ステイホームとホームステイ

ステイホームというから、部屋にいることが多くなる。それは金を使わなくていい。音楽も聴けるし本も読める。だけど、アウトドア派のわたしには禁固何か月という刑罰みたいなものだ。この半年は自分と向き合えたという人もいるだろう。見えなかったものが見えたとか、したかったことができたとか、コロナで、生活ががらりと変わり、その恩恵もまたあった。

 全然別のことだが、ホームステイのことを思い出した。うちの親父は他人を自宅に住まわせるのが好きな人で、わたしが小学生のときから、次々にいろんな人を連れてきて世話した。世話をしたのはおふくろであったが、おふくろは嫌っていた。最初は青森の七戸町から、親戚の男子を頼まれて下宿みたいに三年の間住まわせた。青森の高校に通うため、わたしと同じ部屋に置くことになる。机を並べて、小学生と高校生が何を話すことがあるのか。彼はわたしより五つ年上で、商業高校にうちから通った。遠い親戚で、祖父の出が七戸であったが、そこの時計屋の息子であった。彼は何かいうと、南部弁で「んだごった」と言うのが子供のわれわれにはおかしいと、わざと真似してからかった。それが彼はバカにされたと思い、それから口を利かなくなる。三年間、あまり会話もなく、家の中は息が詰まる思いもした。わたしと机は隣だが、彼は真面目でよく勉強していた。男臭いにおいが部屋中にしていて、わたしはそれが嫌いだった。彼としても青春のいい時期を暗く過ごしたのではないか。子供のしたことだが、悪いことをしたとそれから思うようになる。彼は卒業してから、上京して時計店に修業のために勤めた。お互いにいい年になってから会ったが、いまでは親の時計店を継いで、商売人らしく明るく話してくる。親戚の子を下宿させたので、他の親戚がまた頼んできた。親父は軽く承諾するが、おふくろは反対した。うまくゆかなかったら、本人が可哀想だと。それは十和田市で商売をしていたわたしの従兄の娘で、青森のデパートに就職したから、住まわせてくれと頼んできたのだが、断った。七戸はよくてどうしてうちはダメなんだと、従兄は気分を害した。

 わたしが高校生のときに、今度は熊本の和菓子屋さんの娘を下宿させることになる。それは、菓子屋仲間で、全国的な菓子の経営ゼミナールで知り合った社長さんから、娘を青森の菓子屋に修業に出したいと、うちの会社に短大を卒業してから二年間、勤めた。その間、二十歳の色の黒い女の子と同居することになった。みんなからクロちゃんと愛称で呼ばれていた。わたしより四つくらい年上であったか。そそっかしいところがあって面白い活発な人だった。山登りが好きで、よくわれわれと八甲田山の山歩きをした。

 わたしが大学に入って、一年のときに、親父はロータリークラブの交換留学生だと、アメリカのアイオアの田舎の子で、マーサ・ヘスというドイツ系の女子高校生を預かることになる。半年うちにいた。青森の明の星女子高というミッションスクールに通いながら、三つの家庭にホームステイした。彼女は日本語を全然話せないで来たもので、妹がまだ高校生でいたとしても、語学はダメなので、おふくろが独学で英会話を勉強して対応することになる。少し津軽弁訛のある英語がおかしかったが、通じるのだ。初めて家に来たときは、土足で上がろうとして注意した。風呂の入り方も教えた。部屋はわたしが出ていった部屋を使わせていた。タイプライターを学生時代に持っていたので、それで彼女と手紙のやりとりを青森と当時は横浜で暮らしていたが、英語の練習のつもりでせっせと打って文通した。英語は苦手で、彼女のおかげで、大学の英会話研究会に一時入って話せるようになりたいと努力はした。

 彼女は冬休みにおふくろと妹と東京見物がてら遊びに来た。彼女の父親は軍属で、朝鮮動乱の後に東京にいて、そこで彼女が生まれた。自分の生まれた病院を見たいと、連れて行ったのが築地の聖路加病院だった。そこの新生児室を特別に頼んでガラス越に見せてもらった。自分の生まれた場所に立って感慨ひとしおであったろう。


