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オートリバース SIDE "B" 2020ver. 無料公開

僕には最後の恋でも
君はそうじゃなかった
君には最初の愛でも
僕はそうじゃなかった

            斉藤和義  オートリバース 〜最後の恋
   


       < 1 >
 
 缶ビールを買った。チッ。コンビニの店員がいつものあの子じゃなくて、今日はやっぱりついていないと舌打ちをする。自分がいつもその舌打ちで相手を不快にさせていることに、この田原という男は気がついていない。背の低さのわりに顔が大きくて、たけし軍団の端にでもいそうなこの男は貧相な顔をよりいっそう貧相に歪めた。わざわざ彼女目当てに線路をまたいでここまで来たのに。うまくいかないことを何かのせいにすることに慣れた顔。いかにもなりたてのヤンキーが彼女のかわりにレジにいる。不慣れのせいか、態度がただ悪いからか、乱暴に扱われたレジが悲鳴をあげた。
「ハイ、お釣り」
面倒くさそうな低い声。田原はお釣りを受け取らずにヤンキーを睨む。
「お釣りです、だろ」
チッ。こんどはヤンキーが聞こえるように舌打ちをする。
「お客様に舌打ちしてんじゃねえよ」
田原は肌の質感で相手が自分より年下だと判断して軽く凄んだ。親衛隊の幹部の真似だった。
「先にしたのはそっちだろうが」
ヤンキーが少年のくせに腹の座った声をだすと田原はすぐに怯む。
「わかったらいいんだよ」
これ以上は面倒なことになる。危険を察知する能力だけは高い。田原は振り返らずにコンビニを出た。そしてすぐウォークマンを出してイヤホンを耳にねじ込む。これは自衛の手段だ。背後から吠えられても聞こえないふりができる。奮発して買ったクロムテープにはチェッカーズがびっしり入っている。こんな夜は「ジュリアに傷心」がいい。せっかくあの子の気をひこうとボーカルの藤井郁弥みたいに前髪をピンと伸ばしてセットして来たのに。空振りかよ。田原はヤンキーのことはもうすっかり忘れてムースで固めた前髪を指の腹で潰した。中身のない髪の束は捨てられたストローみたいになる。ウォークマンの再生ボタンを親指でグッと押し込むと、サックスが風邪でも引いたみたいに弱々しく鳴る。あれ? 郁弥の声もなんだかやる気がない。すぐにテープが止まった。それから何度ボタンを押してもうんともすんとも言わない。ちくしょう、電池か。さっきのコンビニで一緒に買っておけば良かった。
「あぁ? やんのか?」
戻ればヤンキーは必ずこう言うだろう。その想像をするだけでチェッカーズを聞きたい気分は消え失せた。缶ビールをあけて吹き出る泡を唇で押さえつける。泡が落ち着いたら大きくひとくち飲む。イヤホンをしたまま飲むとビールはめちゃくちゃ不味い。耳を塞ぐと味まで変わるなんて人間はずいぶんやわに出来ている。
 仕事はまるでうまくいっていなかった。このあいだ偶然会った直に、田原は自分のことをレンタルレコード店の専務だとか偉そうに言ったけれど、家族経営の小さな会社だから役職なんかなんの意味もなかった。ただの見栄だ。田原はひとにナメられるのは慣れているつもりだったけれど、ひとに頭を下げるのがこれほど苦痛だとは思ってもいなかった。いくら頭を下げても心を無にしておけばなんともないと思っていたが、心を無にできるほどの精神力など自分にはなかった。じわじわと辛くなっていく。辛いと言葉にする前に後頭部に小さなハゲができた。今の場所が自分には向いていないって体に言われている気がする。親衛隊にいた頃のあのやり甲斐が懐かしい。そう思ったとたん田原は胸のまんなか心臓のあたりに棒の先がめり込んでくるような痛みを覚えた。後悔が鉛の塊になって心臓をいじめてるみたいだった。目的が明確だからルールも明確になる。そのおかげで皆がひとつになっている感覚がもてたあの場所。