愛媛松山未踏地紀行1

 いつも使う稲毛駅から成田空港行の快速に乗れる。4時半に起きて、5時半過ぎの電車で向かう。朝飯はホームでコーヒーとホットサンド。朝靄が田圃を幻想的にしていた。やがて朝日が昇ってくる。40分くらいで着いた。第2ターミナルで降りると第3ターミナルまで歩いて15分とか。新しくできた第3は利用したことがない。ここ3年は飛行機にも乗っていないほど、旅行に出なかった。あいつと別れてから、堰を切ったように、わたしは旅に出ていた。LCCの第3は、若者たちが多い。建物は簡単な構造で安普請だ。JALなどの第2とは全然違い、貧乏人の旅行という雰囲気だ。事前にスマホからオンラインチェックインをしていたのだが、機械にかざしてもバーコードが違う。係に聞いたら、カウンターで出してくれると。機内持ち込みのバックパックひとつだけ。それも7キロを超えたら追加料金が発生する。LCCはノーサービスで有料なのだ。荷物は少ない。二泊三日だから、着替えも一組だけ。ホテルで洗濯すればいい。

 フードコートは広い。売店もいろいろとある。そこの席に座って、いま、これを打っている。金属探知機に人工関節がチェックされなかった。医師から出してもらった証明書も持ってきていたが出さなくてよかった。検温とディスタンスは厳重だ。ものものしい感じさえする。

 8時25分にジェットスターの松山行が時間通りに飛び立った。飛行機に乗るのも3年ぶりだ。あいつと一緒にいたら旅行もできない。別れてから、いままでの遅れを取り戻すように旅に出る。だけど、コロナで気乗りはしない。Go to travel とは言っても、あちこちで諍いもある。松山の従兄に会いに行くつもりが、ひと月前には電話で何も言っていなかったのに、直前になってから、会えないから、来ないでと向こうから直接、わたしに連絡せずに、青森のおふくろに電話で、わたしに伝えてほしいと言ってきた。おくろからの電話で知って、いまさらキャンセルもできないし、仕事も有給をとってきていた。それで従兄と奥さんと電話で話した。今回は会わないで、来年か再来年にまた四国に行くからと、伝えた。そのときは経帷子で、歩き遍路の恰好で行くからと。死ぬまでに一度はしてみたいお遍路さんと、富士山登山の話をした。来年はもう70歳なので、そういう体力を使う冒険は早めにしないといけない。ということで、今回はキャンセルして行っていないことになっている。もし、松山でばったりと従兄と会ったらどうしよう。

 四国はこれで二度目だった。若いときに大阪で働いていたときに、店舗のリニューアル工事があり、全社員パートさんたちに2週間の休暇が与えられた。仲間の男子たちは男子寮に集まり、みんなでどこに旅行に行こうかと、女の子たちを誘って、このチャンスを逃すことはないと、口角泡飛ばして酒宴を開いていた。わたしに、どこに行くかと聞いてきたので、青森に帰ると嘘をついた。本当は一人旅がよかった。みんなとわいわいも楽しそうだが、社員旅行みたいになるのが嫌だった。それで、わたしは四国一周しようと計画を立てた。同じ職場に琴平の実家に帰る女子がいて、うちに泊まりに来なさいよ、と、招かれた。五右衛門風呂のある人里離れた田舎だけど。わたし一人では都合が悪いので、同じ部門の女の子も誘った。それで途中まで一緒に旅をすることになった。

 あのときは、琴平に一泊、高知に三泊した。桂浜の旅館には、女の子二人と三人で川のようにして寝たのだが、二人とも、布団を離して、わたしの攻撃を避けるようにしていた。真ん中でふて腐って寝たのだ。二人は琴平に戻ったが、台風が来ていて、わたしはそこから愛媛のほうに足摺岬経由で行く予定が、道路と線路が冠水したり土砂崩れで通行不能になり、愛媛は諦めて、室戸岬経由で路線バスを乗り継いで徳島に入った。阿波踊りを見に行ったら台風の大雨で中止になって、ついていない旅行だった。それで、日本全国かなり旅行して歩いたが、いまだに未踏の地は、山口県と愛媛県の二つだけだった。山口県も通過して下車したことがない。そのうち萩・津和野・岩国などに行ってみたいと思う。四国も残した愛媛に今回来て、若いときのリベンジを果たせる。


 飛行時間は1時間少しで、10時にはもう松山に着いていた。路線バスが出ているので、それで松山駅を通ったら降りた。駅前にさっそく正岡子規の句碑が建っている。「春や昔 十五万石の 城下町」と、観光協会のポスターにはちょうどいい。と言ったら怒られるか。この句碑が街中のあちこちにあって、この一日、最初は珍しくスマホのカメラで撮っていたが、あまりに多く、終いにはどうでもよくなる。

