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『愛がなんだ』は利己的であるがそれでいて人間的
今泉力哉監督「愛がなんだ」。以前観た映画ですが、ちょっと振り返りながらも思ったことを。一つ
観ていて、テルコはマモルのことが本当に好きなのかわからなくなった。
もちろん表面上はマモルの良いところから、ダメダメなところまで全部含めてテルコはその存在を肯定しているように最初は感じていたのです。結局人にどうこう言われようと自分のしたい様に、他人の意見より自分の想いを大切にして行動する。それが愛だとしても、或いはそうでないとして彼女にとってはそれが幸せ。
そう彼女にとってはそれが幸せということなのです。
兼ねてより「愛とはなにか」を考える上で、それは多様であるという前提にたっても、どうしても自分は外すことができない点があります。それは「自分にとっての損得を超えているか」ということです。どうしてテルコがマモルを本当に好きなのかわからなくなったのか、自分に問いただすと詰まるところ彼女が行っていることが彼女自身の損得に見えてしまい、そうであるが故に利己的であるように感じたからなのかもしれないと思う様になりました。
自分にとってそれが幸せなら、自分がどう思われようが相手がどうなろうが、それでいいという発想はとても利己的なんです。
相手と同じものを見て美しいと感じること。共感や共有は愛よりも、もう少し前の段階。「私とあなたは敵ではない」という程度のことを確認する作業だと思うのです。愛とは同じ花を愛でることではない。
自分を肯定できる人。そしてそうであるが故に自分との違いも含め、相手を肯定できる。自己肯定感が低い人は他人に承認されることで自分の価値を引き上げようとします。だからこそ、自分のことを肯定してくれる存在を肯定できない。なぜなら自分のことを肯定する存在は自分と同じか、もしくはそれ以下と判断してしまうから。
永遠にそのループは終わりません。恨むらくはそれが自己受容ないしは自己肯定感が著しく低いことから生じているということにすら、なかなか気が付けない。
だから今日も自分のことを一部ないしは全部否定してくれる誰かを探して、或いは待っているのです。自分のことを否定できる誰かは、自分より上位の存在。その人がごく稀に自分の相手をしてくれる。そんな人が私の恋人であることは私の自信につながる。他人を利用して自分の目的を達成する。利己的ですよね。完全なる他者評価の沼です。表面を取り繕い、自分を可愛がりその裏に影を落として。
テルコはどうでしょうか。もう十分に屈折しているようですが。
ナカハラは成長しているようです。
成長はとても大事です。自分が夢中になれることに真剣に取り組む。結果がすぐについてこなくても、その行動そのものと向上心は必ず人としての成長につながります。幸せになりたいっすね
「普通じゃないのは君も一緒」がハートウォーミングすぎて、この手の映画が毒になってきた。でも毒は、思考には至高のネタなのです。
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