見出し画像

代書筆1 福建から移民して9代目

はじめに

台湾の日本統治時代は、明治28(1895)~昭和20(1945)年です。
 本文中の*や◎、( )内は、私の注釈です。
紹介する写真のうち、古写真の多くは『代書筆 商人風』と『珍蔵 湾裡(善化の旧名)街百年影像』(2007年 善化・喜年年撮影出版)より抜粋しております。

 孫江淮氏が生涯を過ごした善化は、台南駅から北へ電車で30分ほど。今は台南市に組み込まれていますが、小さくてのどかな町です。観光地や名産は特にありません、強いてあげるなら町の中心部にある、慶安宮という廟ぐらい(表紙写真。日本でいう「国指定史跡」)。
 宮の詳細は拙著『台南夜話』の「台湾孔子」をご覧ください。

 基本的に、文章の順序はオリジナル通りにしています。そのため、似たような内容の記述が繰り返されることがありますが、あえて編集はしませんでした。

生家と父のこと

 私の先祖は、清・乾隆年間*1に福建省泉州府・同安県から台湾へやってきた。私で9代目にあたる。祖父は今の台南空港近くに居を構えていた。祖父母とも教育を受けたことはなかったが、大林一帯の地主で、サトウキビ畑や養魚池も持っていた。祖父母と叔父は早くに亡くなったので、家のことは叔父の妻がやりくりしていた。この人は台南の出で、頭が切れたので近隣の尊敬を集めたという。

*1 第6代皇帝・乾隆帝。1735~95年の在位中は清の黄金期で、政治が安定したことから人口が増えました。一方では、農民の土地不足も深刻になり、台湾に土地を求めて移民した人(福建人が最多)も多かったのです。

 父は同治10(1871)年生まれ。子供の頃は台南の中心部まで漢文を学びに通った。「秀才」(科挙の科目の一つ)を受験するつもりだったが、日本統治が始まって科挙は廃止された。父は少年時代に弁髪をしていたが、日本人が開いた国語伝習所(日本語学校)に入所する時に切り落とした*2。

*2 台湾人の反発を招くので、総督府は弁髪や纏足を厳しくは禁止せず、やめるのはあくまで「自主的」としていました。そのため統治開始後10年以上経っても、弁髪や纏足の人はかなりいたそうです。

 父は長男だったが、仕事の関係で大林から善化へ移った。大林にいた頃、一度結婚して兄が生まれた。その妻が病死した後に善化へ移り、私の母と再婚した。母は善化の人で、子供の時から纏足(てんそく)をし、教育を受けたことはなかった。母は前夫の死後、娘を連れて父と再婚した。両親はこの異父姉を、兄のいいなずけにした。

 父は科挙の廃止後、時代の変遷を悟った。それでまず台南の国語伝習所*3に通った。台南の名士たちも相当来ていたという。半年学ぶ甲組と4カ月の乙組があり、父は乙組に入った。そこを修了すると、台南庁の巡査補になった。日本人巡査の補佐のことで、28年勤めあげた。仕事は主に戸籍関係だった。戸籍管理のほか、謄本を書いたり、通訳をした。

*3 明治29年から台湾各地に設けられ、明治31年に廃止。

 父は温厚でまじめな性格だった。職権を利用してワイロを取るとか、得をしようという考えは持たなかった。給料が安いため、何度も辞めようとしたが、毎回庁長が引き留めた。
 ある時、善化製糖で土地課長を募集していたので転職しようとしたが、またもや引き留められた。日本時代、製糖会社の土地課長(台湾人からサトウキビ畑や工場用地を買い取る仕事と思われる)はたいてい台湾人だった。台湾人と交渉しやすいうえ、どこの土地を買えるかよく知っているからだ。土地を安く買い取り、製糖会社には高く売りつけて相当もうける者もいた。(父にそんな気はなかったと思うが)巡査補の給料は最高額でもたった16円と安く、家族を養うのは大変だった。大正12(1923)年にやっと退職できたのは、台湾の治安が安定して警察の職権はだんだん縮小していったためだった。

 その後父は代書屋に転職し、収入は380円になった。代書屋になった理由は、金銭面もさることながら、巡査の通訳をしていたので法律にも通じるようになったことが大きい。当時の台湾の衛生状態はひどくて、伝染病死が多かった。みな死亡手続きを父に頼みたがった。どの地域でも代書屋は「日本人2人、台湾人1人」と決まっていた。善化の台湾人代書屋が亡くなって、父はやっとそのポストに就くことができた。父は人を雇わず、全ての業務を自分でやっていた。夜に文書を作成し、昼は届けていたが、かなり忙しそうだった。次第に目をやられて、とうとう代書業を閉めた。昭和9年、64才で死去した。

いただいたサポートは、記事取材や資料購入の費用に充て、より良い記事の作成に使わせていただきます。