脚本のあるVTuberは、人間なのか、キャラクターなのか。

1.キャラクターに人権は存在しない。

以前別所にて、御伽原江良さんの配信についての記事を書いた。

先に言っておけば、私は御伽原さんのことが特段好きではない。
VTuberグループであるにじさんじの新メンバーとして活動していることは、にじさんじのファンとして喜ばしいことで、歓迎はしている。
だがべつに配信を追いかけているというほどには、特別にファンというわけではない。
しかし上記記事で扱った問題は、明らかにデマが蔓延する原因となっていた為、デマへのカウンターとして記事を書かせてもらった。
ギバラ(御伽原さんのあだ名)のことは好きでも嫌いでもないが、デマゴーグは親の敵のように憎んでいる。

さて、その記事では最後に「VTuberは人間なので敬意を持って接しなければならない」と結んだところ、「キャラクターにも敬意を持つべきではないか?」という意見が寄せられた。
これが実際に考えてみると複雑な問題で、本note記事を書こうと思ったきっかけになっている。意見を頂いた方には感謝したい。

その問いかけに率直な回答をしてしまえば、「キャラクターに人権は存在しない」
キャラクターに人権があった場合、自由な創作ができなくなるし、非実在児童の扱いなどについてとやかく言うのは特筆するまでもなく愚かしい行為である。空想と現実の区別は付けなくてはいけないし、キャラクターに向けて特段敬意を持つ必要はない。

だが、その裏にいる人間には敬意を持たなくてはいけない。
著作権に代表される権利は、そのキャラクターを創作した者が持つ権利であるし、そのファンもまた蔑ろにしてはいけない存在だろう。
しかし少なくともAIで自動的に動くキャラクターが出現するまでは、我々は創作の中で人物たちが置かれる様々な不遇な状況を規制したり、不幸な境遇について考慮する必要はない。

だが、ここで一つ問題が生じる。
おそらくこの問題が、質問者の方が懸念していた事であろう。
「演者とは別の人に人格を定義されたVTuberは、人間なのか、それともキャラクターなのか」という問題である。


2.VTuberは人間か、キャラクターか。

改めて言うと、VTuberとは「バーチャルユーチューバー」のことであり、「キャラクターのガワを被って生配信・動画を出すYouTuber」を指して使われている。

そんなVTuberの中でも、個人で行っているVTuberや、上記御伽原江良さんの所属している「にじさんじ」などは、基本的にその人格は個人に依存していると言えるだろう。
もちろん配信用のキャラクターは大なり小なり作られてはいるものの、演者と脚本が別れているわけではない。完全に個人の意思で、人格で話している。
よって引退者が出る場合、別人がキャラクター設定や外観を引き継ぐことはない。
実際に本名で活動しているわけではないのはファンもわかっているが、ガワと中身は同一視されているのである。
タレントと同じ「芸名」のような扱いと言える。
だから、上記記事でも「VTuberは人間である」と結論付けている。

これは既存の「声優」の形とは大きく異なる。
たとえばアニメやゲームであれば、声優さんが体調不良などでキャラクターを演じることが難しくなった場合は、代役を立てることになる。Fate / Grand Orderのマシュ・キリエライト役の声優さんなどが最近の代表例となるだろう。
それと違ってにじさんじや個人勢においては、演者の引退はVTuber活動の停止を意味する。演者=VTuber本人だからである。
(VTuber界隈では演者のことを『魂』と表現する文化があるが、今回はVTuber文化を詳しく知らない人に対してもわかりやすく伝える為、『演者』と表記している)

さてそのようなVTuberは「VTuber=人」と扱って問題はないはずだ。
キャラクターではなく、アイドルや芸能人と同じ『タレント』であり、人権を持つ相手として扱うのが妥当な話だろう。
だが、今回問題となるのは「キャラクター性すらも作られたVTuberは、『人権』が存在するのか」という問題である。

もちろん前述した通り、キャラクターに人権はない。あってはならない。
では、このような完全に創作されたVTuberは果たして人として扱うべきなのか、それとも創作した権利者にその権利が集約されるべきなのだろうか。


