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代書筆4 私の結婚~ハタチで「晩婚」

 大正10年、私は公学校を卒業。善化には高等科がないので、私は同級生たちと台南に行って進学準備をした。そうして、台南商業の補習校に入って英語を学んだ後、台北工業学校を受けることにした。
 受験の前日、私と同級生たちは善化駅から汽車に乗った。台北までは昼間だと10数時間かかるが、夜行急行は7時間だった。この年は、受験者1800人に対して合格者はたった30人という激烈なものだったが、私は合格した。ところが悪いことに、この年は父が目を悪くして仕事に支障が出てきたので、進学自体が無理になってしまった。

妻を迎える

 進学できなかった私は、家に戻って保甲書記になった。のちには、商売もいろいろ始めた。

 結婚したのは大正15(1926)年、20才(かぞえ年令につき、実際は19才)の時だ。妻は同い年。当時は男は15,6才、女は13、4才で結婚することが多かったので、私たちは晩婚といえる。
 結婚前に会ったことはない。妻の父がやっている店に父が茶飲みやおしゃべりに行くうちに、妻を見て気に入り、私の相手に決めたそうだ。私の世代では、男女は結婚前に会ったことがないことが重視された。結婚式は古式にのっとって行われた。祝宴は2回あり、1回は男性客、2回目は女性客。結婚して3日目に新婦は里帰りして、新婦側の客や新郎の家族や友人を招く。 
 式当日、妻はチーパオ(いわゆるチャイナドレス)を着て、刺繍した靴をはき、頭にはベールをかぶるという、中洋折衷の格好をしていた。出席者たちはみな台湾服を着ていた。

1926年の結婚写真。身長は孫氏180cm、奥さんは156cm。

当時の日常生活

 当時、主婦の仕事は大変だった。台所は広く、煮炊きするカマドは大きい。柴で火を起こし、乾いたサトウキビの葉を燃やす。火は簡単につくが、サトウキビ葉はすぐ燃え切ってしまうので、たくさん必要だった。妻は葉をもらいに、善化製糖の工場へよく行った。そこは妹婿の勤め先だったので、融通がきいたのだ。一般人はもちろん入ることはできない、だから山で小枝を取ってくるか、田畑の雑草を干したものを使った。木炭はお金のある家しか使えなかった。

 その頃、白米はあまり口にできず、あっても品質は良くなかった。一般家庭の日常食は、干しイモを入れたカユ。夜にサツマイモを細く切っておき、朝は戸外に並べ、昼間ひっくり返す。こうして作った大量の干しイモと、少しの米を一緒に煮る。このカユは、まあまあおいしい。
 食事の時はまず男が先に食べる。老人と子供も、米のあるところを食べてよかった。女性が食べる頃には、イモしか残っていない。米が買えない人はイモだけ煮たり、時にはゆでたサツマイモの葉を混ぜていた。
 おかずは塩漬け豆ぐらい。豆をゆでてから炒って、それから塩漬けしたものだ。これを食事のたびに少しずつ食べる。善化は海に近いので米が育たず、できる穀物は麦類だけだった。
 1930年に嘉南大圳*1ができて、米が作れるようになった。ただしこれはずっと後のことだ。

*1 台南北東部に昭和5年に完成した烏山頭ダムから無数にのびる水路の総称。これによって、不毛の地と呼ばれた嘉南平野は農耕地へ生まれ変わりました。詳しくは「八田与一」で検索してください。

 水にも不自由した。善化の西7kmは海なので、井戸を掘っても海水が混じって飲めない。集落全体でため池を掘り、洗濯や家畜洗いまで一緒にするので不衛生だった。民国58(1969)年に水道ができて、暮らしは本当に良くなった。
 
 一般家庭では、同じ洗面器とタオルを家族全員で使いまわすのが普通で、来客は主人と同じタオルを使う。だから眼病がうつりやすかった。多くの家では歯ブラシも家族で1本だった。
 私の家はいくらかマシで、タオルと歯ブラシはもう少しあったし、風呂桶も大きいのが一つあった。都市部には銭湯(1回3銭)があるけれど、田舎にはない。生涯に一度も入浴しない人も結構いた。日頃は体をこするだけなので、ノミやシラミがいるのが普通だった。
 当時の衛生観念はひどいものだった。が、貧しさが原因なのでやむをえないところもある。庶民は家畜と一緒に住んだ。人間はワラをひいた竹の寝台で休み、牛は床で寝る。人畜のフンが家の中にあるのが普通で、保正(村長)の家ですらそうだった。納屋のある家だと、牛フンを積み上げて上にワラや柴を載せて保管しておくので、中にはネズミがたくさん住みつき、本当に不潔だった。

 妻は3、4頭の豚も飼っていた。食用とお供え用で、たくさん育てればお金にもなる。豚のフンを乾かして養殖魚*2のエサにした。当時は全てが不足していたので、何でも利用した。便所のくみとり業者もいたが、わが家では農家が肥料用としてもらいに来ていた。タダであげていたが、その礼として年末には野菜を届けてくれた。

 妻は豚のほかにアヒルや鶏も飼っていたし、私が代書屋になってからはその手伝いもしてくれた。それ以外のことをする暇はなく、時折出かけるようになったのは年を取ってからだ。88才の時に骨折してから体が弱り、1年後に亡くなった。

*2 台南地区では、サバヒという白身魚の養殖が昔から盛んです。

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