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ごろつき

 鮭。酒。
 焼鮭を肴に酒はOne Cup OZEKI Jumbo300。身を総て食べ終わって残った、ぱりぱりに焼けた皮を大事に舐りながら私は、すいっ、すいっ。ipadを操作してtweetを眺めていた。
 相変わらず悪いニュースばかりが目に入ってくる。
 豪州では先日来の大規模な森林火災の復興も儘ならないまま、今度は深刻な豪雨災害に見舞われているらしい。
 豪州には昔馴染みの友人が住んでいる。
 私はiホーンを弄り、豪州の友人に安否確認のiMessageを送信した。
 それから新たにOne Cup OZEKI Jumbo300の蓋を開ける。
 肴はだうしようか。焼鮭の皮は食べ尽くしてしまった。確か冷蔵庫に烏賊と納豆があった筈。紫蘇を加えて白醤油で和えて烏賊納豆にしよう。One Cup OZEKI Jumbo300の空き瓶を持って台所に行こうとしたタイミングで、
 ううううううううっ。
 卓上のiホーンが律動した。
 台所でささっと誂えた烏賊納豆を持って、スプリングの壊れた一人掛けのソファーに腰を下ろした私は、卓上のiホーンを手に取った。
 iMessageが一件届いていた。
 豪州に住む友人からかと一瞬期待したが、宛名は甕乙からであった。
 仕事です。三十分後に迎えに行きます。
 ちゃ。私は舌打ちをした。
 今日はこれから先日購入したニューエイジのレコードを堪能しようと思っていたのに。
 私は烏賊納豆を食い食いOne Cup OZEKI Jumbo300をやりながら、仕事の準備をした。
 準備と謂っても大したことはない。財布を尻ポケットに入れて、煙草、ライター、手巾を上着に捻じ込んで、商売道具の峨嵋刺を懐に忍ばせる。ザッツオール。
 後は甕乙の迎えを待つだけだ。
 烏賊納豆を片付けながら再びiPadでtweetを見る。
 見る。ミル貝。
 そんな連想が思考を過って、ミル貝、確かそんな貝があったようなと思い、Twitterアプリを閉じてGoogleアプリを開き、ミル貝、と検索。すると、ミルか、と入力したところで予測検索ワードに、ミル貝、と出てきたのでtap、検索結果が表示されて先ず目を惹いたのは、みるがい、とばかり読むものだと思っていたが、みるくい、と読むらしい。更にWikipediaで詳しく調べてみると、殻長十五糎程の小さな二枚貝で、殻表は暗褐色の殻皮で覆われ、体の後ろにある水管が大きく発達しているのが特徴。と字面で読んでもどんな姿形か分からないので、画像検索に掛けた。検索して、笑った。ミル貝の形状が人間の陰茎にくりそつだったからである。すいっ、すいっ、私は画面をスクロールさせて様々なミル貝の画像を見る。すると、
 ううううううううっ。
 再び卓上のiホーンが律動して、ディスプレイを見ると甕乙からであった。
 下に着きました。
 iPadを閉じて、台所に行って食し終わった烏賊納豆の器に水を張り、室内で育てている蕺の葉に触れ、アイスブルー、と心の中で唱えて、私は部屋を出た。

「IH、って知ってます?」
 後部座席で瞑想をしていた私に、運転席から話題を振ってくる甕乙。
「IH? 炊飯ジャーのことかい?」
「炊飯ジャーじゃないっす。インテグレイテッド・ヒーリング、の略っす」
「ほう、インテグレイテッド・ヒーリング」
「はい。キネシオロジーっていう筋反射テストを使ったヒーリングメソッドで、筋肉反射の反応をみることで、潜在意識にアクセスして、問題の奥底に潜む本当の原因と解決法を見つけ出して、調整を行うんす。自分この前セラピー受けて、もうすっげえ調整されたんすよ」
「そうか。君も熱心だな。先達ても他のセミナーを受講していたじゃないか」
「前世療法すか。続けてますよ。いまは色んなものを実践して試行錯誤、って感じっす。どうすか? 次回のIHのセミナー、まだ空きありますよ」
「いや、今回は止しておこう」
「そうすか」
 ちーん。其れ切り会話は途絶えて、私は車窓から外の景色を眺めた。
 五輪反対。五輪は路上生活者を追い出すな。そのような文言の書かれた立て看板が都市の彼方此方に乱立している。
 私も純粋なスポーツの祭典から単なる商業主義に堕した五輪に異を唱える者である。
 なんなら然るべき団体に小口だが寄付もしている。
 それら一切を無視するかのように、車窓の外で行われている無用な再開発。
 総て「問題」は100%自分の責任である。
 私はハワイの問題解決法、ホ・オポノポノの教えに倣い、心内で四つの言葉を唱えた。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 あり、
「着きました」
 甕乙の言葉に遮られ、一旦クリーニングを中断した私は、ミニバンのドアーを開けて車外に出た。
 ぶわっ。
 車外に出た途端、一斉に全身から噴き出す汗。
 太陽が暴君のやうに天に鎮座ましまして。

