お葬式

2024年2月25日(日)
こんばんは。
毎日分の日記を書くのをやめてからめっきり日記を書かなくなった。やはり毎日日記をつけるのは僕の性分にあってなかったのかもしれない。
今年の2月は比較的暖かくて、暖房をつけずに夜を過ごす日も少なくない。しかし中旬くらいから雨が続いてて最近はまた冷えてきた。花粉も既に飛んでおり、症状が出始めている。本当に辛い期間がまた今年も始まるのである。

ここからもしかしたらショッキングな内容かもしれないので、つられてテンション下がりそうな人は読むの気をつけてください。

突然だが、2月16日に祖母が亡くなった。過去のnoteに祖母の様子とか僕の所感とかも書いていたし、近辺の人には「おばあちゃんが死にそう」だということは言っていたので特段仰天する報せではなかったのだが、「ああ、それが今日か」と遠くを見た23:50だった。劇団の会議が終わって雑談をしていたら母から電話がかかってきた。そもそも日常的に母と電話することもないし、よりによってこんな時間にかけてくるなんて訃報でしかないのでその覚悟で電話をとったらもちろんそうだった。母とは1分ちょいくらいの短い会話で電話は済んだ。時間も時間なので今からは帰れなかったから通話に戻ってみんなにその事情を話して少しそういう話をした。結局4時くらいまで起きてた。次の日6:30に起きて身支度をして、朝ごはんを半ば無理やり食べて、8時くらいの電車に乗った。主戦場対抗大喜利フェスの投票期間だったのだが、僕はこの日まで何も投票しておらず、日程的に今やらないとできないことになるのでこの帰りの電車で大急ぎで投票を済ませた。こないだの配信でも言ったけど、そんな状態で投票したから全然笑えなくてあんまり票を入れられなかった。そんで家に帰ったら葬儀屋さんと母、それから親戚がわんと居て、今後の話を相談していた。僕もぼんやりとそっちの話を聞いたり親戚の人と話したりして、話が一段落したくらいで母と話し、祖母の顔を見た。祖母は仏壇の前に顔に布がかかった状態で北を枕にして寝かされていた。布を剥がして顔を見たけどなんか笑ってるみたいだった。祖母の最期はちょっと悲しいので詳しくは書かないけど、母がちょうど隣に居て息を引き取る瞬間を看取ったそうだ。そのあと訪問看護師さんが来て亡くなったのを確認して、主治医の先生が来て亡くなったということを宣告された。このラグが20分くらいあるので実際に亡くなったのは法的な時刻よりも前なのだ。そんで夜中のうちに祖母の娘夫婦が2組もう来ていて、いろいろやってくれてたみたいだ。という話を母から聞いて、そんで土曜の11時半くらいに母が病院に死亡診断書と、役場に死亡届のうんぬんをやりに行った。その間に2組(地域の中で分かれてる当番のチームみたいなもの)の人らが来てお坊さんに頼む連絡をしてくれたり、字(あざ)のみんなに報せる文書を作ってくれたり何かと動いてくれた。そしたら妹が昼過ぎに帰ってきて、正月以来の再会となった。妹も一応祖母の顔を見てた。母も13時回ったくらいで帰ってきて、決め事を決めたり、母が買ってきたサンドイッチとかおにぎりを食べたりした。弁当をとるかとか、そんでその弁当は何個とるのか、親戚の生花や盛籠はいくつしてもらうのかなどをのんびり決めていた。親戚の方々は夕方くらいに一旦帰って、そんで家族3人になった。とにかく寝てなくてしんどかった。決めることを何となく決めて、服は着れるのかとか靴は履けるのかとかそういうのを確認したり、数珠や袈裟の準備をした。晩ご飯を食べて、風呂入って寝た。2時くらいに泥のように眠った。喪主は母になったのだけど、挨拶は僕がすることになった。挨拶が決まってからは挨拶で何を言おうかなということで頭がいっぱいだった。これは親戚が早すぎるのだけど、家に帰った時点で神棚に紙が貼ってあり、仏壇の三角のやつは白いのに変わってたし掛け軸もお経のやつに変わってた。この日の夜は何を話してたのかとかあんまり覚えてないけど、とにかく眠くて気が張っててこれからほぼ寝ずに二日丸々動かないといけないしでとにかくぼんやりしていた。
