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「ぼっち・ざ・ろっく」考 【映画ネタバレ有〼】

1 はじめに

「ぼっち・ざ・ろっく」(以下「ぼざろ」)の映画を観た。前編は有給を取って公開初日に、後編も有給を取って公開初日に視聴してみた。
激混みの映画館に想像以上のカップル率など諸々の感想は一旦置いておいて、今回のNoteではただひたすらに映像に対する感想を記していく。元々サッカー用に作成したアカウントだが、こうしたネタバレを含む長文の感想をツイートするのは非常に難しいので、こちらで吐き出していく。

2 感想(ネタバレ有〼)

ここからは沢山ネタバレがあるので、未視聴の方は今すぐブラウザバック!

まず、映画の前編/後編共に最高だった。
総集編だけど総集編以上の美しさがあったし、散りばめられた新規シーンはどれもアニメを補強するだけではなく、膨らます役割を担っていた。とにかく最高の映画だった。

で、である。大事なのはここからである。
ぼざろとは一体どういう作品で、今後どうなっていくのかという点である。もちろん原作は進んでいくし、それが最大の正解である。でも、1人のオタクとしては語りたいのである。クソみたいな持論でも、間違いだらけの暴論でも、とりあえず語っていきたいのである。

この話を始めるにあたり、僕にぼざろを教えてくれた親友Aの言葉を借りよう。
きらら全般が好きで、邦ロックも洋ロックも深く愛しているA君は、ぼざろのアニメ化のずっと前に「この作品はアニメ化したら覇権を取るだろうけど、アニメ化したらそこで終わりかもしれない」と言い続けていた。だからアニメ化される前に漫画を読んでおいた方がいいと薦めてくれ、僕は見事沼に入った。

案の定ぼざろはアニメ化され、瞬く間に覇権アニメとなった。2022年10月に放送開始され、2年後に総集編が放送されてこれほどの話題となった。だが、一向に続編の情報はなく、今回の映画でも続編の情報は出てこなかった。落胆もあっただろうが、個人的にはA君の言葉を思い出して「そうだよね」という、ある種の納得感があったのも確かだ。

なぜ、納得できるのか。
簡単な話だ、ぼざろの曲は圧倒的にクオリティが高いからだ。加えて、喜多ちゃんの歌が上手すぎるからだ。
もちろん主人公のいるバンドだし、アニメから円盤化も狙っていただろう制作側としては、できる限り最高の曲を作る必要があった。だから、例えば僕が愛してやまない「忘れてやらない」のような神曲が生み出された。しかも、そこの歌詞と曲の雰囲気は何となくボッチちゃんとりょうさんっぽさが含まれている。
でも、結成して1年も経っていない。異常すぎる才能ではないか、という疑問も生まれる。あのクオリティを、駆け出しの高校生バンドが作れるとは考えられない。
加えて喜多ちゃんの歌声。彼女も「ただのカラオケが上手いJK」ではないのか。異常に上手くないか、という疑念が生まれる気がする。

そして、これを肯定したとしても、もうひとつ気になることがある。この後のストーリーとどう整合性をとるのか。
SIDEROSという、結束バンドを上回る才能がこの後のストーリーで現れる。どれほどのクオリティで曲を作るのか、スーパーなボーカルであるヨヨコの歌声はどう再現するのか。

アニメ1期作成にかなりの年月がかかっていると言われている。「5年」という説は嘘だろうが(漫画初出が2018年)、相当時間をかけているのは事実だと思われる。
再びぼっちちゃん達の曲を作り、それ以上のクオリティのSIDEROSの曲を作り、ヨヨコの役をこなせるスーパーな声優さんを探す。

2期なんてできるのか。そんな時間をかけられるのか。そんなことを思ってしまうのが正直なところだ。

という訳で、まずは「そもそもこの先のアニメ化はできないのでは?」という話。次は、ぼざろという作品自体の話だ。

この作品は、当たり前だがぼっちちゃんの物語だ。ぼっちちゃんのロックを描く作品だ。もちろん結束バンドのみんなやその他愉快な仲間たちもいる訳だが、主役であり最もスポットライトを浴びるのはぼっちちゃんである。

