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代書筆6 保甲書記から商人へ

日治時代の保甲制度

 大正11(1922)年4月、私は保甲書記になった。月給は6円。役場の事務員は15~25円、学校教師は20~30円の時代である。 

 保甲書記になるには、何の資格や試験も必要ない、全てはコネだった。
かと言って、誰でもなれたわけではない。私の場合は、父が20年以上も巡査補をしていた関係が大きかった。
 巡査補は普通1~2年で担当地域が変わる。地元民と結託して良からぬことを起こさせないためだ。父は勤務態度が良いうえ、戸籍関係から通訳まで何でもやっていたから、当局は父を重宝がって辞めさせないようにした。兄がまず保甲書記になり、父が代書屋になってからはそれを手伝うようになったので、私が保甲書記の欠員に充てられた。

 保甲とは、村のことだ。派出所には警察官(日本人)が一人いるだけで、保甲書記の事務所がくっついていた。警察官の通訳やパトロールの同行から、戸籍調査、村落の水路や道路の見回り、家畜の登録など保甲書記の仕事は幅広い。警察、保正(村長)、保甲書記は形式上では独立していたが、実際は警察が全てを牛耳っていた。保正と保甲書記は何の決定権も持たず、提案すらできず、彼らの指示通りに動くロボットに過ぎない。ただ警察に近い分、保甲書記の方が力はあった。
 例えば日本時代、家畜をつぶす時はとさつ場で行う決まりで、しかもその度に税金がかかった。納税を確認した保甲書記は、豚の皮の上に紫色のスタンプを押す。保甲書記の力は強かったので、豚をつぶした後に人々は保甲書記に肉を届けたものだ。ワイロやいろいろなことを、地元民に要求する欲深な保甲書記もいた。

 保甲書記の仕事は忙しいわりには、雑用が多い。しかもどれもつまらなくて、何の学びにもならないと思った。
 稼ぎも良くないので、若かった私は8カ月で辞めてしまった。

雑貨店を開く

 池田という日本人が、善化で雑貨店をやっていた。大正12(1923)年、そこの経営が思わしくなく、店を売りたがっているという話を聞いたので、その話に乗ることにした。手持ちの金はあまりないから、頼母子講(たのもしこう)*を利用した。大正時代の善化には2組の頼母子講があり、1組は私が発起人であった。

*一種の互助会。メンバーでお金を集めて積立て、順番あるいは資金が必要なメンバーに積立金を渡す。借金とちがって利息がかからないという利点があります。

 店を手に入れた私は、玉記商行という名に変え、弟と遠縁の少年、さらにもう一人の合計3人を雇った。配達など外回りは彼らにさせて、私は店内にいて経営にあたった。お客が来るなら、営業時間は長いほどいい。だから店は朝5,6時から深夜12時まで開けていた。
 玉記の商品は、ほとんどが日本人向けだった。来るのは製糖会社社員、教師、警察官など。製糖会社には大きな売店があるが、社員以外は入ることができない。品ぞろえは玉記とそれほど変わらないのに、製糖会社の人も結構店に来た。

1927年の年末セールの様子。左側が孫氏。
なお表紙写真は開店当時の様子で、右の人物が孫氏の父親。 

日本人の待遇は良かった

 ちなみに台湾に住む(勤め人や公務員の)日本人は、毎月給料に加えて6割増しの外地手当が、そして来台して6年経つと恩給が付いた。タバコ、塩、酒、樟脳も日本の専売だったから、日本人の待遇は良かった。日本人が玉記でよく買ったのは味噌と醤油。市場は不潔で値切りも必要だから、日本人はあまり行きたがらない。店に注文する方が多かった。前日か当日朝に注文すると、日中配達に行く。郵便局長の夫人などは、ひと月に50円以上も注文していた。

 裕福な台湾人もたまに来たが、当時の台湾人は本当に倹約していたから、めったに来店しなかった。ましてや、田舎に住む普通の台湾人はまず来なかった。

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