「えいっ」
「ぎゃん」
 峨嵋刺を刺されて目の潰れた上半身は人間の体、下半身は馬の半人半馬は、目がー、目がー、と喚きながら両手で顔を覆って、その場をくるくる回転している。
 回転。甲斐店。山梨県甲斐市にそのような支店があるのだろうか。
 そのようなことは一切考えずに、私は回転する半人半馬の四肢を、ぶすっ、ぶすっ、ぶすっ、ぶすっ、正確に峨嵋刺で貫いた。
 ううっ。かっくん。
 その場に蹲り、ニョクマムのふりかけのようになった半人半馬。
 甕乙はニョクマムのふりかけに向かって追込みをかける。
「知っていること、総て話して下さい。さもなければ、先生」
「うっす」
私は半人半馬の顳顬に峨嵋刺を当てた。
「一寸、一寸待って。ほんたうに何も知らねえんだよ」
「先生、お願いします」
「うっす」
 ぶすぶすぶす。私は半人半馬の顳顬に六糎、峨嵋刺を突き刺した。
「はんっ。みちみちみち、みち、こ」
「こりゃあだみだ。余っ程口が堅いか、ほんたうに何も知らないかのどちらかだ」
「恐らく後者でしょう。外れですね。次、行きましょう」
「うっす」
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ハワイの問題解決法、ホ・オポノポノの四つのクリーニングの言葉を心内で唱えながら、ずぽっ。半人半馬の顳顬から峨嵋刺を抜き、手早く手巾で血を拭って、私は甕乙の後に付いて行った。

 らむらむらむらむらむらむらむ、らむらむらむらむらむらむらむ。
 店主の好みなのだろう、小汚い寿司屋の店内にNYの生ける伝説Laraajiの『Deep Listening Session』が爆音で流れていて、喧しくて気が違いそうだ。
 なめろう。
 鰺、秋刀魚、鯖、鰯、飛魚など青魚の三枚下ろしを捌いた上に味付けの味噌、日本酒と葱、紫蘇、生姜、茗荷などを乗せ、そのまままな板の上などで、包丁を使って粘り気が出るまで細かく叩いた料理。
 これが清酒に合う。
 文字通り舐めながらコップに入った清酒をやる一方、どうして寿司屋でそんなものが出てくるのか、カウンター席に並んで座った甕乙は、サーターアンダギーをむしゃむしゃと食っていた。
 確かに表の看板には、寿司、の他に、一品料理、と掲げてあったのだが。恐るべき寿司屋である。
 んーふっふっふっふっ、ふっふっふっふっふっふっふっふっ。
 笑うLaraaji。
 私はむしゃむしゃとサーターアンダギーを瓶の麦酒で流し込む甕乙にたんねてみた。
「君」
「はひ?」
「最前から熱心にサーターアンダギーを食っているようだが」
「はあ」
「果たして酒に合うのかい?」
「むしゃむしゃ、割といけまふよ。どうでふ、ひとつ?」
「いや、いい。ひそひそ、しかし妙だね。寿司屋でサーターアンダギーが出てくるなんて。注文する君も君だが」
「ほうふか?」
「ひそひそ、そうだよ」
「ぐびっ、ぐびっ、ぐびっ、ぐび、ごっくん。大将、今日の肉料理は何だい?」
 ぎょ。驚く私とは対照的に、禿げあがった頭の図体の大きい大将は、にこにこと愛想笑いを浮かべながら澱みのない口調で答えた。
「本日の肉料理は鴨肉のコンフィでございます」
「では、それと合う赤ワインを見繕って持ってきて呉れ給え」
「へい」
 そう言って大将は厨房に引っ込んで行った。
 店内のBGMがいつの間にかLaraajiからススム・ヨコタに変わっていた。

