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もう一度キッチンに立つために

もう一度料理をするために文章を書く。左記の文章はバックスペースキーを押した後にタイプされた文章で、「もう一度料理をするために料理を書く」とタイプミスしてしまった程度には、料理をできていないことがわたしの心をうっすら覆っているここ2ヶ月。あと一歩、いや五十歩、炊飯器に手が届かない。料理とともに白米あるべし、縛り付けられた伝統的な食卓の画が飛び出してくる。ちゃぶ台、湯気がたったワカメと豆腐の味噌汁、焼き魚、夕方の匂い。

もやもやもや。料理に限ったことではなくそもそも人生自体、真夏の夕方の入道雲くらいあっさりと発生するのが行動を妨げるもや。いつかそのもやは晴れるのだが、自然界のもやだって別にもやの方が「そろそろ晴れますかね」と腰をあげたら晴れるのではなくて、もや以外の様々な要素が「ええ加減にしましょう」と調和して晴れるわけなので、わたしの料理ができないこのもやもやにも必要なのは「ええ加減にしましょう」なのである。その「ええ加減にしましょう」になるために、わたしはいま文章を書いている。

主題をもって文章を書くのもずいぶん久々な気がする。日記を書くことにかまけていたつもりはないが、自分の中の編集者に問うと「この2か月、『でも日記書いてるから』って5回くらい言ってましたよ」と返ってきた。2か月で5回。言い訳のスパンとしては絶妙である。たしかに日記を書いていると毎日のように日々を総括しているかのように思えるのだが、その実は刹那的な行為だと思う。いわば日記の日記だと思うが、日記をもとにした一定スパンの総括的なものを書かないと自分を見つめることはできないのではないか、ということを最近は考えている。考えた末に振り返ってみれば、2ヶ月というモーレツな期間、わたしは料理ができていない。

決して難しい料理を作る人間ではなかった。手の込んだものといえばせいぜい餃子くらいなもんで、それも行程が少々手間取るという意味であり、例えば白ワインを隠し味にしたりとかそういうことはしない(白ワイン隠し味で餃子をおいしくするすべを、少なくともわたしは知らない)。作ってきたのは地に足がついた、生姜焼きとか筑前煮とか焼き魚とか、そして何より何より豚汁とか。以前書いていた愛憎芸には豚汁が何度も登場していたので瀧本緑の熱心な読者はまたかと思うだろうが、実際2022年暮れのわたしを救ったのは豚汁だった。土井善晴さんに従って、日々にくさびを打つために毎日たくさん野菜を切って、日々キッチンに立ち作った豚汁がわたしのエンジンだった。エンジンではなくガソリンか。そういう違いを大切にしたい。

2022年の暮れから半年くらいは豚汁を狂ったように作り続け、何に貶められたわけでもないのに「救われてるわー」と嘯いてみたりしたのだが、2024年はじめにわたしに訪れた2022年の何倍もの苦境を豚汁は救えなかった。いや、豚汁に救われなかった。わたしの命はなお繋がっているけれど、豚汁とわたしの間にできた距離。5月、久々に豚汁を作ってみたときに、京都原了郭の黒七味を入れてしまったアレが決定打だったのかもしれない。あれほど「ブロッコリーを入れるだけでええんや」と言っていたのに!

豚汁にブロッコリーを入れるとほろほろした出汁が出てとてつもない旨さを醸し出すことを知っている人に出会ったことがない。こういうものを、世界の秘密という。世界の秘密は、それをいかに強く信じられるかという気持ちの問題だ。ビバ・精神論。その気持ちが弱まれば、「ブロッコリーを豚汁に入れる」というただの事実に成り下がってしまって、事実なんかなんにもおもしろくない。強く思い込みまくれた人が飛び切りの人生を送れる。陰謀論ではなく自分でつかんだ手触りの話。それを強く信じまくれ。半径1メートルの生活を。半径1メートルの生活!形は整っていなくても半径1メートルの生活を面白がるというのが、わたしの永遠のテーマだったはずではないか?

レンズを極端に絞って歩こう。湾曲したガードレールは、何かがそこに当たった時間が実在したことを示している。時間を投げ捨て街に目をやれば、街中のガードレールは思いの外たくさん歪んでいる。まっすぐ立っていないガードレールには誰かの絶望がほのかに香った。

時間を手放して転がろう。どうあがいても遠い誰かの時間を生きることはできない。目の前で野菜を切ることを尊がって、スマートフォンを手放してしまえ。生姜焼きを作るときの、醤油とみりんと料理酒が自分の黄金比で混ぜ合わさった末に生まれたあのハーモニーはどこで鳴っていたか。フライパンの上で生姜焼きが踊って見えた、盛り付ける皿の色によって変わるテンション、きっと味覚の大半を占める、ときめき、弾けて、

本稿を2日かけて書いた、たったそれだけで単純なわたしは料理を取り戻したいと思った。料理をしていたときの景色を思い出すことができたから。けれどさすがもやもや、そんなにヤワではなく今日も定食屋に行ってしまった。唐揚げ定食もやっぱりおいしい。それはそれでまあいいか。

そして。帰宅してはっと思い立ち、炊飯器に手を伸ばして鍋を洗って、米をといで、ご飯を炊いて、炊きあがったご飯をパックに詰めて、冷凍した。思わずよっしゃ~!と声が漏れ出る。王手。1死2・3塁。セットポイント。この状態のわたしは最初のおかずに何を選ぶのか、と想像するところまで、文章の力で運ばれた@2024年8月。

生活するを追い求めると確かに時間がかかる。しかし無くなっていくという感じではない。むしろ長くなったような気さえしてくるのが不思議。

柴田聡子『きれぎれのダイアリー』  2022.11 『人生の目的とは』

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