「ごまをすってお待ちください」
好きなとんかつ屋で「ごまをすってお待ちください」と毎回言われる。わたしは「はい」と応えて、言われたとおりにごまをする。「リスクマネジメント」と心の中でつぶやきながら、右腕も左腕もそこそこの握力、すってはやめで水を飲み、すってはやめで水をのみ、水がなくなれば注いで飲んで、レモン水だなと思ってごまをすり終え、そこでとんかつが到着とはいかず、手持ち無沙汰で飲んでは注ぎ、また飲んで注いで飲んでくらいでようやくとんかつが到着、かと思いきや味噌汁とご飯。少し後からとんかつは、遅れて来たヒーローというより実は主役だと照れ隠し。あれだけすったはいいものの、以前見かけた「まずは塩だけで味わってください」を思い出し、それなら塩のほうも削らせてくれよなどとは思わない。
周知の通り、「ごまをする」で辞書を引いたら「他人にへつらって自分の利益を計る」という慣用句としての意味にあたる。「ごまをすってお待ちください」。店は「わたしたちに媚びへつらってね」と言っていないし、媚びへつらったところで出てくるのは無料のおかわりか?ごはんとかキャベツのひょっとすれば味噌汁も。そもそもとんかつ屋の場合、大抵ごはんやキャベツのおかわりは一回無料だ。きっと大きな炊飯器や寸胴鍋がわたしたちの見えないところでホクホクぐつぐついわせているのだ。だから媚びへつらう必要など無く、ただひたすらごまをすっていればよい。
わたしが心の中でつぶやいたそれは、いつかどこかのとんかつ屋さんで「客にごまをすらせるとは何事か!」と大暴れする人が現れることについての恐れだった。しかしそれを恐れているということは、そうやって自分の正義に突き進み、結果として身体を暴れさせるに至る人のどこかに、自分自身の影をみているということではないか。将来とんかつ屋で暴れないために生きるということ。言葉のあやをすべてユーモアに換えて生きる決意。キャベツのおかわりをお願いしたら、もともとあった倍の量のそれが登場、いささか面食らいながらキャベツを食らい、これぞとんかつ屋の醍醐味だよねっと思うがほんとうにそうだろうか。
帰宅して、試しにXで「とんかつ ごますり」や「ごまをすってお待ちください」とエゴサをかけてみた。この行為が「仲間を見つけるため」だったのか「それが自分だけの感覚かどうか確かめるため」だったのかそのときは定かでなかったが、実際に目の前に広がったのは様々な人々が抱いた、自分と全く同じ所感だった。いや全く同じかはわからないけれど。それを見たわたしの顔は真っ赤真っ赤、心拍数があがるあがる、わたしはきっと、人類で初めて「ごまをすってお待ちください」とエゴサをかけた人間だと思い込んでいた、いやそう思いたかったのだった。
仮にわたしが月に行っても、月面に旗を、立てたとしても。それは既に、誰かが果たした偉業。でもわたしが立てたそのn本目はn本目だけ、たったひとつのそれであることは損なわれないのだった。必死にごまをする合間に、やってきた次の客がすり鉢をわたされてどんな顔をするのか観察して、レモン水を汲む回数を少し減らすくらいでよい。
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