被災地に祈りを込めて ベートーヴェンが音楽に託したもの
被災地に祈りを込めて
~ ベートーヴェンが音楽に託したもの ~
2024年は大変な年の幕開けになりました。被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
こんなとき、自分に何ができるのか。その答えとして、私は書くことにしました。そして書いたものの売上から、サイト掲載料、決済手数料、振込手数料を差引いて義援金に充てることにしました。
また被災された方々には、私からのメッセージだけを届けたいと思いました。そのため、この短編は有料としていますが、最後まで無料でお読みいただけます。
一日でも早く、前を向ける日が来ますように・・・。
被災地に祈りを込めて
ベートーヴェンが音楽に託したもの
『ご自由にお弾きください』
それならば・・・と鍵盤の前に座るにはちょっとした勇気がいりますし、私たち日本人はこの手のちょっとした勇気をなかなか持てない民族ですよね。
最近ちょくちょく見かけるようになった『駅ピアノ』。駅ピアノというからには、当たり前のことですが、設置場所は駅。人が行き交う場所。知らない人の目があると、経験者でもなければ、いえ経験者であってもしばらく練習をしていないと、なかなかピアノを弾いてみようという気持ちにはなれないものです。
2024年、新しい年がスタートしました。年明けのこの時期には、いつもの日常とは違う風景を見てみたいと思い立つ人もいるのではないでしょうか。そんなあなたにピアノの前に座る勇気を届けてみたい。そう思い立って、これを書いています。
イメージしてみてください。いつもより帰りが遅くなって、終電の一つ前の電車を降りたあなた。家までのバスの時間を確かめたら、20分ほど待つことになりそう。そんなあなたの目に飛び込んできた一台の駅ピアノ。幸いなことに周囲に人はほとんどいない。いつもとは違う日常を・・・、そう思って思わずピアノの前に座ってしまった。
さて、何を弾けばいいの?
あなたはそこで、はたと気づくはず。ご自由にどうぞと言われて困ってしまうことに。およそ人とは自由にと言われてしまうと、存外困ってしまうものなのだと。自由とは案外人を苦しめる存在なのだと。
そんなあなたに届けたいメッセージ。ゆっくりでいい。むしろゆっくりの方がいい。たどたどしくてもいいから『ドレミファソラシド』と弾いてみて。一回できたら、もう一回。
次に、三番目の『ミ』の音と、六番目の『ラ』の音を、それぞれ斜め左奥の黒鍵に変えてみて。すると、音を二つ変えただけなのに、なんだか暗いような、異国情緒に溢れたような感じがするはず。音楽用語で言うと最初に弾いたのが『ハ長調』、次に弾いたのが『ハ短調』。少し説明をすると、長調は明るい音階で、短調は暗い音階。また『ハ』というのは、戦前「ドレミファソラシド」を「ハニホヘトイロハ」と言っていたことの名残で、『ハ』は『ド』の音です。というわけで、『ハ長調』は『ド』の音から始まる明るい音階で、『ハ短調』は『ド』の音から始まる暗い音階ということになります。
次に和音にチャレンジ。ピアノの特長は和音。バイオリンやチェロのような弦楽器、クラリネットやトランペットのような管楽器は、一度に二つの音、三つの音を出すことができません。だけどピアノは一度にたくさんの音を鳴らすことができるのです。そこで今度は、左手の小指を、真ん中の『ド』から1オクターブ下の『ド』に、薬指をさっき弾いたハ短調の『ミ』(ミのフラット(「♭」と表記)と言います)に、人差し指を『ソ』に、親指を真ん中の『ド』に。右手の親指を『ミのフラット』に、中指を『ソ』、小指を『ド』に合わせて・・・。思い切っていっぺんに弾いてみてください。
『ジャーン』
