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バレエ音楽「パリの喜び」(オッフェンバック)

いらっしゃいませ。

ようこそ、CLASSIC BAR VERSTECKへ。


さて、"本日のオススメ"は、オッフェンバック作曲の『バレエ音楽「パリの喜び」』です。(数字は4-390。名曲解説全集第4巻P390)


ジャック・オッフェンバック先生。1819年-1880年(61歳)の、ドイツ生まれ→フランスで活躍した作曲家ですね。

スッペ先生と同じ年の生まれです。

ワーグナー先生・ヴェルディ先生は、6年前に生まれている、そんな時期の生まれです。

ワーグナー先生・ヴェルディ先生もそうですが、オッフェンバック先生とスッペ先生も、同じジャンルで活躍された方が同じ年に生まれているのは、なんだか感慨深いものがありますね。


現在でいうところのドイツのケルンに生まれ、父は教会の合唱指揮者、母にチェロとヴァイオリンを教わったということなので、母もたしなみがあったようです。いずれにしても、音楽のある環境に生まれ育ちました。

14歳ころには、パリへ移住し、チェロ奏者として活動を始め、いくつかの自分のチェロのための曲を書きます。オッフェンバック先生の劇や歌を伴わない曲は、この時期に作られたものしかないそうです。

当時パリ音楽院院長であったケルビーニ先生の推薦で、外国人のとしては異例のパリ音楽院への入学を果たすも、不真面目で、チェロのクラスには1年しかおらずに中退。

オペラ・コミック座などのオーケストラでチェロ奏者となり、この時期にアレヴィ先生(ワーグナー先生も認めたオペラの作曲家、元パリ音楽院教授)に作曲を教わります。

オペラを作曲するも失敗し、引き続きチェリストとして活動を続けますが、30歳のころには、テアトル・フランセという劇場の指揮者に就任。34歳ころから本格的にオペレッタの作曲を始めました。

36歳ころには、ブッフ・パリジャン劇場という小さな劇場を買い取って経営をはじめ、自身の作品を次々と発表し、成功し始め、作品を上演することで成功を積み重ね、39歳ころの『地獄のオルフェ』(「天国と地獄」で有名な)で、大成功をおさめます。

オペレッタの原型を作った、「オペレッタの父」。この後、オペレッタは興隆を極めます。


本日の曲『パリの喜び』。

バレエのための音楽ですが、オッフェンバック先生がバレエ音楽として書いたものではありません。オッフェンバックせんせいが亡くなっただいぶ後の1937年(57年後)、モンテカルロ・ロシア・バレエ団が企画したもの。筋書きを作り、そこにオッフェンバック先生の数々のオペレッタの中からピックアップして、ラヴェル先生のお弟子さんであるロザンタール先生がバレエ用の作品として構成したものです。

オッフェンバック先生自身、上流階級の中で生活しながら、オペレッタの中にはパリの頽廃的な社交界の風俗を描き出しており、それが機知に富んで華やかだったため、常に大成功を収めていました。

そんな珠玉の音楽を組み合わせたため、初演から大成功し、次々と各バレエ団で上演されました。


おおすじ

カフェの常連である若い男性が、ある娘に恋をする。そこにブラジル人が登場する。当時ブラジルから来る人は、たくさんの宝石を身にまとっていたようで、このブラジル人もそうでした。カフェに入ってくると、たくさんの女性が集まり、彼を追いかけます。若い男性とブラジル人は口論になり、決闘になりますが、ブラジル人は故郷に帰り、若い男性はこの恋を実らせ、大団円で終わります。


3分程度の曲が17曲。1曲1曲が本当に小粒でキラキラとした宝石のような、明るく楽しい曲です。曲をまとめた部分の話には、多少の残念な部分があるのかもしれませんが(構成した先生は、あまり熱心ではなかったようで)、オッフェンバック先生の音楽の素晴らしさは間違いありません。

疲れた頭に、心地良く、軽やかに流れていく。

そんな素敵な時間を過ごせます。

目を瞑って、軽めのワインでも飲みながらお聞きいただきたいですね。



本日の音源は、所蔵の、カラヤン指揮/ベルリン・フィルの録音を聞きながら書き進めてきました。


本日もご来店いただきまして誠にありがとうございました。

またのお越しをお待ちしております。

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