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戦後唯一 オリンピックを返上したまち デンバー

オーストリアのインスプルックは、1964年と1976年に冬季オリンピックを開催したまちである。
これだけの短期間に2回オリンピックを開催したまちはない。
なぜこのようなことができたのだろうか

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▲1964年と1976年の2回のインスブルック冬季オリンピックの大会エンブレム、ほとんどいっしょだ。

当初1976年の冬季オリンビック開催地に決定していたのは、アメリカ コロラド州のデンバーであった。
コロラド州はアメリカ独立から100年後の1876年に誕生した州で、州誕生100年目にあたる1976年に向けて、大々的なイベントを計画していた。
そこで持ち上がったのが、冬季オリンピック招致である。
他に立候補していたのは、シオン (スイス)、タンペレ (フィンランド)とバンクーバー(カナダ)。
デンバーとシオンのデッドヒートの結果、デンバーが開催地に決まった。

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ところが、冬季オリンピックを開催するにあたり、地元コロラド州が負担する費用は500万ドル(当時)という莫大な金額。
そんな費用をかけてまで開催するべきかと、疑問の声が上がるようになった。
環境問題や観光への影響、直前のミュンヘン夏季オリンピック開催中に起こったテロの影響なども懸念され、市民グループによる開催返上運動が盛んになっていった。
そこで1972年11月、ニクソン対マクガバンの大統領選挙と同時にオリンピック返上が住民投票にかけられた。
開催派35万票に対して返上派は52万票、大会返上が決定した。
これを受けてIOCはインスブルックを代替開催地としたのである。

冬季オリンピックは夏季オリンピック以上に、施設を整備するのに時間がかかる。
デンバーが開催返上した時点で、新たな開催地を決めることは難しかった。
そこで既に大会開催経験のあるグルノーブル(1968年開催 フランス)か、インスブルック(1964年開催 オーストリア)かで行うのが妥当と判断し、オーストリア政府の後押しの強かったインスプルックに決まったというわけだ。

興味深いのはここからだ。
インスブルックでの2回目のオリンピック開催が決まると、1980年冬季オリンピック開催地にアメリカのレークブラシッド (ニューヨーク州)が正式に名乗りを上げた。
開催地決定の直前になって、対立候補のバンクーバーが立候補を取り下げたため、無投票で開催地に決定している。
商業主義が確立されていなかった1970年代は、最もオリンピックの開催が苦しかった時期である。
同じアメリカ人の都合で返上しておきながら、何ごともなかったようにまた手を挙げる。
こんなことができるのはアメリカだけだ。

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