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鴫野考 消えゆく長屋と蠢く町

築90年近い戦前長屋に住んでいる。というと古風な伝統家屋をイメージするだろうが、実際は内装も外装もフルリノベーションしているから、あえて触らなかったうだつと石貼の腰壁以外、元の面影はない。さらに時間差ではあるが横並びの2軒を買ったことで、それらをつなぎ、長屋は戸建になっている。面影はないものの、ちゃんと隙間風やネズミには悩まされているが。
我々が鴫野に越してきた7年前はまだまだボロの長屋はそこかしこに残り、二階建、平入りの町並みがつくるヒューマンスケールな街路が健在だった。
また、不思議なことにほぼ同時期に長屋が戸建に生まれ変わるニコイチ化がいくつか続き(しかも奇抜な建築家デザインではなく、普通に)、一つの再生モデルの萌芽に興奮したものだった。
ところが、おおさか東線が開通し、駅のポテンシャルが上がったためか、この数年は駅に近いものから削ぎ取られるように長屋が消えていった。
しばらくして、その跡には更地のときには予測しにくい小割でミニ戸建が建ち並ぶか、あるいは小ぎれいな賃貸アパートが建つのだった。
近世の大阪はかつて九割が長屋だった。裸貸という特殊な賃借システム(いわゆるスケルトン・インフィル方式)のもとに、住まい手の欲望のままに日々改変され、それが一つの生き物のように蠢く都市を形づくっていた。
しかし、近代化以降、あるいは高度成長期に応じて、長屋のうち質の悪いものほど払い下げられ分譲化していく。一方で、質の高い賃貸長屋は文化的な風情を保持しながら、かつて栄華を極めた大大阪の時代を色濃く伝えた。
後者がやがて長屋再生ブームで小洒落た店やライフスタイルを生み出す。長屋を懐古的に守るムーブメントが起きそうだった。
しかし、一方で質の悪い長屋が消えゆき、小さいが新しい、そして新たな住人を呼び込む戸建やアパートに変わっていくさまを、まざまざと眼前に見せられると、それはそれで当然の時の流れとして、健全な世代交代として、ちゃんと手を叩いて歓迎したくもなる。
長屋が消えゆき、街は様変わりする。かのように見えて、実はその切り刻まれた小さな単位や、相変わらずのスケール感、凸凹の屋根並みなどは、小さな投資や思いつきやいたずらで起きる小さな変化を日々のごとく創り出し、裸貸のシステムに踊り蠢いた、かつての大阪の都市風景(夢想の中の)を再現しつつあるようにも思える。そこには、懐かしさを身にまとった新しさすら垣間見える。

鴫野というまちを眺めながら、まちづくりなき街の可能性について思いを馳せた。

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