 駅の観光案内所でまずは観光マップをもらう。そこを起点にして猛暑の中を歩く。歩いてみないと、街のサイズが判らないのと、初めての街は、概要を頭に入れてから歩くと迷わない。いつもはコンパスを持っているのだが、忘れてきたので、太陽の位置で方向を確認して歩く。駅からどんどん東へ歩けば、だいたいの観光ポイントが繋がり、無駄がない。突き当りに広い公園がある。松山城のお濠がある。路面電車もみかん色、バスもみかん色、バス停もみかん色、郵便ポストは赤だった。ここは伊予柑だから、土産ものにも、みかんの酒からマーマレード、後で食べたがみかんのソフトクリームと、なんでもみかんなのは、青森のなんでもリンゴと同じだから、別にそんなものかと思う。

 花園町という商店街に子規の生誕地があった。いまは歩道になっている。その突き当りが私鉄の松山市駅。高島屋と三越があるだけでも驚く。ビルも多いし、後でネットで調べたら、人口は51万というから、青森市の倍近いのだ。古い建物がないのが不思議だった。またネットで調べてみる。すると、昭和20年の7月26日にB29の空襲を受けて、全市の半分が焼夷弾で焼失したとある。青森市はその二日後の28日に空襲でほぼ全市が焼けた。それで戦後の都市開発が進んだのだろう。

 市駅の裏手に子規堂というのがある。子規が少年時代に住んだ家を復元したものが記念館みたいになっている。みんな焼けたから残っていないのだ。誰も訪問していない瀟洒な家を見て、その前に置かれているぼっちゃん電車の現物も写真撮りする。当時のもので、漱石も子規も乗ったであろう、小さな遊園地の電車みたいで可愛い。

 商業の中心地みたいな銀天街と大街道を歩くが、アーケード街で閉めている店もあるし、第一平日の昼だが、人があまり歩いていない。飲食店はがらがらだ。コロナで全国どこもここもだろう。

 松山城は山城で、ロープウエーとリフトが上まで行く。往復券を買って、行きはリフトで、帰りはロープウエーにした。観光地はどこに行っても、入口で検温と手の消毒、それだけでなく電話番号と氏名を書かせ、何時何分にと時間も書かせられる。集団感染があったりすれば、それで追跡ができる。徹底しているのだ。四国で一番感染者が多いのが愛媛県だが、それでも100人から何十人も増えていないだろう。地方都市のコロナに対する対策も、こうした観光地を見れば参考になる。城も復元されたものだが、石垣と門はそのまま文化財になっている。その広さと大きさに驚く。若いカップルばかりなのが気になる。妬ける。邪魔をしたくなる。観光案内と職員さんの女性たちは、ぼっちゃんのマドンナの恰好をしていて、絣は柄だけのプリントだろうか、その着物に袴スタイルで、髪もポニーテールにしている昔の女学生の制服なのだ。うちの姉も大学卒業のときには着て写真を撮った。明治から戦前のスタイルなのだが、どうしてかときめく。見ていて、とてもいい。どうしてだろうか。わたしの若いときにもそういう人はいなかった。先生たちが卒業式には着ていたが、それに憧れる年になったのか。観光案内の女性が、帰りぎわに「だんだん」と言った。それは伊予弁で、ありがとうということのようだ。それも気に入る。しばらくだんだんと言って歩いた。

 昼飯は黒紅蕎麦とかいう変わったつけ麺にした。ここでないと食べられないものにしようと、かといって郷土料理も観光客相手の店にはどうも入りたくない。隣の席で主婦だろうか、昼から生ビールを飲んでいた。どういう人かとちらちらと見る。

 下に降りると、坂の上の雲ミュージアムがあつた。それは別に見たいとは思わない。日露戦争の博物館みたいなものだろう。司馬遼太郎の本はだいぶ読んだが、のめりこむほどではない。新潟のお菓子屋の社長さんが、親しくさせてもらったが、学生時代のわたしがどんな本がいいかと聞いたら、坂の上の雲はいいと推薦してくれたので、全6巻を買って読んだ。確かに夢中で最後まで読んだ覚えがある。社長さんたちというのは戦記ものや時代小説が好きなのだ。

 そのミュージアムの隣にある萬翠荘はフランスのオペラ座を模した洋館で、ゆっくりと拝観する。大正時代に造られた、昭和天皇も若いときから立ち寄ったと写真にあり、映画のロケにも使われたと、写真が展示されていた。

 電車通りに出たら、信号で止まっているみかん色の路面電車がいたので、飛び乗った。行き先が道後温泉とある。乗客はわたしの他に一人だけ。街に人が少ないのは、観光客が少ないのだ。Go toはどうした。失敗したと報じていたが、ニュースでは東京も入れてやろうと、外すのをやめるようだ。これでは観光地は死んでしまう。