「ここですね」
「ここですか」
「では先生、よろしくお願いします」
「え? 私が先に行くの?」
「はい。お願いします」
「いや、甕乙君、君が先に行き給え」
「いえいえいえいえ、私奴のやうな輩が先生の前を歩くなんて、恐れ多くてとてもじゃあありませんが出来ません」
「ちょっと待て。君、先まで私の前、平気で歩いてたぢゃないか」
「しーん」
「しーん、じゃねえよ。行けっつの」
「手前が行けよ、先生」
「あ、手前、って言ったな。いや、確かに聞いた。甕乙君、私は君の本性を見た気がしたよ」
「うるせえ爺だな。つべこべ言わず早く行けよ」
「あ?」
「あ?」
「あ?」
「あ?」
「あ?」
「あ?」
「あ?」
「あ?」
 小汚い寿司屋で払いを済ませ、目ぼしいと思われる韓国料理店の前で揉めていると、がちゃ、上半身は岩本力、そして下半身は佐目毛の半人半馬が扉を開けて店から出てきた。
「あっ、こいつです。こいつが榮グローリーです」
「やべ」
 我々に見つかるや否や榮グローリーは、だっ、四本の足で一息に加速した。
 私はすかさず峨嵋刺を放ったが、すい、すい、すい、すい、総て巧みに躱されてしまった。
 あっという間に見えなくなってしまった榮グローリー。
 それとは裏腹に、言い寄ってくる甕乙。
「ちょっとー、何逃がしてるんですかー」
「済まない。けれども君も君だよ。店の前でもたもたしてるから」
「はあ? 僕の所為だって言いたいんですか? マジかよ」
「いや、君の所為とは言ってない」
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 憤る甕乙を宥め乍ら、私はいま目の前で起きている出来事、記憶の再生をクリーニングすべく、心内で四つのクリーニングツールを唱え続けた。
「とにかく後を追いますよ。ほら、早く」
 ヘニー・ヤングマンの名言でこんなジョークがある。
 ある男が医者に言った。“先生、こうすると痛いんです”。
 医者は、“だったらやるな”。

「わかった、わかったから、それ下ろして」
 榮グローリーの後を追った私と甕乙は途中、半グレの半人半馬を見つけ、ぶすっ、ぶすっ、ぶすっ、ぶすっ、例によって四肢の腱を切り、峨嵋刺を顳顬に当てていた。
 私は甕乙の方をちらりと見た。
 甕乙は首を左右に振った。
 それで私は峨嵋刺を顳顬に当てた儘にした。
その上で甕乙は半グレに尋問をかけた。
「榮グローリーは何処へ行きましたか?」
「た、多分、方南町の、叛、て謂うゲストハウスに行ったと思う。あの人、そこを定宿としてるから」
「ありがとう。先生」
「へい」
 ぶすぶすぶす。顳顬に峨嵋刺を突き刺して、半グレは絶命した。
 一部始終を見ていた周囲の人間が騒ぎ始めた。
「甕乙君」
「行きましょう」
 すい、すい、すい。私と甕乙は集まってきた群衆の隙間を縫うように、方南町の方角へ走り去って行った。

