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ときめき肉便器

 三十六時間不眠不休で書き上げた原稿を封筒に入れ、突っ掛け履きで表に出、ひいいいいいっ、ひいいいいっ、走りながら溺れてる、みたいな這う這うの体で待ち合わせの小料理屋まで著いた私は、がらがらがら、引戸を開けるなり椅子に座って客と世間話をしてけらけらと笑っていた女給に向かって、
「せ、清酒をコップで頼む」
 と言うのがやっとであった。
「先生、こちらです」
 カウンター席から手を揚げるのは亜厂君。
「ま、ま、待て、さっ、酒が先だっ、おおおおい、おおおおい」
 入り口でミミズクのやうになっていると、
「あら大変。先生、はい、清酒ですよ」
 女給にコップを持たせて貰って、ぐびっぐびっぐびっぐびっぐびっ、コップの清酒を一息に飲み干してしまった。
 それでようやっと人間に戻った私は女給に、
「ひつれいをばした。君、悪いがこの店で一番安い酒を一升瓶で持って来てくれ給え」
 そうorderして、亜厂君の隣りの席に落ち着いた。
「先生、早速ですが」
 間髪入れずに催促をするところは、流石プロフェッショナルの編輯者と謂ったところか、私は反射的に原稿の入った封筒を大人しく差し出してしまった。
「確かに。こちら、原稿料です」
 封筒を渡して封筒を貰うというのは随分とをかしな話である。私は亜厂君の目の前でびりびりと封を破り中を検めて、ねちねちと小言を展開した。
「ねえ、亜厂君」
「なんです」
「原稿料のことだがね、まちっとなんとかならんかね」
「多過ぎましたか?」
「ずこっ。違わい、少な過ぎるということを私は指摘しておるのだよ」
「あっ、先生、一升瓶が来たようです。にかっ、どうも有難う。ささっ、一献」
 とっとっとっとっとっ。なみなみに注がれた酒を鵞鳥のやうに首を伸ばし、おちょぼ口で一口吸うと、あとは一気呵成にコップを空にしてやった。
「兎に角、原稿料が上がらない限りもう君の処には書かない」
「分かりました先生。斯くなる上は、僕が直接編輯長に掛け合って原稿料を上げるよう談判しましょう。屹度お約束します」
「亜厂君」
「はい」
「君、先立っても同じこと言ってたよね」
「ぎくっ」
「ぎくっ、とは何だ、ぎくっ、とは」
「表で猫でも鳴いているのでせう」
「猫が、ぎくっ、と鳴くものか」
 そう言い放って空になったコップに手酌で酒をどぼどぼと注いだ私は、早くも酒臭くなった息を吐き吐き、亜厂君を糾弾した。
「亜厂君、君は一体全体、真面目に原稿料を上げる心算はあるのか?」
「先生、襯衣を捲って腕を見せて下さい」
「な、なんだ、藪から棒に」
「いいから見せて下さい」
「断る。日本国憲法第十三条、個人の尊重の侵害だ」
「先生、ヒロポンやってますね?」
「ぎくっ」
「ぎくっ、とは何です、ぎくっ、とは」
「さ、さあ、表でボルネオオランウータンでも鳴いているのだらう」
「日本にボルネオオランウータンはいません。先生、仰る通り確かに僕は原稿料を上げるよう編輯長に談判するとお約束しました。但しそれはヒロポンを止めるのを条件に、と謂う話だった筈です。なんならその際の会話を録音してあるのでお聞かせしましょうか?」
「いや、いい」
「編輯長も憂いておられるのです。弊社の抱える作家の内にヒロポン中毒者がゐる、と謂った一事の為に」
「なあに、大丈夫だよ。葡萄糖やヴィタミン剤も欠かさず打っているから」
「さういう問題ではありません。ヒロポンを打つこと自体いけないのです」
「けれどもヒロポンを打たないと私は一文字も書けない」
「それでは原稿料はいまの儘です。編輯長次第では契約の打ち切りも念頭に置いておいて下さい」
「ま、待ってくれ」
 ぴたっ。契約の打ち切り、と聞いて初めて酒を運ぶ手が止まった。
「契約の打ち切りは困る」
「ならヒロポン止めれますか?」
「ヒロポンは止めれない」
「先生、契約は打ち切られたくない、けれどもヒロポンは止めない、なんて道理が罷り通るとでもお思いですか?」
