夢を見ない夜 (名手ポール・シンプソンの苦悩 改題)
夢を見ない夜
鐸木能光
買ったばかりの大型トラックから見下ろす路面はひどく暗かった。
ヘッドライトはついているはずなのに、なぜこんなに暗いのだろう。俺はいぶかりながらもアクセルを踏み続ける。
荷台は空だ。今日の仕事は終わり。あとは家に帰って酒を呑み、寝るだけ。気の遠くなるようなローンを組んで買った大型トラックだったが、実はまだきちんとした駐車場さえ確保していない。帰宅は深夜になることが多いので、夜陰に紛れ、自宅そばの資材置き場の前や、少し離れた浄水場裏手の空き地に停めている。
俺のような白ナンバーの個人営業者は、ただでさえ法を犯しているのだから、駐車場問題は早めになんとかしなければと思う。
それと運転技術。若い頃、大型免許は取ったのだが、なぜか仕事としては大型トラックもバスも運転する機会がなく、せいぜい2トン車どまり。待望の大型トラックだが、まだ車両感覚が掴めない。さっきもコーナーを曲がるとき、内輪差を気にして、運転席の窓から大きく乗り出して後方を確認してしまったほどだ。
ようやく昨夜停めた資材置き場入り口の空き地に近づくと、乗用車がスモールライトをつけたまま停まっていた。
「馬鹿野郎。そこは俺の予約席なんだよ」
声にならない悪態をつきながら、ゆっくり近づいていくと、それは乗用車ではなくパトカーだった。
まずい。俺は仕方なく、そのまま知らん顔で通り過ぎた。
あそこに置けないとなると、浄水場の裏手か……。あそこからだと家まで十分近く歩かなければならないが、仕方がない。
浄水場へ続く進入路に入るために交差点を左に曲がるとき、後ろからさっきのパトカーがついてくるのが見えた。
なんだよ。止める気か?
しかし、パトカーは俺のトラックの前に回り込むでもなく、一定の距離を置いて静かについてくるだけだ。
やりすごそうと、次の交差点でわざと曲がってみた。が、パトカーも曲がってついてくる。次の角を曲がっても、次の角を曲がっても……。いつの間にか、住宅街の周りをぐるぐる回る羽目になった。それでもパトカーはついてくる。なんだってんだ。俺は早くこのトラックをどこかに停めて、家で一杯やりたいんだよ。
おかしいな。ステアリングが妙に重い……。
ああ、そうか……これは……またか……。
*
深夜、住宅街を囲む道をいつまでも回り続けるトラックが一台。不審に思い、パトカーが追いかけたが、トラックは呼びかけに答えず、走り続けた。相手が大型車だけに、体当たりするなどという無茶もできない。ようやく止まったトラックの運転席を警官が覗き込んでみると、運転手はすでに死んでいた。しかも首がない。
首は二キロ離れた道路脇で発見された。どうやら、運転席の窓から顔を出してトラックの内輪差を確かめながらコーナーを曲がったときに、電柱から斜めに張られたワイヤーに首を引っかけ、ギロチン切断されたらしい……。
*
「あなたの書くお話は、いつもオチが明快すぎるのよね」
ファクシミリに吸い込まれる原稿を見送りながら、洋子が言った。
「それに、死人が自分の死に気づかないで動き回るというお話、これでいくつ目かしら?」
「忘れたな。書く端から忘れてしまうんだ。そうじゃないととても量はこなせないよ」
俺はブランデーグラスの中の氷を指先で回しながら答える。
妻はショートショートのファンで、俺の作品にはいつも手厳しい。
我が家の書棚には、ショートショートと呼ばれるものなら、古今東西、名作の誉れ高い作品はほとんど揃っている。しかし、それらを俺はまともに読んだことがない。読んでも「分からない」のだ。
結末の意味が取れないものもたくさんある。そう言うと、妻の洋子は「ええーっ、何言ってるの? それがお洒落なんじゃないの。なんだろう、この終わり方は……って悩むところが、よくできたショートショートの醍醐味なのよ」と口を尖らせる。
俺は何も言い返せない。まったく情けない話だ。
ショートショートだけではない。音楽も美術も、昔から苦手だった。工作は得意で、本立てや花瓶台をお手本通り寸分の狂いもなく組み立てることにかけてはクラスの誰にも負けなかったが、美術や音楽にはまったく興味が持てなかった。ピカソの絵など、どう説明されても子供の悪戯描きにしか見えない。
そんな色気のない人生に、何か一つでも趣味を持とうと、洋子と結婚してからは、毎晩見る夢を日記代わりに文章にまとめることにした。洋子がショートショート好きであったことも影響している。
俺に内緒で、洋子がそれらをコンテストに応募したのが五年前のことだ。気がつくと、俺の夢日記は職業になっていた。
電話のベルが一回鳴り、ファクシミリが紙を吐き出し始めた。
編集者の見慣れた文字が、逆方向からゆっくりと現れる。
[短編の名匠・粟田口吉光様。玉稿拝受。いつもながら鋭い切れ味、堪能させていただきました。来月号もよろしくお願いいたします]
妻の洋子が、少し不満そうにその紙を取り上げた。
「私に文才があったら、あなたよりずっといい作品を書けるのに」
俺はふんと鼻で笑って、ブランデーグラスを傾ける。洋子の文章ときたら、てにをはも心許なく、とても読めたものではない。読書家なのに文章が下手というのはどういうことなのか、不思議で仕方ないのだが、それでも俺は彼女に頭が上がらない。
「さて、もう一杯呑んでから寝るかな」
ブランデーの瓶に手を伸ばしたところへ、妻の甲高い声が飛んだ。
「ダメよ、あなた。三杯以上呑んだらぐっすり眠ってしまって、夢を見ないってこと、もう経験で分かっているでしょう? あなたもプロなんだから、そのくらいはわきまえてちょうだい」
夢を見ない夜……ああ、それこそ今の俺にとって、いちばん望むものなのだが……。……待てよ。そういう話が一つ書けるな……。
*
と思ったところで目が覚めた。ワープロの画面は、トラックの運転手がパトカーに追いかけられているところで終わっている。
夢に出てきた妻の言葉に従って、オチを少し変えてみるか……。
「もうすぐ夜が明けるわね。あなた、はかどっている?」
背後から洋子が声をかけてきた。振り向くと、首のない妻が、熱いコーヒーをのせたトレイを持って立っていた。
……という話が一つ……。
しかし、なぜかもう、瞼は重くない。
(1997.01.05)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?