けれど自分のせいで二度と戻れなくなったあの場所。昨日、とんねるずの番組で小泉今日子が全身タイツを着てなにかのコーナーに出ていた。あの頃よりずいぶん可愛くなっている。きっと彼氏ができたんだ。恋をすると女はきれいになるって『ホットドッグ・プレス』に書いてあった。小泉今日子のことを考えたり、親衛隊のことを思い出すたびに、高階にヤキをいれられた背中が痛む。お前には戻る資格なんかないんだとその痛みが言う。わかってるって。『疼く』と前にじいさんが交通事故で炒めた腰のあたりをさすりながら言っていたが、今ならこの痛みがそれだとわかる。チッ。居場所無し。このまま死ぬまで生きるのか。このしょうもない人生、早送りしちゃえないかな。いくら再生ボタンを押しても反応しないウォークマンを壁に投げつけたい衝動が便意みたいに何度もやってくる。田原は残りのビールを一気に飲んだ。公園を横切る途中、街灯がなくなったあたりに人影を見つけた。ふたつの影が重なる。カップルか。いちゃつきやがって。田原はその影のほうに空き缶を投げつけようとした。
「…別れるって言ったよね、奥さんと」
「タイミングがあんだって言ってんだろ」
「…信じらんない」
くるぶしのあたりを蚊に食われながら田原は息を殺した。それは聞き覚えのある声だった。
「だからって家まで来んなって」
店長だ。あのコンビニの。店長は元暴走族でよくその頃の自慢話をした。何度目かの客にはすぐ「俺、義眼なんだぜ、明治通りの事件知らない? そんときやられてさ」と言いながら左目の瞼を指で押し広げて見せる悪趣味な中年だった。もちろんパンチパーマ。まるでヤクザのレプリカだなと田原は心のなかで馬鹿にしていた。田原はその自慢話をもう三度は聞かされている。草の折れる音が短く鳴って、ふたつの影が重なる。夜に忘れられていた蝉が短く鳴いて飛んだ。田原は重心をゆっくり動かしながらふたりの様子が見える位置を探した。これじゃノゾキだ。でも最近11PMもトゥナイトもつまんない。このぐらいのご褒美あっていいだろ。
「痛いっ」
華奢な女の声がする。
「こんなとこじゃ嫌。嘘ばっかりで嫌」
女の声に涙が混じっている。チッ。田原は心のなかで舌打ちをした。経験上、この感じだとことは進まない。
女の心はまるでわからないがそのあと燃える喧嘩とそうでない喧嘩があるのはわかる。今回は後者だ。
「タイミングがあるって言ってんだろっ」
男が捨て台詞を言ってつまんなそうに立ち上がる。
「店、戻るわ」
店長がパンチパーマの形をしきりに直しながらその場を立ち去る。田原は残された女の様子をそのまま窺う。女はじっとしている。
「……ノゾキ楽しい?」
え?
「……ごめんね、今日は終わり」
え? え? 田原の動揺が芝生を転がる。立ち上がった華奢な女がこっちに近づく。それはあのコンビニの女の子だった。石井と書いた名札が見える。
「……心配だったから、なんか声がして」
田原が必死に弁明する。石井さんはふっとかがんでくるぶしのあたりをパチンと叩いた。足首も白いのがわかる。きっと太もももその奥も全部白いんだ。
「まだ蚊がいるね」
田原が頰のあたりの蚊を強くはたく。たぶん逃した。石井さんはその様子に笑う。
「面白いね」
「田原です」
田原は嬉しくなって石井さんの顔を見る。その目に涙がたまっていることに気がつく。
「ごめんね、なんか悔しくて」
泣きだしそうな女性にどう対処したらいいのかわからず、田原は頭のなかにある『ホッドドッグ・プレス』をめくった。もっとちゃんと読んでおけば良かった。前戯の仕方しか覚えてない。
「あ、こんどディズニーランド行きませんか」
「なにそれ」
「気晴らしに! 全額、自分出しますんで」
何を言い出しているのか自分でも呆れる。
「タハラさん、面白い」
石井さんがちいさく笑った。頰が動くと大粒の涙がこぼれるように落ちた。ガラス細工に見えたそれを持って帰りたいと田原は思った。



