ココロは疲れる、カラダ以上に。(「アメリカン・スナイパー」雑感 )/今週の、いちばん。46
*映画「アメリカン・スナイパー」の内容に結構ふれているので、これから映画をご覧になる方はご注意ください
前にいた会社で、本を編集し終えるたびに、風邪などで休む上司がいた。
自己管理ができていないと言えばそれまでだけど、気持ちはわからなくもない。
編集という仕事は締切のプレッシャーが強いから、本を作り終えるまではなかなか休めないし、著者などを相手に四六時中気を張っている。
そうして、心身ともにたまった疲れが、無事本ができた解放感から、一気に表面化するのだろう。
「アメリカン・スナイパー」を見終わったあと、僕はふいに、その上司のことを思い出した。
もちろん、中肉中背のオジサン編集者である彼と、ブラッドリー・クーパー演じる、恵まれた体躯の「伝説の狙撃手」クリス・カイルに、共通点らしきものはない。
だけど、自分でも気づかないまま疲れ(特にココロの疲れ)をためこんでいた、という意味では両者には通じるものがあると僕は思う。
映画の中で、クリスが人(敵)を殺すことをためらう様子は、ほとんど描かれない。
自分をアメリカとアメリカ軍を守る「番犬」のように思っていた彼には、それが当然のことだったろうし、またその逡巡が戦場では生死をわけるのだろう。
ただ、くしくも幼い子供が武器を手に取った2つのシーンで、クリスが心をすり減らす様子が映し出される(結局、1回は撃ち、もう1回は撃たずにすんだ)。
あのような「判断」を繰り返していれば、どんなに立派なカラダをしている猛者でも、ココロの奥に、似た境遇の者以外には理解されない疲れがたまっていくはずだ。
映画の終盤は、クリスが回復する様子を駆け足で追っていく。
退役兵との交わりで少しずつ自分を取り戻していくクリスは、前線を離れてもまだ「番犬」として生きていたとも言えるし、(妻のタヤの言葉になぞらえれば)「カラダは戻っても、ココロが戻っていない」人間同士にしか、わかり合えないことも、きっとあるのだろう。
だが皮肉にも、彼は、その退役兵の一人に生を奪われた(この映画を見る直前、射殺犯が終身刑を言い渡されたことを知った)。
ココロは、ときに自分の想像以上に疲れをためこむ。
それを克服する強さは人間には備わっているというスタンスで僕は生きているけれど、回復のスピードは人によって違うし、受けた傷によっても違うだろう。
「シールズ」のようにどんな屈強なカラダを持っていても、ココロは疲弊し、ときに壊れる。
戦争とは、どんな大義名分があっても、つまるところ、そういう場所だ。
今週のいちばん、「ココロ」の痛みを見つめた瞬間。それは3月1日、新宿の映画館で「アメリカン・スナイパー」を見た瞬間です。
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