吉蔵の『中論』観四諦品 理解について

吉蔵の『中論』観四諦品の解説を読んでた
これ↓なんですが
衆因縁生法 我説即是無
亦爲是假名 亦是中道義

噛み砕いて書くと

人は目に見える存在が実在だと思ってしまう
けれども実際は関係性で成り立っているものであって(衆因縁生法)
それは、実在しているものではない(我説即是無)
しかし、それは存在しないのでは関係性の上に仮に有るものである(亦爲是假名)
そうしたあり方を中道という(亦是中道義)

つまり
有る、無いという両方とも、言葉による表現でしかない
だから、最終的に言いたいこの世界の実態は、どちらでも無い中道としか言いようがない

同じ事を「八不」とか「無得正観」とか、言い換えはできるけど、真理そのものを定義できない
だから、言葉で言える両端を二諦と言うけど、三論宗では三諦とは言わないんじゃないだろうか?

ここからは日本三論宗の話だけど、吉蔵が直接書いてなくても、この思考法であらゆる事を読んでいくことができる
たとえば、如来蔵思想

中観・空思想なのに如来蔵をどう認めるの?と思ったりする
しかし、これは

人は、魂とかアートマンのような「自分そのもの」が有ると思ってしまう
→「無我」説で否定される

すると、すべては虚無であり、何もないと思ってしまう
→「如来蔵」という概念で、心の働きはある事を示す

例えば、こんな感じで見ることができるから、如来蔵と書いてても、如来蔵という何かが実在していると言ってる訳でもなく、やっぱり関係性の上に、そういう働きが心の中にはありますよね、という話をしていると考えれば良いと思います

なんなら、仏身説とか、密教についても、三論宗的に把握してるのでは?とも思うんだけど、この辺はまだ勉強が足りないので…

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