 次にやはりロータリークラブの交換留学生で半年ホームステイしたのが、マーク・ウイークスというアイダホから来た高校生だった。彼は来るなり、合気道を習いたいというので、たまたまわれわれの仲間が道場の会長をしていたのと、従兄が拓大でならして4段で通っていたので、マークについてわたしも27歳のときに、合気道を一緒に習うことになる。わたしは仕事があるので、毎朝稽古に二人でランニクングしながら6時から浜町の公会堂が道場になっているところに平日は欠かさず通った。内田さんという喫茶店のマスターをしているじいさんがわれわれの先生で稽古をつけてくれた。

 マークは甲子園の常連の私立山田高校に通っていたが、真面目で夜中まで勉強していた。将来は国際弁護士になりたいと、じっさい、なって西海岸のほうの街で活躍しているようだ。彼はわたしを兄のように慕い、車であちこち連れて行った。釣りがしたいというので下北まで二人で行ったりもした。本当の兄が来日して、わが家に訪ねてきたこともあった。彼は、帰国してから、一度日本に来ていた。驚いたのが、テレビ番組の変な人を集めてやるクイズ番組に出ていて驚いた。津軽弁を話すおかしな外人ということらしい。いまはどうしていることか。

 短い滞在では、ブラジルの女子高生も何日かわが家に泊まった。そのときは、7月の末であったが、ねぶたも見るために団体で来ていたのだ。わたしは彼女と友達を車に乗せて、雪を見せてやると、八甲田山で唯一、道路端から歩いて行ける日陰に残雪があるとこに連れて行った。生まれて初めて雪を見て、感激して、後でホテルの懇親会の席でそれを得意げに話していたが、彼女には、あれは氷の塊みたいになっているが、雪とはもっとふんわりとしているものだと説明もしどろもどろ。

 中米のコスタリカから青年団の二人がわが家に何日かホームステイした。コスタリカという小さな国を初めて知ったのだが、教育水準が高く、日本の憲法九条と同じく、戦争を放棄、軍隊を持たない平和国家なのだ。セニョールと呼んだが、片言の英語で、どこに案内するかと聞いたら、パチンコがしたいというので三人でパチンコ屋に入った。わたしはそれからパチンコ屋に入ったことがない。玉を五百円ずつ買ってやったが、みんな勝てずにあっという間に終わる。感想を聞いたら、笑いながら首を傾げていた。たいして面白いとは思わなかった様子だ。それから田代平の温泉に連れて行って、露天風呂に入れたら、そうした大浴場に入るのが初めてのようで、戸惑っているのがおかしかった。

 フランスはシャトーブリアン町からパティシェエがご夫婦でわが家にひと夏滞在した。年はわたしと同じで、男の子が三人いたが、それもうちと同じだった。まだ30歳くらいの若い夫婦で、旦那はポーランドのワレサ議長に似ていて、奥さんはダイアナ妃にそっくりな綺麗な人だった。うちの菓子工場であちらのケーキを伝授したり、CMに使おうと、テレビ局の番組で夫婦で出演してもらったり、弘前のねぷた祭や十和田湖など案内した。他に経験したいことはと聞いたら「地震」という。それは無理だったが、泊まっていた夜中に一度震度3くらいが来たが、熟睡していて気付かなかったと悔しがっていた。うちの菓子屋が倒産してから、「いま、橋の下で暮らしています」と、手紙を書いたら、心配して青森にまた来て、われわれ家族がどこにいるかと尋ねていたと、後で仲間のケーキ屋から聞いた。そのころは古本屋をしていて判らないのだ。去年だったか、フェイスブックでメルレ洋菓子店を見つけて、メールをしたら返事が来た。40年ぶりに連絡がついた。いまは息子のジャン・フィリップが跡を継いでやられ、自分たちは隠居していると。そのうち訪ねてゆきたいとメールで連絡した。

 わたしもひと月といわず、どこかの国に行って、ワーキングホリディでもいいからホームステイしてみたい。旅行ではなく、生活を共にしてみたい。いまステイホムと部屋にばかりいるよりは、ホームステイのほうがいい。あいにくスキルがないので、海外ボランティアに出る語学力もないし、外国では使えないので残念だ。