        < 2 >

「松田聖子もこないだ来てたらしいよ。結構芸能人いるらしいから見つけようよ」
田原は混雑する電車のなかで石井さんを庇うように立ち位置を変えながら小声で言う。どうにもワクワクしている自分が抑えきれない。途中の駅で反対側からさらに人が遠慮なく乗り込んでくる。さっきの駅で乗るのを諦めた人たちがあんなにいたことをこいつらは知らない。もう入らないぞ、と誰かが叫んだが人は塊になると返事をしない。ドアが閉まるとあっという間に空気が淀む。石井さんが眉をしかめて田原に身体を寄せた。やわらかい匂いがしてオッパイがふたつ自分の胸に当たる。田原は新鮮な空気を求めて天井に顔を向けた。深呼吸してもダメ。石井さんのオッパイの柔らかさに気絶しそうになる。目を閉じても意志をもった下半身は止められない。石井さんがフフッと笑った。田原は次の駅まで息を我慢した。
 ディズニーランドは想像を超えていた。日常から完全に隔離された世界はゲートをくぐった瞬間に汚れた自分たちを疑いもなく受け入れてくれる。なんで世の中はこんな風にならないんだろう。ゴミひとつ落ちていない清潔な世界。行列に並ぶひとたちがみんな笑っている。宗教みたいだけどたしかに夢の世界だ。夢だから会社や家のあの嫌な臭いはしない。蚊もいない。
「あの耳欲しい」
ミッキーの耳がついたカチューシャに石井さんが目を爛々とさせる。買ってあげるよ、と田原は答える。人混みの向こうにどこかで見た顔を見つけた。夢の国におよそ似合わないリーゼント、下品な笑いかたをする女を連れたそいつはカワニシだ。先に気がづいて良かった。向こうに見つからないよう田原はカワニシに背を向け、不自然な尾行をする刑事みたいにじっとする。背中のあの傷が疼く。
「どうしたの?」
怪訝そうな石井さんに小声で「悪魔がいる」と言った。
「悪魔?」
「正確に言うと悪魔の手先」
夢の国を破壊しに現れた悪魔の手先がきっとカワニシの皮を被っているに違いない。
「後ろを向いて十、数えて。そしてら悪魔は消える」
石井さんが素直に十、数えた。夢の国の人たちは本当に悪魔の手先を飲み込んでどこかへ連れて行ってくれた。ゴミのない清潔な世界。そのあといくつかのアトラクションを見て回ったがどれも大行列でなんとなく空いていそうなゴーカートにチュロスという細長いドーナツを買って並んだ。それでも90分待ち。現実の世界ならみんな発狂する。夢の力はすごいもんだ。
「田原さんって会社も家も線路の反対側でしょ?」
「そうだよ」
「なんでうちの店、使ってるの」
「……品揃え……なんか雰囲気とか」
「ふうん」
「なに、ふうんって」
「ふうん、はふうんだよ」
「ふうん」
「真似しないでよ」
「真似しないでよ」
くだらない。幸せってのは案外くだらないものなのかもしれない。もしかすると僕たちはすでに幸せで、そのことに気づいていないだけなのかもしれない。誰かを好きになったりすることが、そういうことに気がつくきっかけになるだけなのかもしれない。田原はじわじわと広がる温かい気持ちを逃したくなくて言った。
「幸せだね」
田原がそう言うと少し間を置いて、石井さんが「幸せだね」と言った。それは口真似じゃない気がする。
「田原さんって名前なに?」
「え?」
「下の名前」
「……笑わない?」
「笑わないよ」
「……田原、俊彦」
石井さんがしばらく沈黙した。そしてほっぺが爆発しそうなくらい、リスみたいに膨らんだ。
「笑うな」
そのひとことで石井さんが息をいっきに吐いた。
「生まれたときはトシちゃんとかいなかったんだから、交通事故みたいなもんだもん」
「トシちゃんって呼んでいい?」
「それはダメ、絶対に」
「ねえ、トシちゃん」
石井さんはこんな顔をする女の子だったのか。
「店長と、長いの?」
田原は聞いた。こういう質問を思ったら一瞬もためらわずに言って、言ったあとで後悔するのがこの男だ。
「うん」
「ごめんね、変なこと聞いて」
石井さんはいつか聞かれることだと思っていたようだった。小さく硬い息をひとつ吐いたあと一気にしゃべりだした。
「うううん。前の会社で、いられなくなって、いじめっていうか。どこがダメだったのかわからないけど、ほら私ノリが悪いから知らないところで誰かを不愉快にさせちゃうみたいで。それで。でも生活しなくちゃいけないからあそこで二年前から働きはじめて。そういう時だったから店長のあの感じに救われて。あのひと奥さんと別れるって言うからそういうことになって」
田原は一気に話す石井さんの横顔を綺麗だなと思った。話の内容は想像どおりだった。
「ごめんね、変なこと聞いて」
田原が言うと石井さんはまたいつもの感じに戻って「うううん」と小さく首を横に振った。
「なんかどこにも居場所がなくて」
そして最後にそうつけくわえた。
「人生って早送りできたらいいのにね」
「え?」
独り言のつもりで言ったのに石井さんが大きく反応したので田原は慌てた。
「あ、このウォークマンみたいにさ、ボタン押したらキュキュキュって先に進められたらいいのにね。なんなら死ぬまで早送りでもいいけど」
石井さんが笑う。その笑顔を見ているとそれが、自分がずっと探していたもののような気がしてくる。田原はウォークマンを取り出して、持って来たふたつのイヤホンをそれぞれの穴にさした。ウォークマンにイヤホンの穴がふたつもある理由がようやくわかった。
「これさ、ふたりで聴けるからさ」
テープを再生するとエフェクトの効いた透明なギターが始まる。ゆっくりしたメロディに忌野清志郎の声が重なる。RCサクセションの「まぼろし」という歌だ。