「ド ミ♭ ソ ド ミ♭ ソ ド」。私はこの和音を『ザ・ハ短調』と勝手に呼んでいます。重苦しいような、絶望的な、全てを失った後の喪失感を表現したような音。とにかく暗い、重い。
この和音は、ベートーヴェン作曲のピアノソナタ第8番『悲愴』の出だしの音です。この何とも暗い和音をベートーヴェンは ”grave”(グラーヴェ、重々しくという意味)弾くように指示を出しています。そんなことしなくても十分に重々しいのにね。
さて、2024年。新しい年は、この和音のような重たいスタートになってしまいました。元旦は、新しい年の門出の日、多くの人々が休暇を取り、故郷に帰り、家族と久しぶりの再会を果たす日、街には人々の笑顔があふれる日になるはずでした。人生何があるかわからない、自然災害はいつ起こるかわからない、それは誰もがアタマでは分かっていたはずでした。けれど、なにも新しい年のスタートの日が、大切な人を失う日、大切な住まいを失う日、喜びを奪われる日にならなくても・・・。神様はなんという試練を私たちに与えるのでしょう。悲しみ、怒り、嘆き、喪失感、絶望感・・・。なぜ、こんなことが・・・。なぜ、この日に・・・。
今から254年前、この問いに敢然と向き合った一人の音楽家がドイツのボンに生まれました。ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。生涯独身を貫き、その人生の全てを音楽に捧げたといっても決して過言ではない人生を送った人。けれども、そんな音楽が全てであった彼から、神は聴覚を奪ってしまいました。職業音楽家にとって聴覚は生活の基盤だったはず。また、音楽を芸術の域まで高めた彼にとって、聴覚は自分自身を表現するために、なくてはならないものでもありました。
私は音楽を仕事にしているわけでもありませんし、耳も聴こえています。もっとも妻に言わせれば、私の耳は聴覚を失っているとの認識ですが・・・。それはさておき、そんな私にはベートーヴェンの苦しみは到底理解できません。音が聞こえない世界に引き込まれた悲しみを知ることはできません。残念なことですが、私たちは人の痛みや悲しみ、苦しみをその人と同じレベルで理解することはできないものなのです。
そんなわけで、私は自分以外の人が苦しんでいる姿、悩んでいる顔、悲しんでいる様子を見て、軽々しく「わかる」とは言えません。苦しみや悩み、悲しみはその人にしかわからないものなのですから。同じ痛みを全く同じように感じることができるわけではないのですから。
『ジャーン』
『ド ミ♭ ソ ド ミ♭ ソ ド』の『ザ・ハ短調』の和音から始まるピアノソナタに、作曲者ベートーヴェンは『悲愴』と名付けました。ベートーヴェンが自分で作曲した曲に名前を付けるのは珍しく、例えばピアノソナタに限ってみても、32曲のうち、彼自身が名前を付けたのはこの『悲愴』と『告別』だけ。ちなみに『月光』、『熱情』、『ワルトシュタイン』なども有名ですが、彼自身が曲名を付けたわけではありません。一般的にクラシック音楽の世界では、曲の正式名称は、曲の形式ごとの通し番号と、曲の始まりの調、その作曲家の作品の通し番号になります。これを『悲愴ソナタ』に当てはめると
「ベートーヴェン作曲、ピアノソナタ第8番ハ短調、作品13」
となるのですが、これではあまりに味気ないので、この先は「悲愴ソナタ」と呼ぶことにしましょう。
この『悲愴ソナタ』、ピアノ曲だから当たり前と言えば当たり前なのですが、現代の音楽のように歌詞がありません。ということは、この曲をどのように聞き、どのように解釈するかは聞く人の自由。作曲者自身が『悲愴』とタイトルをつけたのですから、深い悲しみを表現しようとしたはずなのですが、それが何の悲しみかは具体的にはわかりません。恋人と別れた悲しみなのか、大切な人が亡くなった悲しみなのか、せっかく書き上げたレポートの保存に失敗して全て消去されてしまった悲しみなのか、それともスマホを水没させてしまった悲しみなのか・・・等々。さすがにベートーヴェンが生きた時代にはパソコンもスマホもありませんから、データの消去やスマホの水没ではないと思いますが・・・。