 小さな商店街の中途に雑居ビルがあり、表に、叛、guesthouse、↑2F、と手書きで書かれた看板が路上に設置されていた。
 甕乙を先頭に入口の階段を上り、すたすたすた、十米程進むと、叛、と大きくペイントされた扉に突き当たった。
 甕乙は私と目配せをして、がちゃ、扉を開けた。
 入って直ぐに受付のやうなものがあり、続いて二十畳程の共有スペースがあり、一人の紅毛人がソファーに座ってMac book airを操作していた。
 受付には人は居らず、甕乙と私は立ち往生してしまった。
「ひそひそ、甕乙君、君、外国語は話せるかい?」
「ひそひそ、いえ、全く。先生は?」
「ひそひそ、私が話せる訳がないぢゃないか」
「ご宿泊ですか?」
 ひんっ。ソファーでMac book airを操作していた紅毛人が何時の間にか間に入ってきて、流暢な日本語でたんねてきた。
 それに対し、甕乙が対応した。
「いや、宿泊ではないのです。付かぬ事をお伺いしますが、先頃、榮グローリーという半人半馬がここに来ませんでしたでしょうか?」
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 甕乙と紅毛人が話している間中、私は心内でクリーニングを続けていた。
「ああ、グローリーさんですか。いらっしゃいましたよ。けれども戻ってくるなり急いで何処かへお出でになられました」
「そうでしたか。行き先に心当たりはありませんか?」
「さあ。今頃パレスチナ戦線にでも参加しているのではないでせうか。あっはっは」
 全く笑えなかった。
 けれども笑わないと場の空気が悪くなるので、私は無理に笑った。
 ぽん。
 何者かに尻子玉を抜かれたやうな気がした。
 身体に力が入らない。吻っ、私は何糞の精神で踏ん張った。
 甕乙はレシートの裏に、すらすらすら、数字の羅列を書いて、
「これ、私の携帯の番号です。榮グローリーが来たら知らせて貰えませんか?」
「分かりました。屹度お知らせします」
「お願いします。先生、何凝縮してんすか? 行きますよ。それではひつれをば致します」
 がちゃ、甕乙が扉を開いて私は後に付いて表に出た。
 表に出ると、驟雨が降っていた。
 甕乙はiホーンを弄り、
「先生、これから雷雨になるそうです。コンビニで傘、購っておきましょう」
 と言った。言ったような気がする。言わなかったかも。いや、確かに言った。
 そんなことを思ったり思わなかったり思ったりしながら、全身を驟雨に濡らして、私は粕汁のやうに路上に屹立していた。

 粕汁。
 酒粕を加えて煮込んだ日本の汁物料理。
 出汁に酒粕を溶かし味噌や醤油などで味を調える。具材には鮭や鰤などのあら、豚肉、人参、大根、牛蒡などの根菜類、蒟蒻、油揚げ、椎茸、葱などがよく使われる。
 ゲストハウスから出た時に降っていた驟雨は予報通り雷雨に変わり、そしてその後、豪雨になった。
「あちゃー、これじゃどんならんすね。一旦僕ん家に避難しましょう。あ、その前に一本電話いいっすか?」
 唯でさえ心許無かった甕乙の前髪が、雨に濡れて益々心許無いことになっている。
 甕乙は電話をかけながら左手でタキシイを拾い、二人乗り込んで運転手にごにょごにょと行き先を告げてタキシイは出発した。
 私は禿げ散らかった甕乙の前髪を極力見ないようにした。
「がちゃ。いやー、すいません。報連相ってうるさくて」
 前髪を掻き上げながら甕乙はへらっと笑った。
 前髪を掻き上げたら禿が愈々酷いことになった。
 気を逸らす為に私は車窓から外の景色を見た。
 まるで滝の中を進んでいるやうで、何も見えやしない。
 後部座席から乗り出してフロントガラスを見ても同様で、私は運転手が果たして前を見えているのかはらはらして思わずひつもんした。
「君、この豪雨で前が見えないやうだが、運転に支障は無いのかい?」
「平気っす。さっき二、三人轢きましけど。ひっひっひっ」
 ひいっ。私はおとろしくなって、それ以上ひつもんするのを止した。
 甕乙はまた一本電話を掛けている。
 タキシイ、滝の中を更に速度を上げて。

「いやー、生き返りました。如何です、先生も?」
 風呂から上がり、ドライヤーで念入りに髪の毛を乾かして前髪をふっくらとさせて戻ってきた甕乙を見て一先ず安堵した私は、
「風呂は嫌いだ」
 甕乙の親切を突っ撥ねて、簡易コンロに乗った小鍋の中の海老のアヒージョを肴に大分過ごしていた。
 酒はそふと新光。
 卓上のradioが各地で緊急災害宣言が発令されたと伝えている。
 甕乙の家、廃ビルの三階のワンフロアを占拠した窓から外を見ると、辺り一帯冠水している。
「よろしければこちらもどうぞ」
 台所でかちゃかちゃ何かやっていたと思ったら、〆鯖を持ってきてくれた。
「ほう、これは脂が乗っているね」
「はい。八戸産です」
「八戸か。どうれ、頂こう。むしゃむしゃ、むしゃむしゃ、うーん、蕩けるー」
「くわつはつはつ」
「むしゃむしゃ、むしゃむしゃ、くいっ、くいっ、huh、良い心地だ」
「結構でございます」
「時に甕乙君、これからのscheduleはだうなっているのかい?」
「はい。先ず僕は一旦事務所の方に戻ります。事務所も冠水しているやうなので。先生に置かれましては、申し訳ありませんが暫くこちらで待機していて下さい。一週間分の食糧と酒類は備蓄しております故」
「相分かった。君も大変だな」
「いえいえ。ぢゃ、僕は出掛けますので、火の元だけは十分注意して下さい」

