第一幕『ドラレコ』

 大阪府寝屋川市の河川敷のそば――北西にある淀川を隔てた向こうに摂津市があり、東海道新幹線が轟音を立てて往来する。川と反対の南東には京阪電車が走り、その奥には第二京阪道路が通っている。そこから北東に行けば京都、南西に行けば近畿自動車道に入り、南は大阪南部や奈良、和歌山、北は北摂や兵庫方面へと短時間で移動が可能だ。そのような交通の要所にオフィスを構えるのが、亀田運輸本社だ。
 日本中を騒がせた『炊飯器失踪事件』から数カ月が経ち、その余韻が薄れようとしていたころ、二宮瑞穂の姿は淀川の河川敷沿いにあった。転勤して2ヵ月あまりの彼女は、川岸の上に掛かる6月の夕日を浴びながら自宅の方へゆったりと歩いていた。突然二宮は、鞄の中で震えるスマホを取り出し耳に当てた。

「鼓太郎君?だから何度も言ってるように、答えは『ノー』だから。」
 「いや、今回はそれじゃないっす。聞きたいことがあって。」
「私はもう相良課長に対しての感情は捨てました。大阪で、身体も心も落ち着かせているところなので。」
 「そ、それじゃなくて、仕事の件で一つ。」
「ん?仕事?」
 「はい。小手川君って、去年の11月頃に辞めましたよね?二宮さん、小手川君について何か知ってますか?」
「ああ、確かに辞めたね。私何も知らないけど。辞める理由とか、新しい職場とか、何も聞いてないかな。」
 「そうですか・・・ちょっと気になることがあって。」
「何?」
 「小手川君が運転していた配送車を引き継いだ水島君いるじゃなっすか?この前荷物下ろすの手伝ってたんですけど、トラックの荷台から毛布が出てきて。聞いたら小手川君が置いていったらしくて。『使っていいよ』て言って。特に使わないからそのままになってるらしいっすけど。でも僕何度か小手川君の車で荷物の出し入れ手伝ったことあるんっすけど、一度もそんなの見たことがなくて。」
「ふーん。気にし過ぎじゃない?」
 「でも、荷台に毛布なんて普通要らなくなっすか?誰か乗ってでもなければ。11月ってちょうど相良さん一家の事件の真っ最中じゃないっすか。それで誰にも理由も言わず行き先も告げずにやめるって、なんか引っかかるんっすよね。」
「ああ、確かにね。あ、一応ドライブレコーダー調べてみたら?」
 「ああ、そうっすね。そうします。あれって安全管理部にありましたっけ?」
「そう、以前課長に侵入してもらって取ったやつ。手順今から送るね。普通に頼めば多分断られるんで、何か作戦考えた方が良いよ。誰かに手伝ってもらって。」
 「ああ、分かりました。」

 そういって電話を切ると、二宮は安全管理部のパソコンのどこに各配送車のドライブレコーダーがどのように入っているか、それをどう取り出すかの手順を東京支社の望月鼓太郎に送った。以前、同時誘拐だと思われていた相良真帆・光莉・篤斗が映り込んでいる映像を探すために安全管理部に忍び込んだ際に、相良凌介に送ったのと同じものだ。望月がそれを読みながら頭の中で整理しようとしていると、二宮から折り返しの電話がかかってくる。

「ごめん、今思い出した!関係あるか分かんないんだけど、以前私が林のことを調べたくて真帆さんに近づいた時に、真帆さんの勤務先のスーパーで話をしていて、バッタリ小手川君に会ったの。色々立ち話をして、私が今度真帆さんとお茶しに行くことを言うと、真帆さんが小手川君もどう?て誘ったの。で3人で一度お茶をしたことがあるの。一回だけだけどね。」
 「え、マジっすか?じゃ小手川くんと真帆さんに接点があるってことじゃないっすか。会った時どんな話したか覚えてますか?」
「うーん、確か仕事の話が多かったかな。小手川君は、遠方の配送に行くときに休憩できるような古い空き家があちこちにあって、他のドライバーと情報共有してる、みたいな話してた。」
 「えええ!そんな話を。確かにドライバーの間では、他社の人ともそういう情報共有したりはありますよ。じゃ、こっそり真帆さんを連れて行ったって可能性もあるじゃないっすか。その日、確か小手川君事故起こしましたよね?相当慌ててたのかも。」
「うーん、でもその日は河村が真帆さんを呼び出して資料室で首を絞めたって言ってるし、そこは間違いないんじゃないかな。」
 「まあ。空振りに終わるかもしれないっすけど、一応10月11月のドラレコ確認してみます。何かあったら相良さんに協力を頼みます。」
「いや、課長は今は止めた方が…。辛いことがあってから、新居で新しい生活を始めたところだし。もっと何か大きな証拠が出てきてからで良いんじゃないかな。どうしてもヘルプが必要なら、日野さんに頼めば?」
 「そうっすね、分かりました。」

