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偶像を追い求めて

偶像崇拝。
この言葉を聞くと宗教的意味を強く感じる。

大学で宗教学という講義を受講していた。
その講義で教授が偶像崇拝について興味深い内容を話していた事を思い出した。それは、現代日本人のほとんどが偶像崇拝を行なっているという内容であった。神仏を具象する物として作られた像ではなく、芸能人やアイドルを崇拝しているという事のようだ。芸能人やアイドルは神仏とは違い実在する対象ではあるが写真や映像などが多くあり、そのような物が偶像と言えるだろう。

芸能人やアイドルを推して写真などを大切に所有し「推しが尊い。」と発言している若者がいる事を考えると教授が話していた内容にも納得がいく。若者は宗教的な物とは無縁になってきているが、それぞれ崇拝する対象があるように感じる。

そんな事を考えていた時、自分は何を崇拝しているのだろうと思った。熱烈的に好きな芸能人もいないし、推しているアイドルもいない。では何だろう。出た答えは亡くなった父であった。僕の場合、身近ではあるが実在しない対象である事から少し神仏に近いかもしれない。

実父は幼い頃に離婚している為、思い出は殆どない。離婚した後は名前も知らない程で気になってはいたが会う事は無かった。しかし、再会する日は突然やってきた。高校1年生の時、末期癌で入院している旨の通知が届いた。このようなカタチで再会するのは何とも言えない気分ではあったが命あるうちに再会する事ができたのは今考えると良かった。

再会はしたものの実父との思い出が殆ど無かった為、初対面のような状態であった。実父は、そんな僕に優しく接してくれた。再会して数ヶ月で亡くなってしまった。数ヶ月ではあったが親子として時間を過ごし、その数ヶ月が実父との大切な思い出になった。

実父は形見としてフィルムカメラと1000枚程のレコードを残してくれた。これが僕にとっての偶像のように思える。

出掛ける時はフィルムカメラを持ち歩いている。古い物なので状態も良いとは言えないし、大きいので重い。このカメラで写真を撮ると、父はレンズ越しにどのような景色を撮っていたのだろうと考える。父との思い出も一緒に過ごした時間も殆どないが、この1つのカメラを通して父の見た景色と僕が見る景色を重ね合わせていきたい。
まるで多重露光したfilmのように。

誰もが無意識に偶像崇拝を行なっている。それが神仏でなくても対象が何であっても崇拝している偶像のお陰で日々を生きれているのかもしれない。

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#エッセイ

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