 うううううううううううう、うううううううううううう。
 卓上でiホーンが律動している。ディスプレイを見ると、甕乙からの着信であった。
 しかしながら私はいま丸美屋の麻婆豆腐の素、大辛、を調理して、まさに食さんとしているところであった。
 冷めた麻婆豆腐は不味い。
 経験則としてそのことを知っている私は、甕乙には悪いが着信を見なかったことにして、出来立ての麻婆豆腐に手を付けた。
 旨い。
 大辛、と言うだけのことはあって、添付の花椒が辛味を引き立たせている。市販されている麻婆豆腐の素のなかでは調理の簡便さ、味、どちらをとっても丸美屋の麻婆豆腐の素が最たるものではないかと私などは愚考する。
 これにそふと新光が合う。
 ぱくぱく、ぱくぱく。くいっ、くいっ。あ、と言う間に二、三人前を完食してしまった。あ、と言う心算など元々無かったのだが。
 さあ、腹も膨れて酔いも廻ってきたら、瞼が重くなる。
 うううううううううううう。
 再びiホーンが律動し、ディスプレイを見ると、甕乙からのiMessageであった。
 紅毛人から連絡ありました。榮グローリー、いるそう。
 そう文章の中途までディスプレイに表示されて、iMessageを開くと全文が読めるようになっている。
 しかしながら甕乙には申し訳ないが、いま私は大変に眠たい。 
 なので甕乙からのiMessageは鹿斗、折り畳み式ソファベッドを倒して毛布を被り、身体を沈めて静かに瞼を閉じた。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。
 ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。

「冷たっ」
 と発語して目を覚まし、起き上がって辺りを見渡すと、廃ビルの三階の甕乙の部屋も冠水していた。
 天井を見やると、至る所から雨漏りしている。
 だうやら私の眠っている頭上からも雨漏りしていて、落ちてきた水の滴が顔にかかったようである。
 こりゃどんならん。
 ばしゃ、ばしゃ、ばしゃ、ばしゃ、うわっ、気色悪っ、私はiホーンを持って甕乙の家からの脱出を試みたが、窓より外を見ると、外は先頃の倍以上に冠水しており、とてもじゃないが外に出られない。
 かと言って甕乙の家も冠水している。
 私はiホーンを弄り、甕乙からのiMessageを開いた。
 紅毛人から連絡ありました。榮グローリー、いるそうです。出動可能でしたら至急連絡下さい。
 右記のiMessageの他に、甕乙からのFacetimeオーディオの着信が一件残っていた。
 雨漏りの滝を避けて、私は甕乙にFacetimeオーディオをかけた。
 うううううううううううう、うううううううううううう。うううううううううううう、うううううううううううう。うううううううううううう、うううううううううううう。うううううううううううう、うううううううううううう。うううううううううううう、うううううううううううう。うううううううううううう、うううううううううううう。
 繋がらない。
 私は再度甕乙にFacetimeオーディオを試みた。
 うううううううううううう、うううううううううううう。うううううううううううう、うううううううううううう。うううううううううううう、うううううううううううう。うううううううううううう、うううううううううううう。うううううううううううう、うううううううううううう。うううううううううううう、うううううううううううう。
 矢張り繋がらない。
 だうしたんだろう。まさか一人で榮グローリーの元に行ったのか。それとも事務所の冠水で電話を取れる状況にないのか。
 兎角いまは自分の身を守ることが先決だ。
 と言ってだうしよう?
 甕乙の家は五階建てビルの三階。屋上に行けば冠水は逃れられるだろうが、風雨に晒される。
 外に避難することはまず考えられない。ではこのまま甕乙の家で待機するか。しかし雨漏りは益々勢いを増し、見る見るうちに水位が上昇している。このままだと天井まで到達するのも時間の問題であろう。
 だうする? だうする?
 私は独り煩悶しながら、頭から雨漏りに打たれて滝行のやうなことになっていた。