「分かってる、分かってるけど、ああ、もう私は一体だうしたらいいのだらう」
「病院なら御紹介しましょう」
「馬鹿な。誰が病院何ぞに掛かるものか。私みたいなポン中、だうせ閉鎖病棟に入れられて一生出て来られないに決まってゐる」
「そんなことは。先生、気を強く持って下さい」
「さうだ亜厂君、君の方から編輯長に、私は判然とヒロポンから足を洗った、と言付けを頼まれてくれないか」
「先生、先生は僕に嘘を吐けと仰るのですか?」
「お願いだ、後生だから見逃してくれ。ねえ、君と私の仲ぢゃないか」
 哀願し、すりすりすりすりすりすりすりすりすりすりすりすりすりすりすりすり、私は亜厂君の手を取って、獣のやうに頬擦りをした。
「分かりました。よござんす。編輯長には僕から上手く言っておきましょう」
「ほ、ほんたうか?」
「ええ。但し」
「な、何だ」
「原稿は落とさないこと。僕の知り合いの治療を受けること。約束出来ますか?」
「約束する、約束する、嗚呼、亜厂君、有難う、有難う、すりすりすりすりすりすりすりすりすりすりすりすりすりすりすりすり」
「頬擦り止め」

「先生、起きて下さい、先生。ったく、仕様が無え爺だな」
 右のやうな言葉が紐になって垂れ下がってきて、その紐を手繰り寄せ手繰り寄せして往く内に、私は何時の間にかソファーの上に折れ曲がって横たわっていた。
「誰が爺だ」
「おっと、漸とこさ起きやがったよ」
「焼山、ヒロポン」
「卓子の上に在りまさあ」
「ああ、がちゃがちゃがちゃがちゃ、ちゅー、とんとん、きゅっ、きゅっ、ぷすう、はあああああああああああああああああああああああああああああああ。ん? 焼山? お前、何でこんな処に居る?」
「何で、って、此処うちの店っす」
「はれ? きょろきょろ、きょろきょろ、ほんたうだ」
「ほんたうだ、ぢゃありませんわいな。大変だったんすから夕べは。ママ、かんかんで」
「一寸待て。うーん、亜厂君とだうやって別れたか知ら? 記憶がごっそり抜けている。ママはかんかんか?」
「かんかんす。ほら、勃勃ママ来ちゃいますから、早く出てって下さい」
「ママが来るって、いま何時だい?」
「もう晩方っす。さあ、往った往った」
「待て待て待て待て待て」
 ばたん。
 焼山の突き張りを受けて、ゲイバーから締め出されてしまった私。
「このこんこんちきめ」
 ドアーを思いっ切り蹴ろうとして空振り、すってんころりん、バランスを崩して混凝土に後頭部を強打した。
「痛たたたたたた」
 後頭部を押さえ乍ら注意深く周りを窺うと、露地の一隅に曖昧な、腸捻転のやうな空間があって、其処に一匹の河童が踞っていた。
 私は混凝土に手を撞いて起き上がり、近付いて行って、
「おい、河童」
 声を掛けると河童は返事こそしなかったものの、ぼんやりと顔を上げた。
 湖のような目をしていた。
「おい、河童。私は河童には四通り、ま河童、すみのえ河童、いたぼ河童、まつかわ河童と、差別があることを知っている。ま河童は、体躯が小柄で、性質は温順にして智能に欠け、すること為すことに愛嬌があり、全身を毛に包まれている。棒で叩くと、魚のやうな生ぐさい臭気を出す。この臭いを魚が慕うものと思われる。ま河童が谷川の丸木橋に腰をかけて足をぶらぶらさせていると、忽ちその下の流れに魚が黒雲のやうに集まってくる。この種類の河童は、魚を食べるだけで人畜には害を及ぼさない。次に、すみのえ河童は、大きな川の川口や岩礁の多い海に住んで、鱸や黒鯛など大きな魚を食べている。これは青蛙のやうな肌の色をして、人が捉えるとつるりと滑り抜け、青くさい臭いだけを手に残す。ま河童よりも大型で、気性も激しく仲間以外の河童を見ると喧嘩を吹き掛ける。こいつはまた、人妻を狙って悪戯をする。いたぼ河童は、肌が黒味を帯びて腹の方が灰色である。習性は、殆どすみのえ河童と変らない。しかも、すみのえ河童と仇敵の仲である。まつかわ河童は鉄色の甲羅を着け、腹の方が赤味を帯びている。他の河童に比べて数は少ないが非常に団結心が強く、首領の指図に従わない奴は非道い目に遭わされた上に仲間外れにされる。よく冬の夜など、残月が山の端に沈んだ後、とぼとぼと独りぽっちで峠を越えている河童は、仲間外れにされたまつかわ河童である。大体このように差別があるが、貴様はどの河童だ?」