ぼくの理解者はいってしまった
ずいぶんまえの忘れそうなことさ

目をつぶって歌を聴いていた石井さんがそっと田原の袖口をつかむ。田原は清志郎を聴きながら中森明菜の「セカンド・ラブ」を思い出していた。
「このカセット、このままあげるよ」
田原が言うと石井さんがほんの少しだけ悲しい顔をした。
「私、ラジカセ持ってないの」
「え? あ、じゃあ、これもあげるよ」
田原はウォークマンを軽く左右に振った。
「新しいの出たから買おうと思ってたし」
石井さんの白い頰がほんのり赤くなっている。それを見て田原はただただ、愛おしいと思った。



        < 3 >

「花火したい」
石井さんがそう言ったのは、夢の国から現実に戻る電車が無神経に揺れたときだった。それから電車は鉄橋を渡る。窓の下には暗い川が横たわっていた。その次の知らない駅で田原は石井さんの手をとって突然降りた。田原は自分の素早さに驚いて、思わず笑った。
「あの川でやろう、花火」
ふたりは知らない町の知らないコンビニで知らない人から花火とビールを買うことにした。これは夢の国の続きだ。土手をこえると腰の位置まで草が生えていてどこに川があるのかわからない。ムワッとした湿気が汗と混じる。線路のほうから途切れ途切れのサックスの音が聞こえる。
「下手くそっっ!」
田原が叫ぶとサックスがブブッと音を一旦止めた。怒らせたかな? とふたりが警戒するとすぐにまたブブブッと吹き始めた。ふたりは草を両手で払いながら笑いながら走る。なんかの戦争映画みたいだ。飛行機が空から絨毯爆撃してくる直前みたいだ。可笑しいだろ。撃てよ背中を、高階にヤキを入れられた背中の傷をわかんないくらいぐしゃぐしゃにしてくれよ。草をこえて現れた川は、思った以上にでかい。目が慣れるとはるか向こう岸に人がいるのが見える。ホームレスかカップルかまではわからない。
「蚊に食われたみたい」
石井さんがくるぶしを掻いてる。自分も足首のあたりをかなりの数食われている。刺されたことに気がつくととたんに痒くなるから不思議だ。
「蚊ってさ、なんでわざわざ痒くしていくのかな。こんなことしなかったらいくらでも血なんか吸わせてあげるのにね」
石井さんがもっともなことを言う。
「そんなことしなければ蚊取り線香とか作らないであげたのにね」
掻けば掻くほど痒くなるその足を掻きむしりながら、田原はまるで自分が蚊みたいだと思った。あんなことしなければ親衛隊にいられたのに。それにしても痒い。早く花火の煙でこいつらどうにかしなくちゃ。田原が花火の袋を乱暴に破く。「あ、火忘れた」田原はそう言うとこれ以上ないくらい残念な顔をしてみせた。
石井さんが小さなカバンからライターを出して田原にすっと渡す。どこか慣れた手つきで。
「タバコ吸うんだっけ?」
ちょっと意外だった。石井さんが小さく首を横に振る。それでわかった。ライターには「かなこ」と場末のスナックっぽい名前がある。これは店長のものだ。握りしめて火をつける。花火セットに入っていたろうそくは小さくて適当な作りのせいか何度も消える。そのたび火をつけていると、ライターの金具が死ぬほど熱くなって親指の腹を火傷した。あとで水ぶくれとかになるやつだ。田原はそのままライターを自分のポケットにしまった。もう石井さんに店長のライターを持っていて欲しくなかった。最後の花火が終わる。煙はあっけなく風に流されて夜に消えた。どこからかまた蚊が湧いてくる。自分みたいなそいつらに田原は好きに血を吸わせた。
「石井さん、俺さあ」
 田原が意を決した顔をする。その顔を見て石井さんも真剣な顔になる。田原が顔を近づける。もう一度どこかで歯を磨いてきたかったけど、こんなチャンスもうないかもしれない。さあ、キスしてしまえ。
「ごめん」
「え?」
石井さんの顔は言葉とは裏腹に田原のキスを拒んでいるようには見えない。
「ちゃんと、別れるね」
こんなに嬉しい言葉が他にあるか。田原はゆっくり噛みしめるように頷いた。そしてキスした。
やっぱり歯を磨いておけば良かった。
          