日曜日は7:30くらいに起きたと思う。8:30かもしれん。とにかく10:00に葬儀屋さんが来てまた相談するとのことで、それに間に合うように起きた。なんか来てくれてる親戚が2人居てて、その人らと母と葬儀屋さんでいろいろ話してて、僕と妹は絶妙な距離のところで聞いたり聞かなかったりしていた。来客対応とかあってずっと聞けなかったのだけど、こういうのちゃんと聞いといた方が良かったのだろうなと思う。相談終わったら親戚2人は一旦帰って、家族3人で昼ごはんを食べた。15:00から納棺とのことで、14:30くらいにはみんな来るかなーとか喋ってたら13:35くらいに親家のじじばばが来た。早すぎるしこいつら別に来てもなんもしないしちょっとゆっくりさせてよと思った。でもわりと他の親戚も早めに来て持て余してた。棺桶運ぶのに男手いるからということで叔母の子どもとその旦那さんとその子どもたちの大量が押し寄せて一部屋埋め尽くされた。そんで15:00ほぼ定刻に納棺が始まった。はじめにタオルで顔や手を拭いてあげた。死化粧は亡くなった日の夜にやってもらってたみたい。一人ずつ順番にタオルで拭いていくんだけど、結構泣きそうだった。いや泣いてた。涙が流れていた。拭くにあたって掛け布団が剥がされたんだけど、なんか全体像見たらほんとに小さくて、躯というか骸というか、ほんまに死んでるやんと突きつけられたような感じがした。布団被って顔も布で覆われてた時はそこに遺体があるけど見えてはないからなんか頭ではわかってても頭でわかってるだけって感じがしてて、そんな状態で一日半くらい過ごしてたけど、いざ遺体丸出しになっていろいろ葬式に進んでいくと「ああおばあさんほんまに死んでしもたんや」とまざまざと強制的に理解しないといけなくて、胸が痛くなって、涙が出た。直視するのは結構キツかった。そのあとみんなで祖母を棺の中に納めて、なんか一緒に焼きたいものを添えた。僕はお茶の葉をバッグに入れたものを2袋と、なんかカレンダーについてた雷鳥の絵を切り抜いたものを入れた。祖母は生前お茶ばっかり飲んでたし、「おばあさんお茶ばっかり飲むやろ」と自分で言ってたので入れてあげようと思った。雷鳥のやつは僕もよくわからんけど、なんかやたら気に入ってて、カレンダー見るたびに「綺麗な鳥やで」と言ってたので一緒に入れてあげようと思った。雷鳥は秋模様で、茶色ベースにカラフルな羽をしていた。よく見えるように顔の近くに入れた。そんでみんなで蓋をした。窓から祖母の顔が見える。出棺までの時間、ごゆるりとしていた。隣のおっさんから昔祖母に怒られた話とかとか聞いたり、字の見送りに来てくれてた人と棺の横で挨拶したりしてたら時間が来て、棺桶を搬送車まで運んだ。ほいで、僕が字の見送りに来てくれた人に挨拶する手はずになっていたのに親家のおっさん(祖母の弟)が急に喋り出して僕ら家族は騒然とした。急に喋り出しやがってちょっと呆れたのでみんなに暴走だということを伝えたくてわざとらしくオドオドして見せた。結局僕からも挨拶することになって、なんか二重な挨拶になった。マイクを使って、粛々と挨拶した。そんで、僕が遺影を持って搬送車の助手席に乗り、ホールへ向かった。