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代書筆5 息子と娘~養子を迎える

 妻との仲は円満だったが、ついに子供はできなかった。当時の考え方では「不孝に三つあり、跡継ぎ無きが最も大」だったので、妻は大変悩み、私に「他の方をもらってください」と言い続けていた。日本時代は重婚が認められており、多くの男性が複数の妻を持っていた*1。妻の兄も3人の奥さんがいた。だが「何事も無理に進めるな、無理にやるとさらに悩みが増える」というのが私の考えだった。それに、子供のことで私の父も何も言わなかったので、別の女性をもらう代わりに、(結婚して3年余り経った頃)養子を迎えることにした。

*1 『代書筆~』の別ページによると、当時は3,4人の妻を持つことが普通で、裕福な人になると8人もいたそうです。

息子のこと

 息子は長兄の次男で、赤ん坊の時にうちに来た。公学校を出た後、長栄中学に進学した。公学校には良い先生がいて、進学希望者のために補習をしてくれた。長栄中学はキリスト教の学校で、加藤海軍大佐が校長を務める名門校だったが、政府の認可校ではなかった。そのため、卒業しても何の資格にもならない。それで私は息子を東京の荏原中学へ入れ直し、卒業後は岩手医学専門学校へ進学させた。息子は入学から全部自分で手続きし、私は付き添わなかった。台南から汽車で基隆、そこから船で日本へ行く運賃は、学生割引で合計16円だった。
 日本の学費は高く、生活費も合わせると毎月35円仕送りしていた。これは公務員の月給相当だ。医学生は本当にお金がかかる。一人育てるのは容易なことではない。持ち家のひとつを売って、それを送ったりもした。

 息子は昭和14(1939)年9月に日本に行き、それからしばらくして戦争が始まった。戦時中はもっぱら手紙のやり取りだけだった。彼の学生時代、私は皇民奉公会の顧問をしていた。「天に代わって不義を討つ」として学校は男子学生を戦争に行かせるために、家長に意見を求める通知を送った*2。同意した家長がその旨を学校に回答すると、その学生は戦争に行かされてしまうのである。世間の風潮では「同意しません」とは言えない雰囲気だった。しかし私の息子は戦争へ行く気はさらさらなかった。だから私は何の回答もしなかった。

*2 外地から来た学生だと、親が同意さえすれば、学校が親に代わって召集令状の手続きをするなどしていたのかもしれません。

 息子が卒業して間もなく、終戦になった。息子は台湾へ戻る戦後最初の船に乗って帰ってきた。のちに聞いたところでは、その船には李登輝も一緒だったらしいが、よくは知らない。
 その後、台南病院の外科に勤めた。国民党政府は日本の医師免許を認めていたので、息子は台南病院勤務のほか、裁判所法医、鉄道嘱託医など多くの役に就いた。
 私は息子にこう言った。「医者はみんなから尊敬される仕事だ。それに慣れると、傲慢という職業病にかかって、社会に適応できなくなる。だから自分で開業して、人に直接奉仕しなさい」
 善化には外科専門の医者がいない。息子は考えた結果、地元で開業することにした。私は大通りに持っていた土地に、善化で初めてのビルを建ててやった。こうして開いた「孫外科」には入院設備や手術室、放射線室などを備えていた。

 彼は現役時代に日本を旅行した時、広島のある団体と知り合った。その折に彼らから「いずれ無医村で診療してもらえないか」と提案された。そこで医院経営を引退した後、しばらく日本で僻地診療にあたった。私も時々息子を訪ねていった*3。
 私は若い頃、「年取ったら日本で暮らしてみたい」と夢見たことがあった。当時、日本は台湾より進んでいたので、そう考えたのである。その夢は思いがけず、こうして叶ったのだった。

*3 「息子が広島で仕事していたことがあり、しばらく滞在した」と言って、広島県の住所の名刺を見せてくれたことがあります。

娘のこと

 娘は近所に住む友人の子だ。子だくさんの家なので、一人もらった。やはり赤ん坊の時にうちへ来た。台南女中(戦前の台南第一高女)を卒業後、日本薬科大の博士号を持つ青年と結婚。彼はのちに国立成功大学(台南にある名門国立大)の客員教授にもなった。

国立台南女子高級中学=戦前の台南第一高女。
日治時代から今に至るまで、台湾南部では屈指の名門女子高です。


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