3.脚本のあるVTuberは、人間か、キャラクターか。

まず例として、キャラクター色が強いVTuberを挙げてみよう。
先日労働問題が話題になった「ゲーム部」や、昨年ツイッターアカウントを使い声を上げた「アズマリム」さん、他にも元々はニトロプラスのイメージキャラクターからVTuberとなった「すーぱーそに子」さんなどは完全に「作られている」ことがわかっているVTuberである。
そに子さんにおいてはVTuberになる前とでは実際に声優が変わっているし、アズマリムさんにおいてはプロデューサーが自らを「原作にあたる」と表現していたりする。
つまり動画の脚本やプロモーション方法について演者以外の別の人間が介在し、演者がこれまでの声優業の延長線での活動をしているのがこれらVTuberと言えるだろう。

このような「キャラクターとして作られたVTuber」に、人権はあるのだろうか?

結論から言えば、「演者側に人権が発生してしまう」というのが私の持論である。
もちろんこれは権利関係の話ではない。
実際の商用に使える権利などは全て制作企業にあるのは自明の理だ。
だが現実問題として、ファンの心理においては演者側に人権が存在すると見てしまうのである。
なので演者を変えた場合、そのVTuberは死ぬ。(正確には振り出しに戻る)

これは決して、「私がそうであって欲しい」と願って言っているわけではない。
むしろ私は創作者側の人間なので、自分が創作したキャラクターが他人の所有物になってしまっては、悲しい気持ちになることだろう。
だが現実問題として、演者が変わるとVTuberは死んでしまうのである。

それはなぜか?
いったいキャラクターと、VTuberの違いとはなんなのか?

その一番の差異は何てことはない、「バーチャルYouTuberとは、YouTuberの一種だから」なのである。


4.Virtual YouTuber とは、何者なのか。

YouTuberとは何か。
それはYouTubeで動画配信を行う人のことだ。
日本人ではヒカキン氏などを代表とする、テレビなどの既存メディアに依存しない新世代のタレントの事を指すと言える。
彼らは自らの意思で配信し、自らの言葉で視聴者に語りかける。
中には裏側に脚本を考えるプロデューサーがいるYouTuberもいるだろうが、それを表に出す人は少ない。

さて、ここで少し考えてみて欲しい。
たとえば別人が脚本を考えるYouTuberがいたとして、ある時から名前がそのままで演者を変えて活動し始めたら、それまでの視聴者はついて来るだろうか?
そのままファンになるとは考えにくい。
それはYouTuberでなく、芸能人やタレントでも同じことだろう。
ある日松本人志を別の人が襲名したところで、それを同一人物だと思う人間はいないだろうし、そのままファンが移行するわけでもない。

だが最近何かと問題となったVTuber企業たちはそこを勘違いしていた。
既存のアニメや声優業界に倣い、演者を変えてもVTuberがキャラクターとして成立すると考えていた。
なぜなら外見や名前、そしてその性格やキャラクター性はそのまま残るはずだったからだ。
だが演者が変わると、ファンはそれを同一人物だとは認識できない。
名前が一緒でも。
外見が一緒でも。
そこに脚本があろうがなかろうが。
ゲームプレイは別のプロゲーマーのプレイを使っていようが。
ファンにとっては一切関係がない。
声を出し、演技をするその人こそが本人だと認識しているからである。

なぜなら彼らはYouTuberであり、芸能人やタレントと同じ”人間”だからだ。

ファンにとっては「本人がVTuberとして活動している」ということが真実であるし、特に企業側が「本人がやっているという体裁で活動している」ことも多い。
そこに(不可抗力的にではあるが)「『本人自身が配信している』と、視聴者を騙してファンを獲得した代償」が生じているのである。
(一部、DWU氏などは明確に脚本があることを示唆している)

もちろん企業のその行為自体を批判しているわけではない。
普通に考えて企業VTuber動画に脚本スタッフがいたり、キャラクター性のプロデュースに何人もの人間が関わっていることは想像が容易い。
それを批難するつもりもなければ、むしろ企業として合理的で優れた手法であると言えるだろう。
もっと言ってしまえば「それぐらい騙されたファンが悪い」という言い方すらできるし、「夢を与えている」ことが悪いことだとも思わない。

