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加藤かと『やめられない娘と見守れない私』-矯正できるものとできないもの-

今日この本を買い、一度ざっと読んだホットな状態で思ったことを残しておく。話は雑多だし、特に主張したいことがまとまっているわけでもない。

本書は、4歳にして自慰行為を始めた娘に対して、その親(主に母親)がどのように対応してきたかを描いたマンガエッセイである。小児自慰は一般的にみられる現象のようである。

おそらく、4歳の息子が自慰をしていてもこのようなマンガは描かれず、4歳の娘が自慰をしていたからマンガになったのだと思う。少なくとも私は、「自慰」という言葉から最初に連想する性別は男性であるし、適当な人をつかまえて「男女どちらかを選べ」と質問したら、半数以上は男性をイメージするのではないか。
小児自慰は性的興奮を目的としておらず、なんとなく気持ちいいからという理由で行うことが多いとされる。大人からみれば自慰行為は性的であるという考えが先に来るが、そこにギャップがある。そうであれば、小児自慰することをことさらに叱っても子どもはよく理解できないだろうし、ただ親子関係がうまくいかなくなる原因になると思われる。

本書で描かれた両親は、娘の小児自慰に対して対照的な態度をとっている。父親は小児自慰をやめさせようとはしないが、娘をそのまま受け入れている。一方で、母親は娘に生理的嫌悪感を抱いてしまい、娘と手をつなぐことすら拒否反応を示している。
生理的嫌悪感を抱くことが異常なことであるとは思わない。自分の娘でなくても、自分以外の自慰行為を見ることに快感を覚える人は少ないだろう。小児自慰は「いい子に育ってほしい」という思いをぶち壊すのに十分な破壊力を持っている。ここで重要になるのは、小児自慰にどのように対応するかではなく、より広く親は子にどのように接するのが望ましいかということである。

片方の親が子に対して負の感情を抱いているとき、もう片方の親もそれに同調してしまうと、子の居場所がなくなってしまう。本書の父親は一見すると娘や小児自慰にあまり興味を示していないようにも思うかもしれないが、実際は母親とは異なるスタンスをとることで、家庭内での娘の精神的な居場所を守っている。母親に精神的な余裕はないから多少はしかたないが、「父親は、娘や母親である自分について無理解である」と解釈していたように思える。一般的な現象について心配しすぎてもあまり意味はないし、そのような性質を有する娘なのだと、無理解どころか最大限寛容な態度ではないだろうか。母親は、自分の中のイメージとずれた娘の現実に衝撃を受け、娘に非があるかのように考えてしまったのはまずかったと思う。

小児自慰はそれ自体が性的な意味合いを持っていないとしても、大人が持つ性的な倫理と衝突するかもしれない。そうはいっても、「うちの子は自慰なんかしちゃいけません!」というエゴを子にぶつけることは、子を尊重していないし、小児自慰をやめさせることは何の解決にもならない。親と子は別人であり、子の性質を矯正できるなどと思うことがおかしい。「小児自慰は見守ってあげてください」というアドバイスは、何もするなという意味ではない。「汚い手で触るとばい菌が入るから、手をきれいにしようね」「人から見えないところでやってね」など、衛生やプライバシーを教える契機としたり、一緒に遊ぶなどの愛情表現をしたりと、通常の親子関係を営むことが「見守り」であり、それが結果として小児自慰を問題と認識しないレベルに下げることを示していると考える。いい子を育てよう、いい親になろうという不可能な課題を達成しようとせずに現実を受け入れるということは、子育て以外にも通じる教訓ではないだろうか。

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