 ばっしゃーん、ぶくぶく、ぶくぶく、
「ぶはっ。げえええっ、ごほっ、ごほっ、ごほっ」
 甕乙の家の冠水が胸まで達した時点で、こりゃあだみだ、そう判断した私は潜水、水圧でびくともしない玄関からの脱出は諦め、開いていた窓から濁流の中に身を投げた。
 ばたばた、ばたばた。
 足が地に届かない。
 私は両手両足を必死に動かして、なんとか沈むまいとしていた。
 しかしながら、顔だけ出した状態で風雨に晒されて、視界が全く判然としない。
 最早時間の問題か。
 そう諦めかけていたとき、
 ぽーん。浮き袋が一点投げ込まれて、私は必死に其れにしがみついた。
 浮き袋には紐が繋がれており、回収出来るようになっているらしい。
 私は浮き袋に身を任せて揺曳していると、びーん、浮き袋の紐が引っ張られてぐいぐいと進んでゆき、やがて見えてきた一艇のクルーザー船に引き揚げられた。
「ごほっ、ごほっ、げえええええええっ」
「先生、ご無事でしたか」
 聞き慣れた声。だうやら私を引き揚げてくれたのは甕乙のやうだった。
「ごほっ、ごほっ、甕乙君か。た、助かった、死ぬかと思った」
「来るのが遅くなってしまい申し訳ございません。ささ、早く中に入って暖を取って下さい」

 清潔な襯衣に、柔らかなブランケット。
 キャビンの室温は空調システムにより一定に管理されており、概ね快適で過ごしやすい。
 私はいくらの醤油漬けを何粒か抓んで口内に放り込み、拡がる塩気をたっぷりと堪能してから、ズプロッカでゆっくりと洗い流した。
 暫くすると、操舵室から甕乙がキャビンに戻ってきた。
「駄目ですね。辺り一帯水没してしまって、どんならんす」
「そんなサルエルパンツのやうな顔をするな。まあ、君も座って一献やり給え」
「はあ」
「時に、事務所の方は大丈夫だったのかい?」
「くっ、くっ、くっ、ごっくん。はい。皆無事で、避難も終えています」
「そうか、それは重畳だ」
「はい。あ、ズブロッカもう無いですね。一寸待っててもらえますか? てきぱき、てきぱき、お待たせしました。これ、露西亜の麦酒各種です」
「へえー、また種類があるものだねえ。ぢゃ、私はこのZatecky Gus? を頂くとしよう」
「じゃあ僕は露西亜語でなんて書かれてあるか分からない、この缶の麦酒を貰います」
「ふうん、ペットボトルの麦酒とは珍しいね。どうれ、コップに注いで、ごくっ、ごくっ、ごくっ、ごくっ、うん、軽くて飲みやすい」
「ごくっ、ごくっ、ごくっ、ごくっ、これもイケますよ」
 甕乙の選曲で、スピーカーから吉村弘の『Wet Land』が流れている。
「しかし、我々はこれからどうなってしまうのだろうね」
「ネットの情報だと、被害は甚大のようです」
「中央は何してるの?」
「それが、対応が後手後手に回って、未だ目ぼしい対策も講じられていないそうです」
「だろうね。下級国民は中央に頼るな。自力でなんとかしろ。と謂うのが彼等の基本方針だからね」
「酷いっすね。ぷんすか」
「分かり切ってたことさ。ごくっ、ごくっ、ごくっ、ごくっ」
「ごくっ、ごくっ、ごくっ、ごくっ、中央は当てにならない。かと言って事態が収束する見込みは無い。僕達は一体どうしたらいいんでしょう?」
「愛だよ」
「へ?」
「いまこそ僕等は愛に基づいて行動を起こすべきなんだよ。愛に基づいて一瞬一瞬を懸命に生きる。その他に僕等に出来ることはないぢゃないか。そうだろ?」
「そっすね。愛っすよね」
「ああ、愛サイコー」
「愛サイコー」
「あっはっは、その意気だ。ようし甕乙君、早速愛に基づいて露西亜麦酒を頂くとしよう」

 「わたし」は「わたし」
 「わたし」は 無より出でて 光にいたる
 「わたし」は 息吹 いのちを育む
 「わたし」は 空 意識はるか超えた先の 空洞
 「わたし」、イド、すべての存在
 「わたし」は 水と水つなぐ 虹の弓を引く
 はてしなく続く こころとできごと
 「わたし」は めぐり入りて 出ずる 息吹
 見えず さわれぬ そよ風
 ことば かなわぬ 創始の原子
 「わたし」は「わたし」

 私は右のような詩とも散文ともつかぬような言葉を心内で唱え乍ら、懸命に、新たな麦酒に手を伸ばしたのであった。

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