だがその善悪はさておき、実際ファンの心理として「声が変わったら別人」と思ってしまうのである。それぐらいに、「配信は本人がやっている」という認識がファンには強い。
なぜならVTuber、ひいてはYouTuberやタレントは、「自分たちの言葉で話している」という前提があるからだ。
ステルスマーケティングにおいても、それがマーケティングであると知られた場合は消費者の心証が悪くなるのと同じことである。
たとえ「嘘は言ってない」程度であっても、相手の勘違いを利用した手法は、消費者側は「騙された」と感じてしまうものなのだ。

そのようにVTuberの本質を見誤り「VTuberはキャラクターであり、演者は代わりが効く」と企業が考えていたことが、昨今の企業・VTuber間で起こった一部の問題の本質にあると思える。
VTuberをプロデュースする場合、外見やキャラクターをプロデュースするのではなく、演者をプロデュースする必要があったのである。


5.VTuberという、人間性のコンテンツ

ただでさえVTuber3Dボディの制作には数千万の金額がかかると聞く。
その他にも機材の調達など、多額の資金がかかる世界である。

だがVTuberの魅力の本質は、外見や動画のクオリティに依存するわけでは決してない

ケリンを初めとした初期投資額が少ない個人勢が活躍しているのはもちろん、最初にキズナアイが海外でバズったときも、本人の「ファッ〇キュー」と言うアドリブが取り沙汰されたからである。
即ちこれは演者の人間としての魅力が起因であると言えるだろう。
(ちなみにキズナアイが日本でバズったのは、ニコニコ動画で「野獣先輩」に触れた切り抜きから視聴者を逆輸入するような形だった。これもアクシデントという意味で完璧ではない人間性が原因といえる)
ねこます氏(バーチャル狐娘のじゃロリYouTuberおじさん)が外見とは裏腹な声で「世知辛いのじゃ~」という名言と共にVTuberを世間に爆発的に広げた起因となったのも、にじさんじの月ノ美兎委員長が自己紹介動画から「モツ鍋とビーr……」と高校生設定を放棄していったのも、全て「キャラクターとしてではない、人間としての魅力」がアピールされた結果と言えるのではないだろうか。

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※指摘あったので追記
もちろん中にはキャラクターとしての完成度でウケている人もいる。
ロールプレイの完成度の高さを評価されている人もいれば、のらきゃっと氏やげんげん氏のように、創作キャラクターとしての完成度を追求し、それがウケているタイプのVTuberもいるだろう。
この場合2つのタイプがあり、体裁上「それが素の本人である」と夢を与えている場合と、「それが創られたキャラクターである」と公表されている場合がある。
後述するが、前者の場合は一定のリスクを負うことになる。逆に後者の「バーチャルキャラクター」とでも言うべき存在は、VTuberの多様性としての希望となるだろう。

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演者と所属企業が対立したとき、ファンが演者側に立ちやすい現象もその裏付けになる。
「企業側の中身が見えない事が原因」とも言われるが、それよりも重要なのは「ファンはVTuber側の人間性に惹かれている為、VTuber側に付きやすい」というのが本質かとは思う。
(実際、アップランド社であったデビュー前のVTuber候補の人から問題提起があり双方からの意見が出された問題については、盲目的な企業側への批判は無かったと思う。双方からの説明があったとき、必ずしも中身が見えにくい企業側が悪者になるわけではない。それだけファンには、演者側への人間性に対する良い印象があるというだけだ)


つまり結論としては、(実際の権利はともかく)ファンにとってはVTuber=演者=人間であり、そこに人権が見出されるという図式が成り立つ。
なので企業はそれを尊重しなければ運営を失敗してしまう。
演者を変えたりしては、ファンが離れるだけである。
なぜなら、演者が変わった後のVTuberは別人だからである。