「随分と御詳しいんで、旦那」
「井伏鱒二の、河童騒動、という短篇を読んだからな、是位の知識は持ち合せている。鉄色の甲羅を着けているところを見ると、まつかわ河童か?」
「へい、仰る通り、あっしはまつかわ河童で御座います」
「矢張りさうか。して、この腸捻転のやうな空間で一体何をしている?」
「へい、動くと腹が減るので、かうして踞っているので」
「腹が減っているのか?」
「へい」
「カネは? 持っていないのか?」
「お恥ずかしいこと乍ら、一銭も持ち合わせておりませんです」
「相分かった。付いて来い。飯を食わせてやる」

 がらがらがら。
「ジョニー、二人」
「おう先生、いらっしゃ、わっ、何何何? 新手の追込み?」
「違う。河童だ。恐がらなくていい、こう見えて害は無い、多分。腹が減っているらしいんだ、何か食わせてやってくれないか。おいお前、何が食いたい」
「じゃ、じゃあ、オマール海老のカルパッチョ、マンダリンと根セロリのカリソン仕立て、黒トリュフとトピナンブールの軽やかなソースをお願えします」
「え? なんだって?」
「オマール海老のカルパッチョ、マンダリンと根セロリのカリソン仕立て、黒トリュフとトピナンブールの軽やかなソースです」
「分かんねえよ。もうお前、自分で頼め」
「は、はい、オマール海老のカルパッチョ、マンダリンと根セロリのカリソン仕立て、黒トリュフとトピナンブールの軽やかなソースをお願えします」
「そんなの出来るわけないぢゃないですか」
「出来ねえってよ。お前何処でそんなもん食ったんだ。もっとこう簡単なの頼め」
「は、はい、じゃあナシゴレンで」
「今度は随分と短くなったな。ナシゴレンだってよ。出来るか?」
「一寸ググってみます」
「だそうだ。待ってろ。しかし河童のくせに妙なものばかり頼む奴だな」
「相済みません」
「いや、怒っている訳では無い。だうだジョニー? 出来そうか?」
「無理っす。レシピ見たけど何書いてあんのか全っ然分かんねっす。焼き飯でいっすか?」
「何だ、役に立たん。おい河童、焼き飯でいいか?」
「はい、お願えします」
「焼き飯でいいそうだ。あと、私に酒を呉れ」
「はいはい、これ、酒とコップです」
「悪いな」
「あ、あっしに注がせてくだせえ」
「気を遣わいでいい。手酌でやるから。お前はもっとrelaxしてろ。Relax、open、enjoyの精神だ。分かるか?」
「はあ」
「そんな顔をするな。ぐびっぐびっぐびっぐびっぐびっぐびっぐびっぐびっぐびっぐびっ、とん、ふぅ。ほら、お前も飲め。ジョニー、コップもう一つ」
「はいはい」
「い、いえ、あっしは」
「なんだ、飲めんのか?」
「いえ、飲める飲めないの前に、あっし、酒というのは見たことはあるのでがすが、飲んだことが一度切りとも無いんで御座いまさあ」
「お前酒飲んだこと無いのか? わっはっは。いや、相済まんこった。よし、お前、酒飲んでみろ」
「いいんでがすか、旦那?」
「応ともよ。じゃあコップ持って、さうだ、私が注いでやるからによって、とっとっとっとっとっとっとっとっとっとっとっとっとっとっとっとっ、おっとっと、さあ、飲め」
「い、頂きます。どきどき、どきどき、ぺろっ」
「舐めるんぢゃあない、ぐいっ、といけ、ぐいっ、と」
「は、はい、どきどき、どきどき、ぐいっ、ごくり」
「だうだ?」
「うーん、何だかよく分かりませんです。まちっと飲んでみてもよろしいでがすか?」
「おお、飲め飲め」
「へえ、ぢぁあ、ぐいっぐいっぐいっぐいっぐいっぐいっぐいっぐいっぐいっぐいっぐいっぐいっぐいっぐいっぐいっぐいっ、とん」
「おうおうおうおう、空にしちまったよ。おい、河童?」
「しーん。すとん。ぱたん」
「おい、河童、確りしろ、河童。駄目だ、卓子に突っ伏した儘びくとせん。あれ? こいつ、息しとらんぞ」
「まじすか? どれどれ、あっ、ほんたうだ、先生、脈も無いっす」
