映画「あんのこと」を観て思うこと。
あらすじ
21歳の主人公・杏は、幼い頃から母親に暴力を振るわれ、十代半ばから売春を強いられて、過酷な人生を送ってきた。ある日、覚醒剤使用容疑で取り調べを受けた彼女は、多々羅という変わった刑事と出会う。
大人を信用したことのない杏だが、なんの見返りも求めず就職を支援し、ありのままを受け入れてくれる多々羅に、次第に心を開いていく。
週刊誌記者の桐野は、「多々羅が薬物更生者の自助グループを私物化し、参加者の女性に関係を強いている」というリークを得て、慎重に取材を進めていた。ちょうどその頃、新型コロナウイルスが出現。杏がやっと手にした居場所や人とのつながりは、あっという間に失われてしまう。行く手を閉ざされ、孤立して苦しむ杏。そんなある朝、身を寄せていたシェルターの隣人から思いがけない頼みごとをされる──。
参照:映画『あんのこと』公式サイト|2024年6月7日(金)全国公開 (annokoto.jp)
誰が「悪い」のか
極端なまでの自己責任論と弱い立場の人たちが孤立しやすい核家族化といった現代の社会問題とそこで生きる人々のリアルな人間らしさをテンポよく生々しく描いている作品。未曾有の新型コロナウイルス蔓延という歴史的な出来事が、あっという間にわたしたちの生活を飲み込んだ瞬間が、その人間らしさをさらに浮き彫りにさせた。
一見、あんが「可哀想」で周りにいた大人たち(特に母親)が「悪かった」。あんは恵まれない、悲惨な環境の中で必死に生きた。
というストーリーではあるが、そんなに単純な話しでは終わらない。わたしが思うに、少なくともこの映画の中に根っからの悪人は一人もいなかったように感じる。
まず、あんの母親。
あんのことをママと呼び、虐待をし、金をせびっている。あんが売春ではなく、介護施設で一生懸命働いて稼いだお金もたやすく奪い取った。あんが幼いときから売春を強要し、小学校すらまともに通わせていない。あんが「あのような結末」になったのも元凶は母親のせいだと言う人も多いと思う。それが間違っているとは言わないし、言えない。
何故、母親はあんにそんなひどい仕打ちをするのか。
あんが憎かったからか?あんがかわいくなかったからか?
本当にあんが憎くて、ただの金ずるとしか思っていなかったのであれば母親と祖母と住んでいたごみだらけの荒んだ汚い部屋にはぬいぐるみはなかったと思うし、あんの遺骨を自宅に持って帰っていなかったと思う。
あんの母親は本当はあんを愛したかったのに愛し方がわからなかった、愛せる状況ではなかったのではないかと思う。
おそらく虐待や貧困はあんの母親の幼少期(それ以上もある)から連鎖していて、自身の満たされなかった母(あんの祖母)からの愛情を、あんをママという呼び方をし、親と子の適切な距離も保てず、歪な愛で満たそうとしていると感じる。
あんの母親もまた社会的に孤立し、頼るところがないため貧困から抜け出せず、不安や怒り悲しみが唯一のよりどころのあんへ集中してしまっている。また、祖母があんへの虐待を見てみぬ振りをしていることも、もちろん保身もあるだろうが娘(あんの母親)への後ろめたさもあるのではないかと思う。
1人では立つことも出来ないほどの要支援状態の祖母がいるにも関わらず、然るべき支援も受けられず、親子で性を売ることでしか生を保てず、娘は薬物に手を染めてしまっているという、完全に社会から切り離され、助けを求める方法もわからずに負のループを延々と彷徨っている。家族全員が限界を既に超えている。これは母親が「悪」なのだろうか。
次に、多々羅。
刑事という肩書を持ちながら、薬物から抜け出すための自助グループの代表を務めている。グループの受益者に慕われている人柄やあんを献身的に熱心にサポートする愛情深さが伺える。あんと一緒に役所に来訪した際、あんが公営住宅に住んでいて、年齢的に働き盛りの母親と祖母と暮らしているという理由で生活保護の申請を却下され激怒する。「困っている人を助けられず、何が行政の仕事なのか」と。
一方で、グループの受益者に性加害をくわえ逮捕される。刑事でありながら、薬物依存者を構成させるため親子でープの代表という権力を利用した悪質なやり方だと感じる。多々羅は法に触れた。被害者女性を傷つけた。
