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代書筆14 終戦。そして・・・

戦時中の善化

 戦争末期、米軍は台湾全土を空襲したが、善化は大都市ほどひどくはなかった。主に製糖会社がやられた*ものの、駅、鉄道、用水路は無事だった。ただ製糖会社では、1カ月分の砂糖がダメになったという。善化の町なかで1番ひどかった空襲では、500kgの爆弾が落ちた。地下3,4mまで吹き飛び、駅(1km以上の距離)まで破片が飛び散った。私は、B38機が機銃掃射で町を攻撃しているのも見たことがある。3階建ての家が跡形もなく破壊されてしまった。

1943(昭和18)年の善化の街並み。
製糖工場は町はずれにありました。

 善化に日本軍の部隊は駐屯していなかった。一人の少尉と4人の兵から成る小隊は見たことがある。台南では、今の台南駅~成功大学にかけて第4連隊がいた。軍規は厳しく、民間人との往来は一切なかったので、様子はよく知らない。

 戦争末期になると、みな次第に戦況について話さなくなった。ごく少数が戦況の変化を知っていたが、取り締まりが厳しかったので、口に出す者はいなかった。私は防衛団(孫氏はその責任者の一人でした)にいたが詳細は知らず、もし知っても黙っていただろう。

 例えば、隣町に台湾人医師がいた。豚の皮を軍用品の材料として徴収された時、彼は「豚の皮がなくなったら、次は人の皮かな」と冗談を言った。すると汽車に乗っていたところを突然逮捕され、8カ月の懲役刑を言い渡されたのである。台南の裁判長に、私は「なぜこんな重い刑にしたのか」聞いてみた。すると彼は「個人的見解ではない、国策だ」と答えた。これが台湾統治のやり方なのだ。このように物資欠乏についてすら、話題にできなかった。
 この裁判長は、かつて宮中晩さん会や園遊会にも呼ばれたほどの名士だった。終戦時は台北の高等裁判所分院院長を務めて、その後日本へ引き揚げた。

*日本時代の台湾南部の基幹産業は製糖業でした。米軍は経済的打撃を与えるために、各地の製糖工場を攻撃したのです。そのため各製糖会社で、敷地内に防空壕を造りました。なお米軍は、どこの町でも初めこそ軍事施設や製糖会社を狙いましたが、次第に台湾の民間人が多く暮らす町なかや農村にも爆弾を落とすようになりました。外で農作業していた台湾人(この時代、台湾に日本人農民はほとんど存在しない)が狙い撃ちされたこともあったそうです。

高雄市郊外の橋頭(旧・台湾製糖敷地)に残る防空壕跡。
門扉は近年付けたものです

終戦直後のリンチ

 敗戦の知らせを聞いた私は、特に動揺しなかった。何か特権を持っていたわけでも、日本人の代わりに何かしていたわけでもない。ただし、ことは簡単ではないと思った。

 聞いた話では、降伏について、天皇は自ら御前会議を4度開いたという。天皇は何も言わずに、座っているだけだった。「国民はみな生き永らえるより玉砕を選び、降伏するつもりは毛頭ない」と天皇は思っていた。しかし他に道がないため、降伏文書にサインし、陸軍大臣の阿南が戦争責任を負って自決した。

 終戦直後の台湾では、多くの日本人、そして日本に手を貸していた台湾人たちがさんざん暴力を受けた*2。善化と隣村を取り締まっていた某日本人警官は、性格が悪かった。彼がいじめていた地元民たちは、彼を殴ってうっぷんを晴らした。私の代書屋の元弟子も警察に派遣されたが、彼は人柄が良く、面倒見が良かったので、そういう目には遭わなかった。別の台湾人警察官は正直で不正を嫌う人だったが、犯罪には大変厳しかったので、終戦直後は報復を恐れて身を隠した。

*2 終戦直後は多くの警官や、台湾人にいばっていた日本人たちがリンチを受け、死亡するケースも珍しくありませんでした。かつて逮捕や取り締まりをされたヤクザが、警官に報復した例も多かったとか。また中・高校では、日本人の教師や学生が、台湾人学生から暴力を受ける事件が多発したそうです。逆に日本人の困窮を見かねて、秘かに差し入れをする台湾人もいました。


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