原作を読んでいる人は知っているだろうが、今後結束バンドが戦っていく舞台はぼっちちゃんでも「ギリギリ戦える」レベルの世界だ。喜多ちゃんの歌声もりょうさんのベースも虹夏ちゃんのドラムも、ぼっちちゃんの隣に相応しいとは言い切れない状況になっていく。まだまだ分からないが、ぼっちちゃんは確実に「再ぼっち化」に足を踏み入れている。

この結果をどう捉えるか。まだぼっちになっていないぼっちちゃんだが、かつてぼっちだったぼっちちゃんが、ぼっちだからこそ手に入れた才覚のおかげで手に入れた「ぼっちじゃない」空間を、その才覚で崩壊させてしまう危険性がある。そう捉えることもできるだろう。

ここで、映画後編のラストシーンを思い出してほしい。1人で電車に揺られながら巻き戻された景色の締めくくりは、先生が差し出した手に自らの手を重ねたぼっちちゃんが、「輪」から去っていく姿だ。

これは映画全体で見たら、ぼっちちゃんがぼっちな昔からぼっちじゃない今を掴み取った中で、その成功を際立たせる仕掛けとも思える。新曲「ドッペルゲンガー」では昔の姿に戻ることを怯えながらも笑おうというポジティブな感情が描かれているし、映画タイトルとなった「Re:Re:」も過去の自分を受け入れる姿が描かれている。
でも、ラストシーン、やけにネガティブ過ぎないか?

このネガティブな姿を「受け入れる」という話なのかもしれない。こんな過去を持っていても、今全力で全く異なる未来を「勝ち取った」という話なのかもしれない。
でも、このシーンを観たとき、個人的には「これは未来の話かもしれない」と思った。自分がぼっちだったからこそ手に入れた才能で築いた環境を、その才能で壊してしまうという、ある意味狂気的な「自業自得」があるのかもしれないと思ってしまった。

この映画は、前編でぼっちちゃんが虹夏ちゃんを救い、後編でぼっちちゃんが喜多ちゃんを救っている。本当はりょうさんを救う映画があればバランスがいいのだが、そこは恐らく原作が始まる前に起きた出来事だ。映画特典で配布されたミニブックの中にあった通り、彼女は虹夏ちゃんに救われており、恐らくぼっちちゃんを救う側として作品では描かれている気がする。

何を言いたいかというと、ぼっちちゃんは自分がいる環境で周りの人を救いつつ、ぼっちちゃん自身はそのことに気付かないまま、自分に目を向けているという事実だ。ぼっちちゃんは自分が救われた事実には気付いても、自分が救った事実を知らない。

ぼっちちゃんは、本質的に「ぼっち」なんだ。
誰にどう思われようと、「ぼっち」なんだ。
だからこそ、自分の才能の大きさにも、その才能を支えるほどの器に結束バンドがなり切れていないことも、気付けないんだ。そんな「ぼっち」さが、いつかぼっちちゃんをもう一度「あの過去」へ連れていってしまうのではないだろうか。

つまるところ、ぼっちちゃんはいつかもう一度「ぼっち」になるのではないか。そんな未来を見せたラストシーンだったし、映画全体からもそんな雰囲気を感じた。

3 最後に

結束バンドの曲で、僕が一番好きなのは「忘れてやらない」だ。その中でも一番好きなのはラスサビの一節、以下に抜粋する。

いつもの鐘の音も 窓際に積んだ埃も
教室の匂いだって
絶対忘れてやらないよ
いつか死ぬまで何回だって
こんなこともあったって 笑ってやんのさ

ぼっちちゃんは、本当に嫌だったはずの学校生活のことを、「絶対忘れてやらない」と高らかに叫ぶ。そこにあったのは、もちろん嫌で嫌でたまらない時間だったかもしれないし、それでもロックンローラーとして、ギタリストとして、作詞者として、自分の楽しいを発散できた時間かもしれない。

でも、その時間もいつかは終わる。
ぼっちちゃんは、そんなぐちゃぐちゃで矛盾した思い出を、「高校生活」という名前でカプセルに包み込み、忘れない思い出にしようとしてるのではないだろうか。
もちろんこの曲ができた際にはSIDEROSに負けていない。それでも、そんな終わり方を企図している気がしてならない。

ぼっちちゃんの未来がどうなるか。結束バンドの未来がどうなるか。原作が答えだ。
楽しみだ!!!!!

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