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当然、当たり前って言葉が嫌い

私は日常で色々なことに感謝しながら生きたいなと思っている。
感謝して、感謝されて、そんな生活の方が楽しくて満足できるような気がするからだ。

しかし、そんな感謝の心をぶち壊す言葉がある。
「当然」「当たり前」という言葉だ。

店員が笑顔で接客するのは当たり前
仕事ができるのは社会人には当然

そう思う人たちにとって、店員に笑顔で接客してもらっても、命じた仕事が指示通りにこなされていても当たり前なのだから感謝する気持ちは起きないだろう。それって悲しいと思うのだ。

なので私は「当然」、「当たり前」という言葉は使わない。
お店でいい接客をしてもらったらありがたいと思うし、仕事がきちんと終わっていればすごいと褒め、お礼を言う。
誰かが失敗してしまったらうまいやり方を教えてあげればいいし、一緒に考えてあげたい。当たり前のことなのになんでできないんだ!なんて怒っても何も解決しないし意味はない。

でも実際には、〇〇ができるのは当然だ! 
〇〇は〇〇するのが当たり前だ!みたいなことを言う人をよく見かける。
今回は人々がなぜそう考えるのかを考察してみたい。

なぜ当然、当たり前だと思うのか

「当然」「当たり前」と言う言葉を使いたくなるような考え方ついていくつか考えてみた。

①仕事などに対する誇りが高い場合
 サービス業に従事している人などに多そうだが、自分の仕事に対しプロフェッショナルとしての誇りを持っており、それゆえに他人にも高い水準を求めてしまう場合だ。
 このような人はおそらく辛い仕事の中で自分が誇れる確固たる何かを作ってきたのだろう。「当然」「当たり前」という言葉は自分で気負い、自らを奮い立たせるための言葉なのかもしれない。彼らが自分を奮い立たせ、積み上げてきたことについては敬意を表したい。
 だが、それを人にも押しつける必要はあるだろうか。自分が誇りを持って従事していることへの真剣度合いが足りなかったり努力や経験が足りないのは確かに腹立たしいかもしれない。でも仕事に対する誇りの持ち方、気負い方はその人自身が決めることだ。他人に対して誇りやプロフェッショナル精神を求めるのは、他人の価値観に対して干渉しすぎではないだろうか。自分の誇りを大切に、そして他人の考えを自由に許容するともっと生きやすいのではないかと思う。

②相手のことを心配している場合
 教師であったり指導的立場にある人に多そうだが、自分の教え子や後輩に自立してほしい、成長してほしいと思う一心で「当然」「当たり前」という言葉を使ってしまう。私も中学校では〇〇が当たり前、高校生になったら〇〇できるのは当然と幾度も教えられてきたなという思い出がある。
 実際、この手の教えには正しい側面もあるし、何も分からない子供にとってある程度新しい世界について想像させるきっかけは必要だと思う。ただ、教育者に皆さんにぜひ立ち止まって考えてほしいのが、自分の教えが相手の常識や世界を狭めていないかということである。先の見えない世の中では何が起こるか分からない。10年後の世界でどんな能力が評価されるかも分からない。価値観の形成過程にある相手にとって「当たり前」「当然」という常識で世界を縛ってしまうのは正しくないかもしれない。

③そう言われて育ってきた場合
 親や教師から「当然」「当たり前」と言われて育ち、それが人格形成の中でかなりの意味を持ってしまった場合だ。良い成績をとっても、親のお手伝いをしても当たり前だと評価してもらえない。そうして育つといざ自分が教育者や親になった時に相手に感謝することができなくなってしまう可能性がある。
 私の場合、親はかなり放任で自由に育った。好きなこと、興味あることだけをして生きてこられたことを感謝しているが、その一方でもう少し色々と褒めてもらいたかったなと思うこともある。褒められたり感謝されるという経験は自尊心や自己肯定心の形成に大きく影響するのだ。私はそれでもたまに親が喜んでくれたり、親以外が評価してくれたりでそこそこの自己肯定感を得ているが、これが全くなかったらと思うと怖い。
 「当然」「当たり前」の中で育った人は気の毒だ。気の毒だが、自分の親や教師の間違いを繰り返して良いのだろうか。悲しかった、辛かった経験を自分が関わる相手にまたさせても良いのだろうか。ぜひ過去の流れを断ち切り、新たな良い流れを作ってみてはどうだろうか。

「当然」「当たり前」という言葉を使わず、日常の様々なことに対して感謝できる人になりたいなと思う次第である。


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