***

 既に18時を過ぎていたが、亀田運輸東京支社のカスタマーサービス部に、黙々と仕事を続ける女性社員の姿があった。かつてはオペレーター室で受ける無数のクレーム電話に泣かされ、相良一家3人失踪時には、一時期退職を考えたほど落ち込んでいた石川あきのだった。今では人が変わったかのように自信がつき、仕事ぶりも認められ、大阪本社へ転勤になった二宮の後を継ぐ形で、オペレーター室の外にある事務所エリアの席に座っていた。カスタマーサービス部を覗いて石川の姿を確認した望月は、近寄って声をかけ、事の経緯を説明して協力を依頼する。
 望月と二宮の電話の内容を聞いた石川は、望月の要求を受諾することが何を意味するのかを理解した。かつて、相良課長の家族のことで業務外で惜しみなく協力していたのは、自分のことも幾度となく助けてくれた二宮先輩だった。彼女が去った今、もう終わったと誰もが思っていた『炊飯器失踪事件』が、望月鼓太郎の些細な勘と眼力によって、再び陽の光を仰ごうとしていた。この先何が起こるかは分からない恐怖と、二宮に代わる形で自分がそれに加われる興奮が石川の心の中で一瞬せめぎ合ったが、気付けば満面の笑みで望月の依頼を快諾し、ドライブレコーダーを盗み出す作戦を練り始めた。
 望月は、前回二宮と凌介が一緒にドライブレコーダー映像を持ち出した時のことを話したが、石川は不敵に笑って言った。

「流石二宮先輩です!でも私なら、もっと簡単にできますよ!」

 その日は木曜日だったため、週末に確認できるよう早速明日に作戦を決行することにした。

***

 翌日正午、石川は亀田運輸の食堂に来ていた。定食と水を盆の上に載せて席へ運ぼうとしたが、途中で同僚の男性とぶつかって派手に転んでしまう。石川の悲鳴と、石川の身を案じて駆けつける複数の同僚の声が食堂に響いた。食べ物も水も四方に飛び散り、食堂全体の視線が瞬時に石川と同僚男性の方に移された。石川は無問題を強調して立ち上がったが、男性社員は、まわりから「ハラス!」と言われる中、必死に謝罪の言葉を搾り出していた。近くで見ていた望月は石川のために新たに定食を注文して運び、石川は汚れた服を拭いて着席し、平然を装って昼食をとった。

 その夜、石川は安全管理部に向かった。その日の夜の担当だった男性職員は、石川を見るとすぐ席を立ち、深々と頭を下げて謝罪した。昼食の時に石川とぶつかった男だった。

「ああ、今日は、本当に本当にすみませんでした。」
 「あ、いえいえ、私の方こそ。」
「いえ、完全に僕の不注意でした。あの、意図してぶつかったわけではないので、どうか、ハラスでの訴えだけは…」
 「いえ、それは分かってます。でも、一つ手伝ってほしいことがあって。」
 「はい!勿論です!何でしょうか!」
 
 男性職員は依頼内容を聞く前から待ちきれないかのように協力を約束した。石川が、確認したいことがあるのでドライブレコーダーがほしい、決して悪いことには使わない、取りに来たということは上には言わないでほしいということを伝えると、同僚男性は少し不安そうな顔を浮かべながらも承諾。石川が用意したUSBに小手川が以前配送に使っていた5017号車の10月と11月分のデータをすべて移してもらった。陰からただ見守っていた望月は、すんなり欲しい物を手に入れた石川のしたたかさに感嘆していた。

「石川さん、なんか、恐ろしいっすね。」
 「てへ!女を使っちゃいました!」

***

 マスターは、濃厚な出汁が沁み渡った挽肉を、どんぶりバチに入った白米の上に載せる。その上に細く刻まれた白ネギを添え、自信に満ちた声で「はい、当店名物、バーソー丼」と言って客に差し出す。

「わあ!これが噂の!いただきます!・・・んん!美味しい!」

 評判通りの美味さに興奮を隠しきれない石川。隣にいた望月も「いただきます」の声とともに夢中で頬張る。

「さすが、二宮さんが課長に1ヶ月分要求しただけありますね。」
 「そしてそれが1年分になったのに、大阪行っちゃいましたね。じゃ、私たちが相良課長にこの分請求しましょうか!」
「ああ、それもありっすね。」