運転は本当にとてもゆっくりで、運転手さんの優しさが伝わった。着くまで運転手さんといくつかお話した。ホールに着いて一人。僕がはじめに葬儀会場を見たことになった。棺桶に入った祖母と二人。とても立派な祭壇だった。しばらく待っても誰も来ない。すぐ後を着いてくるもんだと思ってたし、異常に遅い搬送車だったからなんなら追いついてると思ってたけど誰も来ない。スタッフさんから「法名持ってますか?」と聞かれ、母に電話したが出なくて、移動中かなと思ってダメ元で自宅に電話をかけたらなんと母が出た。なんとまだ出発していなかったのだ。後々聞いたら僕と棺桶が出発した後になんか杖がどうたら祖母の娘が言い出したみたいでちょっと引いた。こいつはキ○ガイなので呆れる。特にこういう大事な時にキ○ガイが如実に現れてくるから余計に呆れる。そんでだいぶ一人で待ったのちに親戚がぞろぞろ集まりだして、18:00からお通夜が始まった。雨がちょっと降ってたかな。お通夜は厳粛に終わりまして、また挨拶をした。本当にテンプレみたいな、粛々とした挨拶をした。あと一回スピーチする場所があるからここで感動的なこと言ったら次喋ることなくなるし抑え目にした。お通夜終わって食事をした。ホールの会食室でお弁当を食べた。ほんで散り散りにみんな帰っていって、最後祖母の娘夫婦の4人がホールに泊まることになり、お願いしますをして僕ら家族3人は家に帰った。気疲れもあり母妹はストーブの真ん前で寝てて僕はちょっと寒かったし黙って寝に行くのも嫌だったので謎に起きていた。あと明日のスピーチ何話そうかとかも考えたりして結局4時に寝て、次の日7:00頃に起きた。
喪服に着替えて、ほんで妹が先に泊まってくれてるおじおばに朝ごはんを届けに行ってくれた。なんかいろいろして、8:30くらいにホールに向かった。10:30に葬式が始まるのに親族は9:00集合だった。親族だけで葬式を行うことにしてたので、別に9:30くらいには始められた。僕は会場の椅子に座ったりウロウロしたりこの空間に身を置いていた。棺を見に行ったら朝に差し入れたおにぎりが棺の上に備えられていた。やはり伯母はキ○ガイなのでこういうわけわからんことをする。ほんで住職さん来られて母と僕で挨拶に行き、観音さんのご縁さん(僕にしかわからん言葉ですが!)にはそこでお車代を渡した。お寺のご縁さんには灰葬参りの始まる前に裏口から持って行った(お米一升と一緒に)。ほんで10:30から葬儀式が始まった。お経の最中も僕はスピーチのことで頭がいっぱいだった。お経が終わると弔電が5通紹介された。ほんで僕のスピーチになった。定型文言ったあと、「ほんでまた僕が同じ話をするんですけども、まあ同じ話何回もするのは祖母譲りでして、生前同じ話を耳にタコができるくらい聞かされたわけですけども。「おばあさんは富士山に二へん登ったんや」とか「大江戸日本橋まで歩いた」話とか、北海道行った話で「○○(祖母の名前)ちゃん、あれが樺太やで!」という話とか、そういうセリフが耳にこびりついてるわけですけども、もうその話も聞けなくなったわけでして。内臓が強いお婆さんで、2年前の2022年の8月にコロナにかかって、あーもうここまでかと思ってたんですけど、なんかケロッと治ってて、ほんまに100まで生きるんちゃうかと思ってたんですけども、老いと病には勝てなかったようで、まあそれでも96なんで大往生と言いますか、この言葉が合ってんのか知りませんけども、いろんな経験をしてきた生涯だったと思います。せっかくやったら同じ話ばっかりじゃなくて色んな話聞かせてくれたら良かったんですけども。