昭和歌謡のタイトル

歌のタイトルは覚えやすいほうがいいに決まっている。レコード屋に買いに行くときに店員さんにそのタイトルを言えばすぐに通じるほうが、売れ行きもあがるだろう。
典型的な例を挙げるならば、レコード大賞をとった水原弘の「黒い花びら」である。なにしろこの曲の歌いだしが「くーろーいーい花びら」なのである。まちがいようがない。
ところがある種の歌については、曲を最後まで聞かないと、なんというタイトルなのかがわからないしくみになっている。もっと言えば、最後まで聞いてもついにタイトルそのものが曲の中に現れない場合がある。
後者の典型的な例が、これもレコード大賞受賞曲・ちあきなおみ「喝采」である。喝采ということば自体は、最後まで一度も出てこない。この曲の主人公は人気歌手として人々の喝采を浴びている存在であるが、栄光の人生の裏には言い知れぬ悲しみがかくれている、という構造を持った、まるで一編の物語のような内容をそなえた、名曲中の名曲である。「喝采」というタイトルが、栄光の光と闇という二つの意味を象徴しているわけである。
さて、最後の最後でやっとタイトルが登場する曲については、ちょっと面白いことがおこる。当時のラジオやテレビの歌番組では、たとえば三番まで
ある歌が最後まで歌われるということは滅多にないことであった。さらに、ワンコーラス目にきわめて印象的なフレーズがあった場合、多くのリスナーが、そっちが曲のタイトルであると勘違いするケースがままある。佐川満男の「今は幸せかい」という歌がひとつの典型であろう。一番目、二番目の
歌いだしである「遅かったのかい」というフレーズがあまりにも印象的であったために、当時の多くの人がこの曲のタイトルを「遅かったのかい」であるとおもいこんでいたようだ。
もう一つの例は、北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」である。この曲は三番目まで、おわりのほうで「愛というのじゃないけれど」というこれまた
印象的なフレーズが繰り返されるために、ただ耳で聞いただけの人たちの中には、かならずや「愛というのじゃないけれど」というタイトルの曲であると思い込んでいた人がいたはずである。最後の四番目に、「愛というのじゃないけれど」というメロディーをそのまま使って、「ざんげの値打ちもないけれど」というフレーズがやっと登場するのである。
「黒い花びら」のような、誰もがまちがいようのないタイトルをつけたほうが、いろいろと効率がいいことはたしかであろう。でも、ストレートな
やりかたを避けて、ちょっとひねった命名をしてみるというのも、なかなかしゃれていて、個人的には好ましく思う次第である。

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