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あゆみBOOKSがあゆみBOOKSだったとき

 長く早稲田に住んでいて、あゆみBOOKS(以下、あゆみブックス)にはお世話になった。昔は夜遅くまで開店していて、飲み会の後に高田馬場から歩いて帰ってきて寄ってもやっていた。確か朝の開店も早かったんじゃなかったか。大学院のゼミの後にも、あゆみブックスに寄っては本を買い、それから2階のシャノワール(現ルノワール)で読んだ。早稲田にはあゆみブックスがあるからよかった。他の書店は無くなっても、あゆみブックスは無くならない。そう思っていた。2018年だったか、経営が変わり店名が変更されたが、その名前がピンと来なかったから、私はその後もずっと、あゆみブックスと呼んでいた。誰がなんと呼ぼうと関係ない。私の記憶の中では早稲田にある書店はあゆみブックスだ。

 昨年末、早稲田から引っ越したが、ずっと後ろ髪を引かれるような思いだった。色々な理由がある。早稲田に長く暮らしていたのだから、それも当然だろう。大学そのものも好きだけれど、学生相手にやる店も好きだったし、神田川も、リーガロイヤルホテルも、鶴巻南公園も、漱石山房も、高木屋も、125カフェも、何もかもに思い出があり、私は長年の記憶と共に多重露光のように街を見ていた。私にとっては幻想のような街だった。私がこの街を去り難かったのは、きっとその幻想のためだ。私は過去と共にに生きてきた。

 私は変化が嫌いだ。ずっとこの街に住みたい。ずっと変わらずに生きていたい。ずっと同じものを食べ、同じ景色を見ていたかった。でも、私が動かなかったとしても、世界は変わってゆく。変わってほしくないものに限って変わっていく。街中にある店は、同じ間取りで別の店に変わる。人が生まれ、人が死ぬ。特に、ネオリベ東京の中では、古いものはどんどん壊され、新しいものに変わってゆく。長い間景色の一部だった建物はいつのまにか、高層マンションになる。金にならない建物や風景には用がなく、土地を有効活用するためにデカい建物が立つ。風景が変わることは、私が最も嫌いなことだ。だけど、いつの間にか、そんな抵抗などなかったように、何かが変わったことさえ忘れてしまう自分の気楽さがもっと嫌いだ。

 引っ越してから早稲田にいく機会は減った。引っ越したての頃は、なんだかんだ言い訳して何度か早稲田に向かった。よく行っていた近所の鶴巻図書館に本を借りに行った。友人と125カフェでお茶を飲んだ。そして風景が変わらないことを確かめた。ちなみに、私が一時期通っていた鶴巻湯もまた閉店となるらしい。私が知っていた早稲田は少しずつ変わっていく。それを嘆くなんて、ただの現実が認められない夢みがちな人間だと思われるかもしれない。

 それはともかく、引っ越してから早稲田に行かなくなった。東京都内で、大して早稲田から遠くない場所に住んでいるのに、めっきり行かなくなった。少し電車の線が違うからというのが理由だと思う。歩いて行くのは少し難しい距離だ。だから、住む場所から徒歩圏に何があるかは死活的に大切だ。結局、歩くこと以外に主体的な移動法など見つからない。私は歩いていける場所に愛着を持つ。だから、早稲田から離れた私は新しい景色を自分で一から紡いでいくしかない。一歩一歩歩いて、白地図に色を塗っていくしかない。

 あゆみブックスがあゆみブックスだった頃は、例えば、ちくま学芸文庫が充実していた。本棚が奥まであり、独特の魅力を放っていた。リニューアルしてからは、奥の本棚が可動式になり、腰から下にしか文庫本が入れられないような棚に変わっていた。それだけが原因ではないかもしれないが、書店として、少しずつ魅力を失っていた。空間は、どうしてちょっとしたことで魅力を失ってしまうのだろう。私が知っている書店で、ちょっとした変更、雑貨を加えたこと、一部が家具屋になったことで、なんだか、もういいや、と興味を失って足を運ばなくなってしまった店舗は少なくない。ちょっとしたことで、風景は自分のものではなくなるのだ。

 そして本にとって、それを売る場所が魅力的でないことは致命的だ。本と出会う場所が減ってしまう。世間では書店数が減っていること、書店の売り場面積が減ることが問題視されるが、それよりも何よりも、場所が魅力的でないことが、もっと問題だと思う。その場所が魅力的でないのなら、Amazonで買おうがどこで買おうが同じだ。風景が一つ一つ失われ、変更が施された新しい風景は、もう自分のものではない。ノスタルジック過ぎるかもしれないが、変化を嫌う私としてはただただ世界が魅力を失っていくようにしか思えない。

 だから、繰り返しになるが、また風景を自分で作っていかなければならないのだろう。風景とは記憶のことだから。精一杯生きて、一つ一つ世界を自分のものにしていくしかないのだろう。そういう思い出と共に生きるしか生き方を知らないのだから、それが誰かの手によって消えてしまったとしても、嘆いてばかりいないで、自分が新たな足跡を残すしかないのだろう。きっとそうなのだと思う。少しでもあゆみブックス閉店というニュースを前向きに捉えるとするならば、そう考えるしかない。あゆみブックスという、鶴巻湯という私が見た風景はもうないのだから。

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