あんまりこういった場で身内の話をするべきではないかもしれませんけども、晩年祖母はもう歩けなくなって寝たきりになってたんですけども、母が寝る間も惜しんで本当に献身的に介護をしてくれました。祖母は僕が帰る度に「お母さん(これは母のことですけども)、お母さんが、あんじょうしてくれやって、嬉しい」と、祖母に会う度に口にしておりまして、本人どう思ってたか知りませんけども、その母に最期看取られて幸せだったと思います。母には感謝してもしきれません。それから一つどうしても話しておきたい思い出がありまして、昨年の12月、もう本当に年の瀬に祖母は自宅で療養になりまして、もう本当に年越せへんのちゃうかと思ってたんですけども、本当に皆さんのおかげで、無事に2024年の新年を迎えられました。祖母の部屋で、祖母はベッドの上に座ったままですけども、祖母の部屋で祖母と母と妹と僕の4人でお雑煮を囲めたのが、本当に、嬉しかったです。祖母は、生前テレビで、お葬式のコントとか、誰かが亡くなったニュースを見るとすぐチャンネルを替えておりまして葬式なんか嫌いやったと思うんで、こんなして僕が長いこと喋ってたらチャンネル替えられてしまうんでそろそろ終わりますけど、最後になりましたが、昨日一昨日からこんなに盛大で厳かな式を準備してくださった式場スタッフの皆さま本当にありがとうございました。おかげさまで無事に祖母の葬儀を終えることができました。以上をもちまして遺族代表の挨拶とさせて頂きます。本当に皆様ありがとうございました。」と、いう内容のスピーチをした。考えてるうちから母の献身的な介護の話のとこと、お雑煮を囲めた話のとこは思い浮かべるだけで涙ぐんでいたので口に出したら絶対に泣くと思っていたのだけど、案の定泣いてしまった。スピーチ途中でメソメソ泣くわけにもいかないから泣きながらそのあとの話全部喋ったけど、スピーチ終わった後指がガチガチに固まっていて曲げることができなかった。力が入っていたのと酸欠になっていたのが重なってそんなことなってたんだと思う。あそこから涙越しに見た景色は一生忘れないと思う。そんでそこに居た多くの人が泣いていた。そういうスピーチができて良かった。隣に立っていた母も妹も泣いていた。正直言うとみんなを泣かせたろと思ってスピーチしたので成功なんだけど、僕が結構泣いてたのでもらい泣きみたいになってたかもしれない。そんで席に戻ったら式場の方がおしぼりを渡してくれた。なんか知らんけど父の葬儀の時も僕だけおしぼりを渡された。みんな泣いてたのに僕だけ渡されたので僕の顔が汚れてたのかもしれないね。そんで葬式が終わって、いよいよ火葬場へ出棺になる。祭壇の花をスタッフさんがチョキチョキしてて、その間僕は会場外の水飲めるとこで紙コップに水を入れて飲んだ。気持ちを落ち着けて、落ち着きゃしないけど、一旦深呼吸して、また戻った。お花を棺に供えて、なぜか供えられていたおにぎりも一緒に入れて、棺に蓋をした。棺桶を持って、枕経を聞いて、霊柩車に乗せた。今度は母が遺影を持って助手席に乗っていた。雨の降る中、鈍いクラクションが響いて霊柩車は出発した。僕は妹の車の助手席に乗り、後部座席に乗るご縁さんと話しながら火葬場に向かった。火葬場に着くやいなや、みんなでお経を聞きつつ焼香をあげた。最後に窓から見える祖母の顔とお別れをして、喪主の母が静かに蓋を閉じた。火葬の場所は美術館みたいな独特な空間で、棺桶を突っ込む場所が6箇所くらいあり、右から二番目の扉に祖母を乗せた機械が納められた。扉が閉まって、本当に最後のお別れになった。父の時もそうだが、この瞬間を母はとても悲しそうに見ていた。声が漏れていた。