          < 4 >

これが最後の恋でいい。これが最後の恋がいい。友&愛でレコードを借りまくって作ったカセットテープを満足げに眺めて田原はそう思った。好きなひとのことを考えてテープを作る作業ほど楽しい作業があるか。ない。断言できる。自分の好きなものを好きになってもらう喜びほど愛おしいものはない。なぜこんなにご飯が美味しくなるのか。なぜこんなに朝が待ち遠しくなるのか。なぜこんなに夜が淋しくなるのか。もうすぐ石井さんがあがる時間だ。田原はコンビニから少し離れたガードレールに腰掛けて石井さんを待った。なんかジゴロみたいだな。女を働かせてその金をせびりに来た、みたいな。フフッと芝居がかった笑いをしてみた。
「こんなとこで何してんのぉ?」
びっくりするほどの大声で誰かが田原を呼んだ。店長が笑ってる。オレンジのスポンジのついたイヤホンをしてる。それで声が大きいのか。馬鹿っぽい大人だ。ヤクザのレプリカめ。
「こんなとこで何してんの」
その手にはあのウォークマンがある。なんでこいつが俺の、いや石井さんのウォークマンをもっているんだ。感じたことのない気持ちと胃液が混ざって喉のあたりを駆け上がってくる。焼ける。
「俺、実は義眼なんだ」
店長が四回目の自慢話をはじめた。
「え、そうなんですか」
どうして初めてみたいなリアクションをしてしまったのか自分でもわからない。
「これさあ、昔さあ、明治通りで族同士のでかい喧嘩があってさ、言ってなかったかもしんないけど、俺一応二代目の総長だったんだけどねそんときやられたんだ。テレビとかでもやっててさあ。超有名人だよ」「総長だったんですかすごいですね」
適当な相槌が店長の自慢話に火をつける。なんでこいつが俺の、いや石井さんのウォークマンをもっているんだ。胃液は喉の付け根と胃袋を何往復もする。店長がパクパク何かを喋っているが田原にはもう何も聴こえない。夕焼けになりそこなった空が紫色に染まる。安い映画のセットのなかにいるみたいだ。踏切の音が遠い。電線がピシンッと音を立てた。電車がくる。店長はまだ何かを喋っている。コンビニのほうを見るとガラスの奥に石井さんが見える。目があうと目をそらした。その視線に気がついたのか店長が言った。
「俺、離婚したんだ」
え? そこで田原は店長をみた。
「…おめでとうございます」
胃液がまた喉を焼いた。電車が走る。その音が消えるのを待って店長が言った。
「ま、めでたくなんかないけどね」
店長が田原の肩を叩いて店に戻っていく。石井さんはもう見えない。紫色の空が端のほうから赤くなっていく。田原は新しいウォークマンを出して耳を塞ぐ。再生ボタンを押す。現実を遮断する。さっきまで聞いていた歌が突然切れて、しばらくするとガシャンッと音をたててB面の再生が始まった。オートリバースって便利な機能だと思ってたけど、なんか嫌だ。なんか気分いいもんじゃないと田原は思った。はい終わり。はい次。そんな風に行かないじゃんか、俺ら。
「ちくしょう、うまくいかねえな」
田原がそう呟くと、チェッカーズの藤井郁弥がいきなり星屑のステージを歌い出した。

                              終


    ザ・ベストテン  昭和59年11月1日

     1  星屑のステージ     チエッカーズ
     2  ヤマトなでしこ七変化  小泉今日子
     3  泣かないで       舘ひろし
     4  最愛          柏原芳恵
     5  べらんめえダンディ   シブガキ隊
     6  恋人たちのペイヴメント アルフィー
     7  バージンブルー     SALLY
     8  ラ・ヴィアンローズ   吉川晃司
     9  永遠に秘密さ      近藤真彦
     10 十戒          中森明菜


         


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