また、悲しむ様子を表現したものなのか、悲しんでいる誰かを勇気づけようとしたものなのか、悲しみを乗り越えようとしている姿なのか、正確には分からないのです。なぜって言葉で書かれてはいませんからね。全ては音で表現されているのです。
『僕の芸術は、貧しい人々の運命を改善するために捧げられねばならない。』
これは、ベートーヴェンが悲愴ソナタを書いた少し後に言い残した言葉です。彼が残した音楽そのものには、歌詞がありませんから、音楽を聴いてどのように理解するかは自由です。けれどもベートーヴェンがどのような思いで曲を書き続けたのかは分かっています。そして、どのような一生を送り、どんな作品を残したかは分かっています。また、私たち人間は、他人の痛みを全く同じ形ではわからないけれども、分かろうとする、分かち合おうとする共感力が備わっています。だからこそ、この曲は200年以上も同じ楽譜で何度も何度も演奏を繰り返され、世界中の人々に愛されているのではないでしょうか。
私はプロの音楽評論家ではありません。言わばただのベートーヴェン好き。悲愴ソナタ好き。なぜって、生きていると避けることのできない神の試練を乗り越える力を感じるから、困難に立ち向かう勇気をもらえるから。ここから先は、私が悲愴ソナタを聞いて感じること、思うことです。今なぜそれを話すかというと、この2024年をたくましく生きるヒントになると思うから。人間の無限の可能性を信じたベートーヴェンの想いを伝えてみたいから。
第一楽章
この悲愴ソナタは、三つの楽章からなる三部構成となっています。演奏会などでは、楽章と楽章の間は少し間を空けます。ちなみに、一曲の演奏としてはまだ終わっていないので、この間に拍手はしません。(ときどき、クラシックを知らないお客様が拍手をされることがありますが・・・)また、間隔をどのくらい空けるかは演奏者次第ですが、個人的には第一楽章と第二楽章の間は少し長め、第二楽章と第三楽章の間はあまり間を空けない弾き方が好みです。
第一楽章はハ短調。もう何度もお話した「ジャーン」という「ザ・ハ短調」の和音から始まります。とにかく重い、暗い。カフェなどのバックミュージックには向かないかもしれませんね。そして序奏部は、絶望感が漂ってくる重い和音の連続です。
なぜ?何でこんなことが?信じない。信じたくない。突然降りかかってきた理不尽な神の仕打ち、茫然自失という感じでしょうか、とにかくあまりに突然の悲劇を人はすぐには受け入れられない・・・。
そして序奏部が終わると、一転して速いテンポの第一主題。ショックな出来事を一応は認識した後、人は混乱するもの、動転するもの。とにかく何をどうしたらいいのかわからない。けれど大変なことは起きてしまっている、こんなときどうすれば?正常な判断能力はすぐには戻って来ません。でもじっとしていたくもない、いられない。黙っていたくもない、いられない。人によっては手当たり次第に物を投げつけるかも知れません。焦燥感、いらだち、混乱・・・。
さまざまな思いを引きずったまま曲は第二主題へ。第二主題も引き続き短調、そして速いテンポ。混乱は収まらない、人が取り乱す様子が描かれているよう。この第二主題はもう一度繰り返し演奏され、そして序奏部の和音が再び現れる、そして速いテンポ・・・。
ちょうどこの曲を書き始めた頃、ベートーヴェンはひどい難聴に苦しみ始めていました。音楽を生業とし、新進気鋭の作曲家として後世に名を残したい。作曲家としての地位を確立したい。まさにそんな時期に過酷な運命が彼を襲ったのです。
聴こえない!
なぜ私から音を奪うのか!
神はなぜこんなひどいことをなさるのか!
