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おじさんなんだかわからない/pha『パーティが終わって、中年が始まる』(幻冬舎、2024年)



 「コミュ障」という嘲笑的な表現は好きじゃないけれど、最近、自分が人とのコミュニケーションが苦手だなと思うことが多い。たぶん昔から苦手なのだろうが、若い頃は、それを気合いでカバーして、周りとコミュニケーションをとるように頑張っていた。なんとか真っ当な人間に見られたいと思っていたのだろう。でも大学時代あたりから、コミュニケーションを頑張る時期と、疲れて軽い引きこもりのようになる時期とが交互にくるような感じだった。それから長い時間を経た今もその感覚はあまり変わっていない。

 若い頃期待していたように、歳を重ねてコミュニケーションが楽になるかというとそんなことは全くなく、むしろ複雑さを増す関係性に疲弊し、めんどくさくなってきている。何かちゃんとした感じを出す努力をすること自体が怠い。

 一般論として、おじさんはだいたいクセが強い。そしてそのクセはだいたい、無意識か意識的かの違いはあるが、コミュニケーションが面倒になって人に気を使わなくなったり、あるいは若い頃はクセをなんとか気合いで均して普通に見せていたが、それが持続せずにクセが剥き出しの状態になっている場合が多いように思う。おじさんはいるだけで存在感が強い。私も早晩そうなるだろう。もうそうなっているかもしれない。

 自分がおじさんになっていくと思うと少し辛いが、主観的には自分がおじさんになっているのかどうかわからない。上に書いたような面倒さや、身体的な衰えなどを感じるときにはあるけれど、周りからどう見えているかはわからない。でも、仮に感覚や見た目があまり変わらなかったとしても、老化(おじさん化)は着々と、内部で進行し続けるのだろう。

 そういえば、南海ホークスで昔活躍したホームラン王・門田博光のドキュメンタリーをNHKで見たとき、40歳の門田の顔を見たら、驚くほどべたーっとしたおじさんだった。例えば今のヤクルトの青木などは40過ぎでも若々しいのでもちろん人によるのだろうが、それにしても、昔の男は若い頃から歳をとって見える。それは社会が成熟というものをどのように受け入れているかにもよるのだろう。今は成熟、というか歳をとるということにあまりポジティヴな価値が与えられていないようにも感じる。

 phaの『パーティが終わって中年が始まる』は、車に轢かれそうになった時に、近所の男の子の「あぶない、おじさん!」という声になんとか助かったものの、その掛け声の「おじさん」という言葉に少し落ち込むところから始まるエッセイ集だ。歳をとることにネガティヴな心情が綴られている。著者がネットのブログに書いたものが基になっている。

 phaは、一時期、ものを整理するミニマリズムの本を何冊か読んでいるときに名前を知った。著者の名前なのかハンドルネームなのか、おそらくハンドルネームなのだろうが、いまひとつわかりづらい記号的な名前なのが面白くて印象に残っていた。最初に見かけたのが何の本だったのかは覚えていないが、何か気になる存在ではあった。時折書店でphaという名前が表紙に印字された書籍を見ることがあった。あ、活躍しているんだなと、その度に意識する。今回、新刊が出ていたのにももちろん気づいてはいたが、読む決め手になったのは、youtubeにあった宇野常寛、箕輪厚介、との鼎談だった。

 話している内容は主にこの本のことだが、それもさることながら、phaの喋り方は温厚そうで丁寧で落ち着いていて知的な感じがする、どこか将棋棋士の糸谷哲郎に似ていた。そこからなぜか気になり出して、数日後に書店で新刊『パーティが終わって、中年が始まる』を購入した。

 文章はシンプルで読みやすく、変なクセがない。この文章のリズムが心地よい。著者が40代になって急速に老化したように感じる、そのことをエッセイで綴る。基本的にダウナーな気分の文章だ。いいことはあまりない。おじさんになって、あれもダメになったこれもダメになった、でもそれは逆から言えば、以前から感じていた喪失感に自分が追いついた気がする、あるいは以前は感じられなかった人生の楽しみを得た気がする、老いのマイナス面だけでなくいい面にも目を向ける。基本ダウナーで、それでもどこかその事実に自分を納得させているような。

 著者は長い間シェアハウスを運営していたのだが、40歳になるのを機にそれをやめ、一人暮らしを始めたらしい。人と一緒にいたり、わいわいするのに微妙に疲れるその感覚は、私もわかる気がする。私はシェアハウスを運営するどころか、シェアハウスに入ったこともないので、運営する側の気持ちはまったくわからないが、常に人と一緒にいることの疲れや、たとえば、食べることに対する疲れなども本書には書かれている。

 中盤に収録されている「どんどん自動化されていく」では、「店で人と話すのが面倒だから、全部セルフレジやセルフサービスになってほしい、と昔から思っていた」が、実際にそういう店が増えると「あまりにも自動化され過ぎているのも嫌かもしれない」と言う。本書では、大規模チェーンの回転寿司の話が例として出てくる。これもとてもよくわかる。

 大規模チェーンの回転寿司は、誰とも目を合わすことなく、個室席のようなところで、画面のタッチパネルを押して注文をする。どこか奥の方で握っている(実際には握られていないと思うが)職人さんがいて、注文した寿司がレーンに載って出てくる。その間誰とも目を合わすこともなく、喋ることもなく、とても快適に食事ができる。しかし、ここまで誰ともコミュニケーションを取らないことが完結してしまうとどうだろう。流石に寂しく感じる。それをphaは「殺伐としたものとして感じてしまう」。そして、「もうちょっと人間らしく扱うふりをしてほしい」と表現する。

 そう。気づけば街の喫茶店などには一人席が増えた。一人席だけならまだしも、完全に左右を壁に仕切られ、目の前は壁、という席が多い。まるで予備校の自習席のようで、本を読むのに妙に集中できたりするから、決して悪いことだけではないのだけれど、それでも、壁に向かって何かを食べたりする虚しさは、一昔前の人なら耐えられないに違いない。

 「人間らしく扱ってほしい」ではなくて、「人間らしく扱うふりをしてほしい」という微妙な差異が、phaらしいところではないか。あくまで、従来のように人間と人間がコミュニケーションをして、何かを売り買いするということを望んでいるわけではなく、合理的で、人とのコミュニケーションのコストがないこと自体は良く、でも、「人間らしく扱うふりをしてほしい」のだ。見た目の問題。AIがもう少しその辺り、人間らしく振る舞うように進化すればいいというのが結論だ。

 後楽園のアフタヌーンティに入り、一人で高いお茶を飲みながら、この本を読むのも結構シュールというか、おじさんなのかおばさんなのかわからないなと思いながら、東京ドームの白い風船状の屋根を眺める。天気が良過ぎて35度の真夏日だ。もう外を歩くこと自体が危険で、出社も危険で、つまり働くことは危険なのだ。人間らしく生きたいのなら、そんな危険なことはやめたほうがいい。地下にある意識が高そうなお店で米粉のパンケーキを買って帰宅する。メトロエムの都会なんだか田舎っぽいんだかわからない奇妙な緩さが好きだ。

  

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