「まじ? ほんたうだ、だうしよう」
「取り敢えず救急車すか?」
「莫迦、こいつ河童だぞ。私が普段ポンを貰っている医者がある。其処迄連れて往く。ジョニー、手伝え」
「はいはい」

「だうなんだ? おい、ヒマラヤ」
 普段からポンを貰っている医者、ヒマラヤに詰め寄る私。
「だうなんだ、と言われましても、此方人等なんせ河童を診るのはこれが初めてで御座いまして、何処を如何したら好いものやら。まあお掛けになって待ってて下せえ」
「頼む。其れと私にポンを呉れ」
「其処にありますで適当にやっておくんなまし」
「応。がちゃがちゃがちゃがちゃ、ちゅー、とんとん、きゅっ、きゅっ、ぷすう、はあああああああああああああああああああああああああああああああ。ジョニー、お前もやるか?」
「いいんすか? じゃ、御言葉に甘えて。ちゅー、とんとん、きゅっ、きゅっ、ぷすう、はあああああああああああああああああああああああああああああああ。サイコー」
「イクー」
「げらげらげら」
「げらげらげら」
「げらげらげら」
「げらげらげら」
「はーあ、笑う。其れにしても先生、だうしてあの人、ヒマラヤ、って名前なんすか?」
「ああ、彼奴か、彼奴は内田百閒の、阿房列車、と謂う讀み物が好きでな、其れでヒマラヤと呼んでいる。お前、内田百閒、知っているか?」
「知らねっす」
「だらうな。おおい、ヒマラヤ、酒貰うぞ。ええと、酒は酒は」
「せっ、先生っ、先生っ」
「だうしたジョニー、うわっ、眩しっ、何だ、あの光は?」
 振り返ると白銀の、円柱状の目映ゆい光が河童の全身を照射していて、河童の身体は光の中で揺曳と浮かび上がっていた。
「ヒマラヤ、おい、ヒマラヤ、一体だうなっている? お前何したんだ?」
「お、俺等は何もしてませんでさあ。行き成り光に照らされたと思ったら、次の瞬間には御覧の有り様で」
「ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクウイー、ウイオース、ウイオース、ツクツクウイー、ウイオース、ウイオース、ツクツクウイー、ウイオース、ウイオース、ジー」
「せ、先生? だうなさったんでえ」
「なあに、心の平衡を保つ為につくつく法師という蝉の声帯模写をしただけだ、気にするな。あっ、見ろ、ヒマラヤ」
「あっ、河童の姿が消えてゆく。噫、完全に消えてしもうた」
「光も消えてしまったな。はてさて、一体何が起きたのやら」
「アブダクションっすね」
 ジョニーが海豚のやうな目を輝かせて言った。
「何だ、其の、アブダクション、為るものは」
「知らないんすか先生? アブダクション、つうのは宇宙人による誘拐のことっす。エイリアン・アブダクションとも言いますね」
「ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクウイー、ウイオース、ウイオース、ツクツクウイー、ウイオース、ウイオース、ツクツクウイー、ウイオース、ウイオース、ジー。というこたぁ、ジョニー、お前、河童は宇宙人に誘拐されたと言うのか?」
「間違いねっす」
「ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ」
「其れ、止めて下さいよもう」
「うむ、そろそろ飽きてきたしな、止めよう。其れにしてもジョニー、お前だうしてそんなことを知っている?」
「ふっふっふっふっ、歩が四つ。手の此処、触ってみて下さい」
「どれ、さわさわ、さわさわ、別段何ともないやうだが?」
「実は俺、宇宙人に誘拐されたことあるんすよ。その時手の此処に、これっ位の小さなマイクロチップ、埋められたんす」
「まじで?」

 私とジョニーとヒマラヤは別れた。
 別れ際、心做しかジョニーは少し淋しそうな表情をしていた。
 ヒマラヤは河豚のやうな表情をしていた。
 其れから私は日々の些事に追われ、あ、という間に二月が過ぎた。
 ちゅー、とんとん、きゅっ、きゅっ、ぷすう、はあああああああああああああああああああああああああああああああ。