音楽家にとって、最も大事な耳。胸をかきむしられるような苦しみ、ひょっとしたら喚き散らしたかもしれないし、あたりのものを手当たり次第に投げ散らかしたかもしれない。過酷な運命を突き付けられた彼の苦しみ、悲しみがこれでもかと表現されているかのようです。そして、混乱は落ち着くこともないまま、第一楽章は終わるのです。
第二楽章
第二楽章の主題は、おそらく誰もが聞いたことのある旋律ではないでしょうか。作曲された当時も、様々な音楽家が歌詞を付けて歌ったと言われていますし、楽譜も残っているとか。現代音楽でも、ビリージョエルさんが “This Night”という曲に採用していますし、日本では平原綾香さんと藤澤ノリマサさんが “Sailing my life”という曲に使っています。クラシックの中には、曲名は知らないけれども「ああ、聞いたことがある」という曲が多いですが、この第二楽章の主題はまさにそれではないかと。
この第二楽章は変イ長調で書かれています。「変」というのは、半音下がる音を意味し、「イ」は「ラ」の音ですから、ラのフラットから始まる音階です。長調なので明るい音階なのですが、底抜けに明るいハ長調やヘ長調とは少し違った感じの調です。主音がハ短調に出現する「ラ♭」であり、また音階の中にハ短調を特徴づける「ミ♭」があることもあってか、人の心の内面に働きかけてくるような格調高い音階というように私は理解しています。
この第二楽章を一言で表すと「癒し」。傷ついた人の心にそっと寄り添ってくるような、心の奥にすっと入ってくるような、心地よい旋律です。よくベートーヴェンというと、激しさが特徴だと思っている人も多いようですが、ベートーヴェンの緩徐楽章、いくつかの楽章からなる作品の中でゆっくりとしたテンポの楽章のことですが、はとにかく美しい。大みそかに演奏される第九(交響曲第9番「合唱付き」)の第三楽章も、とにかく美しい旋律ですから、今年の大みそかは最初から通して聴いてみてはいかがでしょう・・・。そんな先のことなど覚えていられませんよね・・・。
話を悲愴ソナタに戻しまして、この第二楽章はゆっくりと歌うように(アダージョ・カンタービレ)演奏するようにと指示されています。とにかく声に出して歌いたくなる旋律です。最初はゆったりとしたテンポで始まり、途中で二度の転調を経て、後半は同じ主題が三連符で演奏されます。三連符の小気味いいリズムのおかげで、聴き手にある種の高揚感をもたらしてくれる感じがあります。深い悲しみをいったん受け入れた後の、再び立ち上がろう、前を向いていこうという気持ちの変化を表現しているようです。失意のどん底から、人間が歌うことを取り戻したような状態、何とかなるかも、もう一度頑張れるかも、再び希望を持ち始めたときの魂の高揚感。
私がベートーヴェンのことが好きで、中でもこの曲が得に好きな理由は、ここにあります。再び前を向くためには静かに、涙を流すしかない。一人で泣いている人に、それでいいんだよと語りかけるベートーヴェンの優しい声が聞こえてくるよう。その優しさは、決して表面的なものではなく、絶望を味わった者、その絶望を乗り越えた者にしか伝えることのできない優しさ。そして押し付けてくるのではなく静かに見守ってくれる優しさ。
第三楽章
ゆっくりした緩徐楽章を経て、曲は再びハイテンポに。また音階も第一楽章と同じハ短調。曲の出だしに前に聞いたようだなと思った人は、耳のいい人。最初の四つの音が、第一楽章の第二主題と同じですから似ているはず。
ただ、何かが違う。速いテンポだけども焦燥感を感じさせるのではなく、むしろ力強さを感じます。そう、この第三楽章の特長は力強さ、躍動感、強い生命力。過酷な運命を受け入れ、乗り越えた者が放つ強いオーラ。曲調は短調には違いないのですが、暗さを感じるどころか、むしろあるいは長調かと思わせる旋律です。第二楽章後半の三連符が放つ高揚感をそのまま受け継ぎ、より確かに、より力強く、さらなる高みを目指していく感じ。ここに、音を失ってからも、音楽を決して諦めず、むしろ苦難を受ける前よりも輝きを増したベートーヴェンの姿を見ることができるのです。
希望、光、夢、明るい未来に対する確信。困難を乗り越えただけに、もう怖いものはありません。生きていることそれ自体の素晴らしさを奏でるため、躍動する鍵盤たち。そして曲はクライマックスへ。強烈なラストはベートーヴェンの決意表明、そして未来の私たちへのメッセージ。
それでも、私は音楽を諦めない!
私は音楽で世界をよりよいものに変えてみせる!
人は誰もがきっと幸せになれる!
一日も早く、被災者の方々が前を向ける日が来るよう祈りを込めて。
令和六年一月二十三日、名古屋にて。
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