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〈贈与〉の条件

博論執筆を通じ、自身のなかで少しずつ〈問い〉――自分がとりくむべき世界/社会の謎――がその輪郭を現わし始めたという感覚を得ている。まだうまく言語化できているわけではないが、それは次のようなものだ。すなわち、私(たち)は、私(たち)が自由に生きられるようになるための、私(たち)自身がそれに関与し、そのありようを統御できるような〈市民社会〉をどのように、〈いま・ここ〉で構築し、それを維持していけばよいだろうか、という問いである。

〈市民社会〉とは、行政セクターとも市場セクターとも親密圏セクターとも異なる「中間圏」であり、それらの残余として消極的に定義される他ないものである。しかしながら、そのあいまいさにも関わらず――あるいはそれゆえに――行政や市場や家族が手の届かない諸課題にアプローチでき、実際にさまざまな成果をあげてきた領域といえる。日本では、NPO法(1998年)がその主な制度的表現となり、以後20年以上が経過している。

かような〈市民社会〉ゆえに、そこには近年、政府や市場、家族より、それらが担いえない社会課題の移譲が期待され、ときに企図されるようになってきている。民主党政権下での「新しい公共」、安倍政権下での「地域共生社会」のように、政権のスタンスを問わず、〈市民社会〉にはガバナンスの一角を担うようにとの強い期待が、新たな規範として生成しつつある。問題は、そのための条件整備や予算措置などを欠いたまま、それが進められていることだ。

都市――それはさまざまなソーシャルキャピタルを醸成する場である――がその代替物を供給してくれているような環境ならともかく、現代の日本では、多くの人びとにとって〈市民社会〉はそれほど身近な存在とはいえないだろう。それが地方の偽らざる現状である。とすれば、地方のような場所で、そこにどうやって〈市民社会〉を生み出し、機能させるか、そのために何が必要となるか、が問われなければならない。

筆者がかつて、山形市を拠点にはじめた〈居場所づくり〉は、ふりかえってみれば、そうした〈市民社会〉の希求であったといえる。どちらも、創設した人びとの〈贈与〉においてとりくみがたちあがり、その連鎖が展開していった活動である。多くのNPO・市民活動や社会運動もそうであろう。では、そうした〈贈与〉を可能にし、それをおこりやすくするための条件とは何か。とりわけ、その地方版とは? そうした〈問い〉をめぐって考え続けている。(了)

『よりみち通信』16号(2020年12月)所収

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