はじまりの哲学

Twitter、凍結。

 突然すぎる死に、私takubonnは激しい喪失感を覚えた。今まで日記代わりに積み上げてきた自分のツイートが全焼した。さらには学術的なツイートも、お気に入りの絵のブックマークも、すべて。幸い私は、ほぼ見る専だった鍵垢を本垢にして、相互を探し出し†世界†を取り戻す作業を始めたのであった――

とまあこんな感じで、Twitterが安全な場所でなくなったことを認識した私はnoteを始めることにした。字数制限ないし。前からブログ的なものを書いてみたいという気持ちはあって、いろいろ探した結果noteが一番自分の美学に合っていたのだが、始めるきっかけがなかった。凍結はいいきっかけになってくれたと思う。だから今回は、というか初めての記事は、因果についてのような話を書いていこうと思う。ああ、もちろん胡散臭いやつじゃなくて、こういう考え方はどうだろう、という提示をするだけなので安心してもらいたい。

 ああそうそう、この記事だけでなく、私の話は寄り道が多いことをあらかじめ断っておこう。理由は2つで、話を広げるのが好きだから、そして話をまとめるのが下手くそだから(最悪)。RPGでいえば、探索は好きだが物語をテキパキ進めるのは苦手、という感じ。「幅優先探索」というやつだね(ほんとか?)。

導入にちょっとしたお話を

 1年ほど前、知り合いが小学生の作文に言及して怒りを示していた。作文はおそらく「命を大切さ」みたいなテーマで書かれたものだろう。内容は「自殺する人は心が弱いんだと思う。生きたくても生きられない人もいるのにもったいない」というものだったと思う。なんと香ばしい……! まあ反感を買って当然である。「私たち側のこと何も分からないくせに。お前もこちら側になってみろ。ムカつく」とお怒りだ。ごもっとも。だがそれはそれとして、少し視点を変えてみたいと思う。

  • 普通の環境で育った小学生がその考えに行き着いてしまうのは、その小学生に非があるか。

  • 自分が「あちら側」だったとしても、小学生で「こちら側」の人を理解できる人になっていただろうか。

 私はこの疑問をその知り合いに投げかけた。大人含め大勢の人から叩かれているその小学生を不憫に思ったからだ。私は比較的良い教育を受け、平和な環境で生きてきたと思う。「命を粗末にするのは悪いこと」も当たり前だった。だからその小学生の気持ちが分かるような気がしたのだった。
 ネットを介して、あまり良いとはいえない環境で生活してきた多くの人たちの話が聞けたことは、私に重要な変化をもたらしてくれたと思う。知らなければ理解をするのは困難だ。私は考えた。

  • 良い環境(悪い環境)で育つことは良い(悪い)ことか。

 あなたはどう思います?

良い環境で育てばまっすぐ育つ反面、他方への理解は浅くなる。悪い環境で育てば、同じような人たちへの理解がしやすくなる反面、歪みやすいだろう。これはいい例だと思う。そこにあるのはただ「環境が違った」という事実だけだ。どちらもそこでしか得られないものがあり、優劣はないと、私はそう思っている。だからこそ、環境ゆえに持った物で環境ゆえにそれを持たざる者を叩くのは、実に滑稽な話だと思ったわけだ。
 さて、導入のお話も終えたところで、本題に移ろう。

道の過去と未知の未来

 歌詞でありそう

 『道程どうてい』という詩がある。私のように中学の国語の教科書で読んだ人も多いだろう。響きゆえに記憶に残っている当時中学生の読者も多いのでは?  初めて読んだとき、解釈の難しさを感じながらも、その力強さに感動したのをよく覚えている。後に知ったことだが、実は広く知られているものは改訂版であり、元のものは102行とかなり長い。長いので、ここでは略を入れつつ載せる。気になった人はぜひ全文を読んでみてほしい。

どこかに通じてる大道だいどうを僕は歩いてゐるのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
道は僕のふみしだいて來た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう
自墮落じだらくに消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められたあの道
幼い苦惱くのうにもみつぶされたあの道
ふり返つてみると
自分の道は戰慄せんりつに値ひする
四離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命いのちの道と信ずるだらう
それだのに
やつぱり此が此命いのちに導く道だつた
(略)
僕はどう行かうとも思はない
どの道をとらうとも思はない
僕の前には廣漠こうばく(広漠)とした岩疊がんじょう(岩畳)な一面の風景がひろがつてゐる
(略)
歩け、歩け
どんなものが出て來ても乘り越して歩け
この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ
(略)

高村光太郎『道程』, 青空文庫より

かっこいいなぁ……

 未来は広大で誰にも分からず、ああすればこうなるというものでもない。いま確かにあるのは、過去から伸びたひとつの結果のみ。
 そして私はこう考えて生きている。後悔をするより、この道を歩んだからこそ、今この場所からだからこそ手を伸ばせる未来を祝福しようじゃないか。変えられない過去と変えられる未来で絶望と希望に分離するのではなく、すべてが地続きであり、良いと感じるものも悪いと感じるものも、あまねく過去は未来へのいしずえであると。これこそ過去に対する究極の受容ではないだろうか。

お気に入りの言葉

 最後にお気に入りの言葉を紹介しよう。と言っても、名言のようなものではなくもっとさらっとした、誰もが聞いたことのある言葉だ。

これもなにかの縁です

 さすらいの旅人っぽいね

大好きな言葉だ。実際に縁のようなものを信じるかはこの際関係ない。人と人との関わり、運命の交差点において、この言葉はお互いが歩んできた道を肯定してくれる。良い文化だ。

 風が吹けば桶屋が儲かり、馬が逃げれば子が戦争へ駆り出されず、蝶が羽ばたけば竜巻が起こり、Twitterが凍ればnoteが生まれる。世の中とはそういうもので、きっとこれは普遍で不変な世界の原理なのだろう。今この記事を読んでもらえているのもなにかの縁だと思っている。あなたの未来に祝福あれ!

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