 昨晩から寝る間も食う間も惜しんでドラレコ映像を確認していた二人にとって、人気メニュー『バーソー丼』の味はより格別なものに思えた。

 炊飯器失踪事件の最中、日野渉が一人で切り盛りするブックバー『至上の時』は、数々の名場面の舞台となった。仕事から帰宅した凌介が家族の不在を理由に訪れ、そこに妻の相良真帆を殺めたばかりの河村が平然と現れて日野と3人で旧交を温めるシーン。凌介に初めて接触した橘一星が、凌介の娘光莉と付き合っていることを告げ、凌介を唖然とさせたシーン。迷惑系You-Tuberのぷろびんが宗教団体「かがやきの世界」の実態を暴くためにWi-Fiを使おうとしたら、そこに居た客が全員「かがやきの世界」の信者で危うく阻止されそうになったシーン。橘一星が、自分がすべての黒幕だと虚偽の告白をして警察に連行されたシーン。望月にとっては、相良真帆と新居担当の住宅メーカー・林洋介がホテルで移り込んだ写真を、二宮瑞穂が相良家のポストに投函したことが発覚し、弁解のために凌介と3人で来たのが、最初で最後だった。
 真犯人が逮捕されてから、『至上の時』は事件の聖地として一時的な盛況を見せたが、世の中が移り変わり新たな事件が起こると、大衆はすぐに次の関心事へと流れていくものだ。しかし、永遠に停まった筈だった炊飯器失踪事件の歯車がまた動き出そうとしていた。「またここが忙しくなるのかも」と日野は心の中で呟いた。本来思い描いていたブックバーとしての盛り上がりとは異なるが、そんなことを熟慮する間もなかった。

「で、事件についての相談って、何?」

 日野がそう聞くと、望月は小手川が昨年11月に退社したこと、行き先も告げず誰とも連絡がつかないこと、彼が運転していた配送車の荷台に不審な毛布が残っていたこと、そして二宮からの情報で彼が真帆と繋がっていたことなど、一部始終を話した。

「まあ、真帆ちゃんは誰にでも愛想良かったからね。でも、考え過ぎじゃないかな?だって…」
 望月は日野を遮って話しを進めた。「実は、会社のドライブレコーダーを調べたんです。昨日の夜からさっきまでずっと見てたんです、石川さんと一緒に。そしたら、小手川君は、埼玉県北部にある古い空き家に何度も行き来していることが分かったんです。ドライバーが遠方に行くときに、たまにそういった場所に立ち寄ることはありますけど、そんなに頻繁に同じ場所に行くのはあり得ないです。」

 詳しく聞くと、小手川がその場所に行っていたのは、真帆が失踪した10月15日の夜が最初だ。配送車は左側に見える空き家を少し通り過ぎてから停車していたため、空き家に誰が出入りしたかは見えない。その次に小手川がその空き家に向かったのは10月19日の昼過ぎで、その後栃木に向かってか同日夜遅くに再度立ち寄っている。

「この時小手川が運んでいたのは、あの冷凍遺体だったんですよ。住所は栃木の存在しない場所で、次の日に僕に預けられて、僕がそれを相良さんに届けたんです。」

 その後、10月22日、同29日にも言っている。最後に行ったのは11月5日だ。しかし、その日のドライブレコーダーに映っていたものは酷く衝撃的だった。その空き家が完全に燃やされていたのだ。空き家全体が黒く焦げていて屋根も大半が焼け落ちていたのが、粗めの映像からも分かった。その後、小手川が亀田運輸を退職するまでの映像を確認したが、5017号車が再びそこに立ち寄ることはなかった。

「よし!明日そこに言ってみよう!二人とも、空いてる?」
 明日は日曜日だ。普段はバーカウンターの後ろでどっしり構える日野だが、動く時は動く。車も自分で出す。石川も望月も即諾した。
 
「ところでさぁ」と日野が話題を変える。「そのドラレコ映像、どうやって手に入れたの?簡単に持ち出させてくれないでしょ。瑞穂ちゃんの時は、結構手の込んだ作戦を練ったって聞いたけどね。」
 「それが、ですね…」

 望月は石川がほぼ一人で「女を使って」実行した作戦を日野に語った。

「おっそろしいねえ!瑞穂ちゃんはいなくなったけど、これで亀田運輸も安泰ってわけだ!ははは!」

 大きく笑いながら望月の肩を叩いてから、日野は望月の耳元で何かを囁いた。

「はあああああああああああああああ!???」と怒号を発する望月を、石川は小悪魔的な薄笑いを浮かべながら静かに見つめていた。

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