巨額の投資をした上で、演者に不満を持った・酷い演者に当たってしまった企業は実際にいると思う、というかいた。見た。
だがそれは「VTuberのことをよく理解せずに投資してしまった方が悪い」としか言いようがない。
本来は一番慎重に決めなくてはいけない場所・一番力を入れなくてはいけないポイントを蔑ろにしてしまったのだから、それは自業自得と言わざるをえないだろう。
たとえるなら、「アイドルをプロデュースするのに、適当に選んだ人に、数千万かけて楽曲を与えた」ようなものだ。
本来金と労力をかけるべき場所が違ったのである。
(もちろん運営側に非がなく、ただ運が悪かった例もあるが……)


VTuberは誰でも自由な外見を取れる世界だ。
だからこそ外見の有意差はなくなり、その内面の人間性こそがメインコンテンツになっている。
企業がその本質を見極められていなかったことこそが、一部VTuberと運営企業の対立が表面化した真因だろう。


6.企業VTuberに残された課題

以上が本件「VTuberは人間なのか」という問題への結論になるのだが、現在活躍する企業VTuberに対して、今後への懸念も残る。

前述したスーパーそに子や、サントリー社の燦鳥ノムは、社のイメージキャラクターという側面がある。
前言と相反するわけではないが、これは一概に「人間である」とも言いにくい種類のVTuberだ。
というのも、十年二十年と続く可能性まで見るなら、演者の代替わりは必須だからである。かといって、その度に企業のイメージキャラクターの外見を変えてしまっては、イメージキャラクターにならない。
しかし前述した通り、VTuberは普通に代替わりしては同一人物と見なされることはないのである。
スーパーそに子などはVTuber以前からキャラクターとして成立している為、ある程度は許容されるのだろうが、ノムさんなどは新規キャラクターとなる為、代替わりが受け入れられるかは難しいところだろう。
これにはどう対応したらいいのか。

一つの解法として、何らかのイニシエーション(戴冠式のようなもの)を行うことは解決の糸口となるだろう。
落語界などにある襲名制度などに見習う、今の時代にあったイベントを行えば、二代目がファンにも認められる可能性はある。演者もファンも全員が笑顔になれるような内容が望ましいのだろう。
ただしこれは不測の事態(不慮の事故など)には対応できない。
このような、キャラクターをキャラクターとして単純に扱えない使いにくさは、新規企業参入の障壁となるかもしれない。

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※指摘あったので追記
また、別解としては最初から「キャラクターである」と名言する方式もあるだろう。
のらきゃっと氏のように声を機械音声にしている場合などは特にわかりやすいが、最初から「キャラクターであり、脚本、演者は誰かなどの情報を全て公開する」という手法だ。
なぜなら「VTuberの演者を交代させる」ということに対して企業への批判が伴うのは、「演者本人がVTuber活動をしている」という誤解から発生する感情が大きいからである。
よって最初から「演者は声を当てているだけ」というビジネスライクな関係であることを公開していれば、演者が交代しても「声優交代」として処理されるだけだ。
重ねて言うが、現在参入企業が思うように演者を扱えない原因はそこにある。「流行っているから」という理由でVTuberという概念を利用したツケが回ってきているのである。

気軽に取り回しできるVTuberが欲しかったなら、最初から「バーチャルキャラクター」として声優も脚本もその他動画制作者も公開した上で活動を始めれば良かったのだ。
そして企業のイメージキャラクターとして創られるVTuberなら、そちらの方が安全で、そして何よりも誠実にファンに向き合っていると言えるだろう。

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VTuberには代替わりが許容されるVTuberもあって欲しいとは思う。
その解決手段は非常に難しいが、是非とも今参入している企業には頑張ってもらい、後に続くモデルケースとなって欲しい。
企業も個人も参入しやすくなれば、VTuberの市場規模が広がり、これからもVTuberという文化が長く続く希望となりうる。
企業、演者、ファン――全ての人間が納得する形を模索することは、きっとVTuberが末永く存続する未来に続く最短のルートとなることだろう。

以上、願わくばこれからもVTuber界が盛り上がりますように。

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