ただ、あんは多々羅に救われたことも、事実。多々羅のお陰で薬物から抜け出せた人々がいるのも事実。
多々羅が代表を務めている団体と同じような活動をしている団体も存在する。いわゆるNPO(Non-Profit Organization)と呼ばれる団体だ。特徴は利益に関して、構成員で分配することはできないという営利企業とは異なるルールのある組織だ。営利企業よりはあっとい的に母数が少ないため団体の不正や事件などは目立ちやすく、取り上げられやすい。実際、多々羅をモデルにした人物は性加害で逮捕されている。それは事実だ。しかし、多々羅が行っていた活動は行政も手の届かない領域をカバーすることのできるものだった。薬物依存はそう簡単に抜け出せるものではなく、決して楽な活動ではない。真剣に向き合った結果、裏切られることも少なくない。積極的にやりたがる人はあまりいないはずだ。誰かがやらなければ誰もやらないし、誰も助けてくれない。
さて、多々羅は「悪」なのか。多々羅が「悪」ということを議論したい作品なのか。多々羅を、団体を叩いて何が変わるのか。
そして、桐野や自助グループの職員。桐野がリークして週刊誌に掲載しなければ、多々羅が逮捕されることもなかった。多々羅が逮捕されなければ、あんの結末は変わっていたかもしれないと桐野本人が言っている。
物腰が柔らかく、困ったときは助けてくれる紳士的な人物が、実はリーク目的で多々羅に近づいていたと知り、多々羅と揉めるシーンもあった。葛藤がありながら報道するも、あんの最期を目の当たりにした時のショックや多々羅と面会した時の姿は確かな愛情を感じる。報道の好き嫌いは置いておいて、目の前の仕事に向き合った結果だった。
桐野は「悪」なのか。もっと何かほかにできることはあったのか。
さらに、ちょこちょこ登場する団体職員A。(特に名前は出てなかったのでAとする)多々羅の性加害に気付きつつ、特に行動に移したり口外したりしなかった。しかし、団体活動を支え、活動の存続を維持させた。
団体職員Aは「悪」なのか。誰が正しさを図れるのか。
わたしも、あんの母親だったかもしれない
本作では、あんの家族を筆頭に「社会的に弱い立場の人たち」がフォーカスされている。特に新型コロナウイルス蔓延でも顕著に表れたように、身動きがとりにくい高齢者やシングルマザー、後ろ盾がない非正規雇用で働く人たちなどから孤立し困窮していく。さらにこれらが掛け合わさったり、病気やけがなどの他の要素も加わることで深刻化する。
私は自分の努力ではどうにもできないことはあると思う。が、現代ではこれらを努力不足という風潮がある。
最も恐ろしいと感じるのは、そういった人たちは自身が困窮する可能性を微塵も感じられない、想像できないことだと思う。思いもよらない出来事であっという間に人間は困窮する。
誰もが先行きの見えない不安を抱える中、急に見ず知らずの他人のことを想い、無償で助けてくださいということに無理があるのかもしれない。もちろん私自身、高尚な人間ではない。でももし自分の大切な人が、守りたい人が困難に陥ったとき、誰からも手を差し伸べてもらえなかったらどう感じるだろうか。例えば自分が病気やケガで身動きが取れなかったり、なくなってしまったりして、どうあがいても自分が手を差し伸べられない状況だとしたらどうだろうか。目の前の他人は、他の誰かにとっては大切な人かもしれないということは忘れないようにしたい。
わたしも状況次第では、あんの母親のようになっていたかもしれないと思う。私の努力とは関係ないところで、私が気づかないところで誰かに支えられ、励まされ、守られて今があるからだ。
積み上げる、小さな力
社会の問題は深く、重く、複雑だ。解決を目指すことは、正直途方もない。
でも一人の大人として、誰かが困っていたら手を差し伸べられる人でありたいし、わたしも困っていたら助けてほしい。
今の子どもたちが大人になったときは、手を差し伸べあって生きていってほしいと思う。
だから小さな小さな力ではあるけれど、まずは私から。
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