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代書筆商人風

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台南北西部の善化で1907年に生まれ、2013年に106才の生涯を閉じた台湾人の回顧録の聞き書き。2008年に台湾で出版された同書を、私が日本語に訳し、解説を付けました。一庶民の…
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#善化

代書筆20・完結 孫江淮氏の思い出

孫氏が2013年に亡くなって、早10年になります。  初めてお会いした時の印象は、今なお…

代書筆19 百歳長寿の秘訣

 私は今年で100才になる(2007年当時)。台湾ではここまでの長寿は、わりと珍しいので…

代書筆18 わが師匠・広瀬秀臣

著者・孫氏の師匠だった日本人  私の代書業の師匠・広瀬との関係は深い。 広瀬は長く変わっ…

代書筆17 二二八事件

*二二八(に・に・はち)事件は、「戦後台湾における最大の闇」といわれる出来事です。 その…

代書筆16 国民党の台湾上陸

台湾人は中国兵をどう見ていたか  日本が負けた後、中国人が台湾に来た。その時はみな喜んだ…

代書筆15 さらば日本人

台湾人が恐れたこと  終戦後、台湾は中国に接収されたが、問題があった。「日本人をどうする…

代書筆14 終戦。そして・・・

戦時中の善化  戦争末期、米軍は台湾全土を空襲したが、善化は大都市ほどひどくはなかった。主に製糖会社がやられた*ものの、駅、鉄道、用水路は無事だった。ただ製糖会社では、1カ月分の砂糖がダメになったという。善化の町なかで1番ひどかった空襲では、500kgの爆弾が落ちた。地下3,4mまで吹き飛び、駅(1km以上の距離)まで破片が飛び散った。私は、B38機が機銃掃射で町を攻撃しているのも見たことがある。3階建ての家が跡形もなく破壊されてしまった。  善化に日本軍の部隊は駐屯して

代書筆13 日本時代の台湾社会

治安は良かった  全体として、日本時代の台湾は治安が良かった。派出所には警官が一人いるだ…

代書筆11 日本時代の旅行 前編

台湾島内の旅  私の一番の楽しみは旅行、温泉、写真撮影である。子供の頃、父は暇があると私…

代書筆10 日本時代の住まいと交通

昔の住まい  かつての住まいは、どこも簡単で粗末だった。土をたくさん使って造り、とにかく…

代書筆8 日本時代の衣服事情

服は手作り  日本時代、着るものはみな粗末だった。たいていの人が、ツギの当たった服を着て…

代書筆7 代書業を始める

「棺おけ以外何でも売ります」  私が当時よく使った店の宣伝文句が、「玉記は、棺おけ以外何…

代書筆6 保甲書記から商人へ

日治時代の保甲制度  大正11(1922)年4月、私は保甲書記になった。月給は6円。役場…

代書筆5 息子と娘~養子を迎える

 妻との仲は円満だったが、ついに子供はできなかった。当時の考え方では「不孝に三つあり、跡継ぎ無きが最も大」だったので、妻は大変悩み、私に「他の方をもらってください」と言い続けていた。日本時代は重婚が認められており、多くの男性が複数の妻を持っていた*1。妻の兄も3人の奥さんがいた。だが「何事も無理に進めるな、無理にやるとさらに悩みが増える」というのが私の考えだった。それに、子供のことで私の父も何も言わなかったので、別の女性をもらう代わりに、(結婚して3年余り経った頃)養子を迎え