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怒りと大声

 バス停に佇んでいたら、前にいた中年の男が何やらボソボソ言いながらこちらを見ていた。珍しくイヤホンをしていなかったせいですぐにそれを察知し、あまりに気色が悪いので、最近職場ですら崩れ始めているネオ・敬語「何すか?」を用いてお伺いを立てる。「ちゃんと並べないんだな❗️❗️」と大声をたてる中年の男。バス停にいたのは3人ほどで、当然私に彼を抜かす意思はなく、1番最後に乗れば良いから少し後方に佇んでいたのだが、彼に見えているらしい「列」には並んでいなかった事が気に食わなかったらしい。私は「あ、そういう事」と言ってそれ以上は話さず、かといって彼により引かれた「列」には並ばず引き続きその場に佇み、あと2分でくるバスを待っていた。

 見たこともない人間にそこまでの怒りをぶつけられるのは何故だろう、何があなたをそこまで強く導くのかと思う一方で、Twitterでは日々それが繰り広げられているから、実はこうして人生で何度か味わう理不尽を可視化できる最悪な世の中になったなと思う。

 でも、そのような社会全体へ目を向けた意識の高い考えよりも、ただただ自分の中でのみ完結するような思考が、言葉が、頭を駆け巡った。
 想定外の怒りに触れたとき、私の体は震える。あと喉の奥の方が気持ち悪くなる。想定外の怒り——大人になればなるほど、全ての怒りやお叱りというのは想定されたものになっていた。先方に怒られに行くためにアポを取ったりする。このように怒られるであろうしという想定をし、今後もお付き合いをするために、双方それなりの落とし所を想定する。
 しかし今回のようなケースは、猫騙しを喰らったかのように体を硬直させる。身近な人間の定期的に訪れた癇癪を思い出す。普段は大丈夫なことが急に大丈夫じゃなくなって、その感情を1番身近でありその怒りの要因たる私にぶつける。結構本格的にぶつける。昔はそれが純粋に怖かったり悲しかったりして泣いたりしてごめんなさいと言っていたけれど、だんだんそこまで怒りを表出させること自体が怖く、訳がわからなくなっていき、自分が悪いのに、怒りを表すために扉を強く閉めるその人を見て「モノに当たるのはやめよう」とかそんな無感情な部分ばかりが湧き上がっていき、湧き上がる無感情とは裏腹に、怒りをぶつけられているに相当しない無表情さが顔に出て、相手を悲しませていった。

 自分の中の正義を声高に叫んだあのオジサンは炭治郎や煉獄さんに似ている。みんな心の中に正義を抱えていて、でもそれを口に出すためにはさまざまな関所を通さなければいけなくて大抵途中で止まる。ましてその正義が社会通念ではなくて「自分ルール」であるとき、大抵全て脳内完結する。「並びができるラーメン屋に3名以上で来るときは他の客に申し訳なさを抱えながら麺を啜るべきだ」「他のラーメン屋のラーメンについて語りながらラーメンを食べるのは良くない」たまたまラーメンに関わることばかりが並んだが到底これらを口に出すことができない。もし口に出したとして冷静な口調でこれらを語るのは違うので怒りを伴うしかないのかもしれない。「3人以上で来るなら粛々と食えよ❗️❗️」「お前が今食べているのはどこのラーメンだ❗️❗️」

 心の中に抱えているものは同じなのに口に出さないというだけで大差だ。裏を返せば中身にあるものは同じだということが少し怖い。だがこの場合怒りを人にぶつけるから恐れを与えるのであって、いくら怒りを抱えていたとしてもニコニコしていれば少なくとも猫騙しのように人を震わせることはなく、平和を築くことができる。

 しかし怒りは無かったことにしてはならない。「怒ったところを見たことがない」人も確実に怒っているけれど表出させないだけで不意に大声が出ることがある。かつて私がトンビに襲われた時に出した大声、あれは紛れもなく怒りによるものだった。恐怖よりも「ふざけんな❗️❗️」が勝っていた。そのあと病院に行った。

 怒りや鬱憤を誤魔化しちゃいかんよな、と思った矢先の今回の出来事だった。社有車で1人ドライブしながら、車内で「アホ!ボケ!カス!おぎゃあ!」と叫んでいた。何に怒っていたのか?日々に。そうやって口に出すことで取れる肩こりがあった。自分は確かに怒っている!体のうちに残しておくよりは外に吐き出した方が何倍もマシ。それでいい気になっていたらしっかり怒りをぶつけられた。

都心に出るたびに得られる感覚は、時に自分を、小さな悩みから救ってくれる。これだけ多くの人がいるのだから、自分ひとりくらい、何をしたっていいだろう。一日くらいサボったって、何も変わらないだろう。都市の無関心な態度は、今日も個人を静かに許容してくれる。

カツセマサヒコ『明け方の若者たち』

 まさにこの感覚で都会を愛している。匿名性の中に身を投じつつもあくまで1人であることに幸福を感じた。そうやって外的要因を自分の選り好みのみで構成していたらエッセイに書くことが無いくらい人生が閉ざされていた。バチが当たったというか、風穴を開けられた感覚すらある。仕事を除けば、それなりの経済力さえあれば、本当に選り好みで生きていけるのではないかと思っていたがそれは欺瞞だったらしい。

 少し前の自分ならば、それに気づかせてくれたこの人にも感謝しないといけないとかそんなことを書いたのだが、それは単に諦めでしかないなと今は思うのでただただキレる。せっかくビジネスバッグ買って名刺入れ買ってイソップのルームフレグランス買ってめちゃくちゃいいバンド見つけたのにさクソが❗️❗️と怒りをインターネットに解き放つ。バス停を見る度に、存在しない列のことを思わないために。声に出さなかったから存在しない反論は死んだけど、怒りは確かにそこに存在していたのだから。

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