 河童の一件以来、何となくジョニーと顔を合わせ辛くなってしまい、店には一度も行っていない。
 今日辺り顔を出してみるか。
 そう思い、重たい腰を上げようとした瞬間。
 ゔゔゔゔゔゔゔゔ、ゔゔゔゔゔゔゔゔ、ゔゔゔゔゔゔゔゔ、ゔゔゔゔゔゔゔゔ。
 卓上のガラパゴス携帯、通称ガラケーが振動し、ガラケーを開いてディスプレイを覗き込むと、果たして着信は亜厂君からであった。
 私は通話の釦を押し、音声通話を開始した。
「Allo. 亜厂君。恐れ入谷の鬼子母神」
「さうで有馬の水天宮、とでも返すとお思いですか先生」
「くわつくわつくわつ、返したぢゃないか」
「だうして電話にお出にならなかったのです? 掛けましたよね、僕? 何度も/\? 其れなのに先生は折り返しさへしない」
「済まんじゃった済まんじゃた。ちょっくらモーリシャス島にヴァカンスに行てたものでな」
「へえ、結構な御身分ですね。で? 原稿の方は?」
「ああ、原稿ね、もう絶賛執筆中じゃよ。ほら、かうして電話している間も筆が進む/\」
「絶賛執筆中ぢゃ困るんですよ。締め切り、疾うに過ぎてますよね? いいえ、さうやって誤魔化しても無駄です。今日は先生に契約の打ち切りをお伝えにかうしてお電話差し上げました。契約、打ち切りです。お疲れ様でした。ぢゃ」
「待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って」
「つー、つー、つー、つー、つー、つー、つー、つー、つー、つー、つー、つー、つー、つー、つー、つー」
 通話は切られてしまっていた。
 私は慌ててガラケーを弄り、着信履歴から亜厂君に掛け直した。
「ぷるるるるるるるる、ぷるるるるるるるる、ぷるるるるるるるる、ぷるるるるるるるる、ぷるるるるるるるる、ぷるるるるるるるる、ぷるるるるるるるる、ぷるるるるるるるる、がちゃ、もしもしっ、もしもしっ」
「この電話は、お客様のご要望によりお繋ぎ出来ません」

「んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、いぐー」
 ごくり。
 喉元を過ぎてゆく、生温い精液。
 がちゃがちゃがちゃ、ズボンを摺り上げてベルトを締めた乞食は私に五百円硬貨を渡し、
「まだだのむ」
 訛りのある低い声で言って、公衆便所の個室から出て行った。
 じゃらじゃらじゃら、私は皺々のビニール袋の中に乞食から貰った五百円硬貨を大事にしまい込み、ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、ななつ心内で数えて、がちゃ、個室の扉を開けると、公衆便所から表に飛び出した。
 目の眩むやうな光の中を走る。
 足が縺れてべらべらになり乍らも、其れでも前に進む。
 きゃあ。
 ひい。
 端々で悲鳴が上がる。
 私は口の端を歪ませて、にんまりと笑みを浮かべていた。
 ひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっ。
 漸と。漸とカネが貯まった。是でポンが購える。もう私は大丈夫。大丈夫だ。ひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっ。
 笑いは声になり、次第に絶叫へと変わり、
「ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクウイー、ウイオース、ウイオース、ツクツクウイー、ウイオース、ウイオース、ツクツクウイー、ウイオース、ウイオース、ジー。ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクウイー、ウイオース、ウイオース、ツクツクウイー、ウイオース、ウイオース、ツクツクウイー、ウイオース、ウイオース、ジー」
 つくつく法師の嬌声と相俟って切れ切れの空に。

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