実際祖母の身体とはこれが本当の最後のお別れになるから、ここが一番悲しいはずなんだけど、僕は口をムッと閉じて何かを無理矢理受け入れていた。それが12:30くらいで、待合室でお昼ご飯のお弁当を食べた。13:30頃、スタッフさんに呼ばれて、一同は先ほどの部屋に通された。300度くらいのアツアツの祖母の骨が運ばれてきた。人工骨が綺麗に残っていた。他の骨はチリチリにスカスカになっていた。とてもドキドキした。骨壺に骨を砕いて納めていった。とはいえ骨を砕くのは精神的にタフだった。妹は泣いてて、拾えなかった。父の時もそうだった。実際衝撃的すぎる光景ではあるし、ものすごいことをやらないといけないんだなあと思った。そんで喉仏のやつはみんなでやって、もう一個の方は僕と母で納めた。ポロポロになっててグサッとカルメ焼きみたいに砕ける骨がほとんどだったけど、大腿骨と顎の骨は硬すぎて結構力を入れたけど割れなかった。もしかしたら本気で押したら割れたのかもしれないが、なんか力が入らなかったんだと思う。骨とはいえ、祖母のものだし、正直苦しい。そんで一行は移動して、母は証明書みたいなのをもらって、みんな自宅へ戻った。自宅へ帰って、色々準備して息つく間もなくお寺へ向かった。お布施とお米を渡し、法名と骨壺、写真を所定の位置に置き、カンコツ?のお経をあげてもらった。ご縁さんはお通夜の時もそうだけどお経が終わった後になんかありがたい話をしてくれた。本当にありがたいなあと思った。そんでそのまま初七日も一緒に済ましてもらって、みなさんには自宅に戻ってもらった。イス片付けて、家に戻って、すぐご飯の準備したり盛籠のお菓子とかを人数分とりわけたりバッタバタと準備をして、ご飯を食べた。お酒を注いでお寿司を回して話して頑張って笑って正直ここが一番嫌だった。バカみたいに勢いよくお酒を飲んだおかげで多少どうでも良く話せたから良かった。ほんでなんやかんやみんな帰って、おじおばも帰って、家族3人、後片付けなどをした。いろいろアフタートークして、母がすごい量のお寿司を食べて、気付いたら僕も寝てて、頭すごい痛くてお茶いっぱい飲んで、お風呂入って、寝た。やっと一息つけた。その後もいろいろやらなあかんこといっぱいあるけどひとまず終わって一段落ついた。
なんか今一人でこれ書いてるのが寂しくて、葬式全部終わって家族3人になったあの空間に戻りたくなっている。次の日は昼まで寝てずっとぼんやり過ごして、眠たすぎて横になったけど寝れなくて、夜になってまた寝た。その次の日祖母の部屋のアルバムを家族3人で見てた。若すぎてゲラゲラ笑ってた。妹が2階から昔のアルバムをたくさん持ってきてそれも見ては笑ってた。父も写ってたし、祖母も写ってた。妹は一人暮らしに戻って行った。寂しそうだった。僕はもう一泊して、次の日の夜にこっちに帰ってきた。そんでそのまま配信した。朝の5時くらいに寝て、次の日昼に起きて、昼寝して、もう一日中寝てた。そんで夜から稽古に行ったけど、元気がまるでなかったことがお見通しだった。自分でも声にまるで元気がなくてびっくりした。その次の日、が今日で、昼からコメダでネタ会議。すごく眠くて、早く帰りたかったけど20時くらいまでなんやかんやいた。そして帰ってきて今こうして日記を書いている。明日も稽古だし、ずっと眠いし、元気ないし、なんか疲れたよー。この日記は備忘録的に書いているもので、また長くなってしまった。見返すことはあるのかな。またちゃんと日記らしい文章を書きたいと思う。ここまで読んでくれた人いたらありがとう。おやすみー。
たきざきでした。また来ます。

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