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あと何回 わたしの母の日は来るのか?


先週の日曜日は, 母の日だった。

母の日に考えたこと。

あと何回 母の日を迎えることができるのか?             「もしかすると母の日は今年が最後になるかもしれないのだ」

先週の母の日、離れて暮らす母にカーネーションの鉢植えを贈った。    毎年当たり前にように、母の日にはカーネーションを贈っている。     社会人になって以来だから、もう20年以上こんな日々を過ごしている。

今年の母の日、これからの時間について考えた。

当たり前のことだが、娘として生きてきた時間よりもこれから親子で過ごす時間は短い。

母は85歳だ。                             100歳まで生きてもあと15年の時間だ。                 娘として, この先、あと何回、母の日を迎えることがあるのだろうか。    私に与えられている時間は限られている。               この先、何回、母に会うことができるのだろうか。

父が亡くなり、いつか親は死んでしまうのだ, と知った。

子どもよりも年老いた親が先になくなるのは、             順番としては、正しい。

だが、親が老いてきた今、親が死ぬということが現実を帯びてきた。    いつか・・・ではなく, 数年後には・・・間違いなく, 私は親という存在を失うのだ。

父が亡くなり3年になる。                       ひとり残された母は, 父が迎えに来ることを待っているのだろうか?     残された母は, ひとり寂しく生きるよりも早く父の元に行きたいと考えているのだろうか?

母が死んでしまったら、親と呼べる人はいなくなる。

父が亡くなった後、父の大きな愛情を知った。              どんなに愛されていたのかを知った。

大人になり、小学生のように「お父さん大好き」と甘えることはなかったが、私は父が大好きだった。                     父の存在をなくして、人が死ぬということを知った。

次に母が亡くなったら、私は親を失うのだ。

親の思い、私に無償の愛情を与えてくれる人はいなくなる。       ただ、親として, 娘を愛してくれる存在を失うのだ。

「お母さんありがとう」                      「産んでくれてありがとう」                     伝えられるときに大切なことは伝えておこう。

時間は限られている。                         母と娘として、生きられる時間を大切にしよう。

これまで過ごしてきた時間にはかなわないが、これからの時間を悔いのないように送りたい。

与えてもらった愛情に、娘として, 応えたいと思った。

これまで娘として過ごしてきた50年、                 振り返れば、もうあんな時間を持つことは叶わない。

私は母親にはならなかった。                      この先、私の血を継ぐものはいない。                  だから、母の存在がなくなったら, 私の直系はいなくなる。         血を分けた親子という存在がなくなる。

母親にはならなかったが, 私は子どもという存在である。          人は必ず誰かの子どもである。

いつか遭遇するであろう親の死。                    母の日に当たり、そんなことを考えた。






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