗り越えることができたように感じます。つまり他人のことを気にしなくなったということです。他人の存在はもちろん存在としてあるし、それは同じ世界を生きているものなので尊重されるべきことですが。しかしその他人に影響までは受ける必要がないのだと、自分を信じること。あるいは自己肯定することができるようになったということが成長に繋がったように感じました。

自分は自分のままでいいと思うことは本当に難しいです。もっと極端にいうと自信を持つということは難しい。もっとゆるいスタンスで、まぁなんか隣の芝生で起きていることを、「なんかやってんなぁ、俺には関係ないけど」と切り離すことができるようになったこの物語の二人。それとは対照的に

「花束みたいな恋をした」を観て考えたことに、他者評価というのがありました。この物語の男性、麦は完全に社会からの同調圧力に屈して、もっと別の言い方をするなら、近代の資本主義の力に屈して、自分の価値感を見失ってしまった。もともとそんな価値観を持っていなかったかもしれない。そうだとしたら、塗り替えられたか。そして交際相手に対してもその価値観を強要した。お前は「普通じゃない。社会をなめている」というスタンスで。

予備校の先生は、最終的に「普通も大変そうですね」と状況を俯瞰してみることができるようになっている。これはいかにも数学をやっているから、この世には当たり前とか思っていることがそうじゃないと証明されることだってあるという認識が根底にあったのか。ちょっと大きく解釈するとそんな気すらする。

コミュニケーションというのは同じであるということを強制します。同じであるということは仲間であるということの証明になるから。基本的には現代のコミュニケーションの多くは共感と肯定に依存しています。実際にはそれが手っ取り早いし、関係を築く上では必要なことです。

だからといって必要以上に相手に合わせる必要もなければ、奇を衒う必要もない。完全に同じ思想の人間もいないし、完全に同じ人間なんていない。違いがあるからこそ、人は惹かれあるし認め合える。

ゆるい考えかもしれないけど、それでもそうやって信頼関係が出来上がっていくことや、絆が深まっていくことも悪くないよねと、そんなことを考えました。




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