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雨がふっていたのだ



「草に すわる」


わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる

八木重吉


この詩は

『古本極楽ガイド』岡崎武志著

に紹介されていて知りました。

シンプルで少ない言葉なのに、遅効性のお薬みたいにじわじわ心に響いてきます。
ちょっと自分を振り返って

わたしのまちがいだった

と呟いてみると、普段の傲慢な気持ちが少し薄くなるような気がします。


この本で八木重吉を知り、彼の他の詩も読んでみました。


「雨」

雨のおとがきこえる

雨がふっていたのだ

あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう

雨があがるようにしずかに死んでゆこう




熊谷守一という画家がいて、彼の絵画は子供の落書きのように見えるけれど、対象に対する深い関心が感じられて大変好きなんですが、絵画以上に、対象に対する彼の姿勢に私は言葉を失いました。

蟻の歩き方を幾年もみていてわかったんですが、蟻は左の二番目の足から歩き出すんです。

藤森 武 独楽―熊谷守一の世界


そうなん?とわたしも蟻を観察してみましたが…
左の二番目の足とわかっていて、重点的に凝視しているにも関わらず…
動きが早すぎて、どの足から動き出してるのか、全然わからない!

幾年も見ていて、というのは誇張ではなくて、ただひたすらに蟻に寄り添っているうにに、蟻と一体化して、自己が消えていって始めてわかることなんじゃないかと。
じっと蟻を見つめる彼の姿が浮かんできます。


自分という境界線が曖昧になって蟻になった画家の姿が、
八木重吉の詩にある、
この世のために、そっと草木を濡らす雨粒と重なりました。

雨が止んで日が照れば、葉の上の雨粒はすぐに蒸発して空気となって消えていくことでしょう。


今まで色んな本を読んできましたが、様々なインプットが収斂していく、そんな感覚を始めて味わいました。

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