20230121

最近は大学の課題図書である、小倉芳彦『古代中国を読む』を読んでいる。レポート用のメモがてら、感想をつらつらと書いてみようと思う。

著者の小倉芳彦先生は1927年生まれで、専門は「中国古代史」。彼がどのような遍歴を辿り、どんな漢文と向き合ってきたのかの一端をこの書から覗くことが出来る…と書籍紹介であればこう書かれるだろう。尤も、私にこの本の書評などという大それたことは出来ないため、自分に引き寄せて感想を書くほかは無い。

第一章の「訓読慢語」では、氏が「東洋史」という概念―「東アジア史」と書いた方が適切な気もするが―を漢文の上に捉えていたと語る。実際の事物を掘り起こすことへのはにかみがあるそうだが、私はその逆の立場を取りたい。私が主に興味を持っているものは戦後期マレー・シンガポールの華僑の生活だが、その在り方を、文学を通して少しでも観察できれば良いと考えている。もちろん、マレー語、普通話、どちらも実用的な会話スキルを持ち合わせていないため、フィールドワークだなんだは夢のまた夢と言ったところではある。しかし、文学という「記録」から生活を掘り起こそうというある種露悪的な趣向を持ち合わせている人間からすれば、文字を繋ぎ合わせて思想を再構築し、そこから何かを再現するというのがどうにもまどろっこしく見えた。

しかし、振り返ってみれば私の大学での学習は文字の上にのみ構成されており、漢詩の一つをとってもじっくりと腰を据えて読んでみたことがないし、興味のある分野についても資料を手に取ったことも無い。偉そうに「文学」を振り回して粋がっているだけの人間に過ぎないのだろうと自省してみたりする。

もう少し読み進めてみると、氏が中国古代史に触れることになったいきさつが記されている。曰く、旧制のころの武蔵中学での漢文の授業が切欠で史書に触れたとのことだが、その少年期の興味に引かれて東洋史学科に入学したらしい。小倉青年にもしかすると深い理由があったのかもしれないが、本書から読み取れるのは以上である。
なるほど「なんとなく」の興味に引かれてこの道に進んだのかと妙な親近感を覚える。私自身、深い理由があって中国文学を専攻しているわけでは無く、入学前に「役立ちそうだから」という理由で二外に中国語を選択し、専攻選びでも教育心理学をやるつもりだったのがなんやかんやでこの専攻になってしまったという有様だからである。
それでも少なからず中学生の頃から漢文の格調のようなものに親しみを持っていたし、どうにかなるだろうと思っていたフシはあった。

残念ながら、漢文はただ字面を追い、「マナビテトキニ…」などと詠唱すれば良いものではないと気づかされるのは2年の11月ごろのことであった。
…手遅れでは?

私と程度は違えど、同様の経験が記されている。
「漢中」はどこだ、と演習の授業で指摘されたと書いてあったが、私も演習の授業で同じく、字の持つ表層的な意味、例えば「買」という一字にしたって、金銭を以て物の代金を贖い、入手するという意味で捉えてしまえば全く見当ちがいな解釈になってしまう。このようなことはままあり、更にそこから踏み込んで地名、人名などの固有名詞からその題の場を考察し、行動の一つ一つから人物たちの意図、思想、そして作者がその物語を借りて何を伝えようとしているのか、そこまで検討して初めて漢文を「読む」こととなるらしい。

私は乱読を幼いころから旨とし、読書経験は人一倍あると自負していたが、これは言葉を解釈出来ていなかった、ざっくり言えば想像できていなかったことと同義である。
単純に感性に乏しいだけと言われればそれまでだが、文一つずつを精密に読み、解釈を作ろうと作者と対話することが必要なのかもしれない。…時には疑問という名の喧嘩を吹っかけているのかもしれないが。

さて、2000字のレポート用の感想なので、メモはこれくらいに留めようと思う。どうなることやら。

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