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代書筆8 日本時代の衣服事情

服は手作り

 日本時代、着るものはみな粗末だった。たいていの人が、ツギの当たった服を着ていた。私が学校へ行く時は、台湾シャツを着た。これは男物は真ん中で割れており、女物は斜め開きになっている。どちらも布ボタンが付いていた。私の父は、生涯これだけ着ていた。

 服はすべて、家の女性が作る。兄嫁や姉たちも、みな服を縫えた。それを何度も直しては着る。ミシンは少数の家庭にあり、みな人に教わらず自分で使い方を覚えた。長姉は読み書きはできなかったが、裁縫の才能があり、ミシンを器用に使い、花の刺しゅうも下書きなしでやっていた。当時の庶民は新しい服はめったに作らないが、婚礼の前は別であった。花嫁衣裳、頭飾り、刺しゅう入り枕、寝台カバーなど、みな新婦が自分で作る。

 洋装はまだ少なく、買う時はたいてい台南へ行った。善化にも洋装店は1軒あって、ここでウールのジャケット、ズボン、ベストを揃えると17~20円だった。私は玉記商行を開いてから、だんだん洋装をするようになった。昭和3(1928)年に撮影した記念写真*1は、スーツに蝶ネクタイを結び、眼鏡をかけ、鳥打帽をかぶっている。イギリス式ウール帽子も持っているが、これは台南の林百貨店*2で買った。ここは台南最大のデパートで、土地銀行(戦前は日本勧業銀行)の向いにあり、何でも売っていた。
 この付近は「台南銀座」とか「銀座会」と呼ばれる繁華街で、4代総督・児玉源太郎が整備した。大正公園(現在の湯徳章紀念公園)には総督の石像が立っていた。

*1 本書の書籍表紙は、この写真です。

*2 

現在の林百貨店。6階建て、台湾南部で唯一エレベータがあり、それも人気を集めました。5階までが売り場、6階は展望室でした。
近年になって元の場所に復元され、今は台南の観光名所の一つです。中にショップもあります。屋上は庭園になっています。

履き物

 昔の人は、たいていゲタかぞうりだった。私は子供の時は裸足だったし、大人でも多くが裸足だった。私が雇っていたある書生は学生時代、靴は持っていたがそれを長持ちさせるために、行き帰りは手に持って通学した。校門に着くまでは裸足で、学校の中だけ履いていたという。服と同様に、靴も穴が開けば直して履いた。

 日本人は足袋をとても好んだ。白色の木綿製で、男性も家で履くことがある。ほかに生地の厚い黒色(地下足袋のことか)もあり、これは屋外で作業する時に履く。

 私の子供時代には、纏足の女性がたくさんいた。私の母や姉もしていたし、妻は子供の頃はしていたが早々とやめた。日本統治になってから纏足は禁止されたが、風習は簡単に変えられない。私より上の世代は女性美の条件に纏足があり、していない者は家柄が良くない者と見られていた。纏足の人が履く靴「三寸金蓮」は、自分で作るか、友人や近所に頼んで作ってもらう。女性は結婚前に何足も作り、婚礼当日に嫁ぎ先の年長女性たちにそれを贈る。妻の場合は相手が十数人もいたので、その分を全部作った。それを見て先輩女性は、新婦の手先が器用かどうか見極めるのである。

補足:上記の文章は台湾人庶民の話で、台湾在住の日本人の大半(全員ではない)は、豊かな暮らしをしていました。例えば台南屈指の名門女学校(かつての台南第一高女)では、生徒も教師もかなり良いものを着ていたことが下の写真でわかります。

戦前の台南第一高女の集合写真。ここの制服制帽は、台湾南部に住む日本人少女の憧れだったそう。
女性教師はドレスを着ています。


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